愛の座敷牢

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「音楽を語る」とか宣いながら、ほんとは音楽を使って自分語りしてるだけでは

 これは、何か。

 そう、鍵盤である。この際「ピアノ」「キーボード」でも可とする。ある一定の法則で、白いのと黒いのが横一列に並んでいるよくわからない楽器である。ここまではリコーダーが苦手で音楽の授業が本当に苦痛だった小学生時代の僕でも分かる。

 ではこの「ド」の位置はどこか。

 ここである。白黒白黒白、と並んでいるところの、一番左側の白鍵が「ド」である。なので正確には赤い点から右に七つ分進んだ白鍵も「ド」なのだが、しるしをつけるのがめんどくさかったので勘弁してほしい。

 信じられない話かもしれないが、僕は割と最近まで鍵盤の「ド」の位置が分からなかったのだ。じゃあお前は小学生のころの鍵盤ハーモニカの授業や文化発表会をどう乗り切っていたのか、と問われれば、白鍵に直接ドレミファソラシドをサインペンで書いていたとしか言えない。クラスに2~3人はいたよね、こんな奴。だいたい字も引出しの中も汚いし、足も給食を食べ終わるのも遅い。

 2年ほど前の年の瀬に、家の物置から我が妹が大昔誕生日か何かに買ってもらったらしい、初心者セットという名の在庫処分品と思わしきペラペラな木材で出来た安物のアコースティックギターを発掘したことが切っ掛けで、ギターという非常にややこしい楽器をちまちま触るようになり、それと並行して音楽理論を少しずつ勉強し始めてようやく「ド」の位置を知った。

 

 この「愛の座敷牢」というブログは、その程度の音楽の知識しかない素人が運営している。それで「このブログは音楽を語るブログである」と、偉そうに宣っている。こんなにバカらしいことはあるだろうか。

 

 今更だが、このブログはこの記事を書くために開設されたブログである。

 なのでそれ以降の記事は「せっかくブログ開設したんだし、この記事しかないのも寂しいしなんか他にもかいてみるか」が興じて書かれたものだ。時給も発生しないのに。だから開設当初の自分には当然音楽を理論で捉える知識の土台は無いし、それは2年と約半年経った今でもあまり変わらない。さすがにギターを弾き始めてコードの成り立ちやスケールの概念、基礎的な奏法やリズムなんかは頭で理解してきたが、結局それも付け焼刃もいいところの稚拙なものであり、「音楽を語る」上での自分なりの理屈や理論の土台には到底なり得ない。

 なのでこのブログで書いている「自分の好きな音楽について語った」という記事の多くはその音楽性や演奏・歌唱の技量についてではなく、歌詞にフォーカスを当てたもので、それについて自分がどう感じたか、どういう解釈を持ったか、そればかりを連ねている。これは「音楽を語っている」のではなく、「その歌詞を読んだ自分がどう思ったか」を語っているのではないか、「音楽」を語っているのではなく、好きな音楽を使って「自分」のことを語っているだけではないか、という思いがずっと、タールのように内心に沈殿している。

 僕は「エモい」という若者言葉がどうにも苦手で、以前「そういうので音楽を語るのは失礼に当たる(意訳)」といった尊大なことを世界一騒がしい青い鳥のSNSにて宣ったことがあるのだが、結局自分も音楽を感情でしか捉えられていないのは立派なダブスタではないか、と指摘されたらそれはもう本当にぐうの音も出ない。心のどこかで自分がご立派な表現者であると勘違いしているが故の、浅はかな言動だったと猛省している。

 創作物に対する感想において、明確な理屈で捉えられていないものは、例えるなら数学の問題について採点している際に回答者の字が綺麗なことを褒めている様なもので、表現の良し悪しに関わらず等しく戯言でしかない。今まで明言したことは無いが、このブログを開設し、幾度となく真っ白な投稿フォームと向き合いながら、心のどこかでずっとそんなことを思っていたし、その「戯言」しか産めない自分を呪ってもいた。

 

 

 音楽を語る行為はどうあるべきなのか、音楽を語る際に混ぜ込んでいい自己の濃度はいくつまでなのか、どこからが「音楽」を語る行為で、どこからが「自分」を語る行為なのか。色んなアーティストや彼らが生み出した音楽に対して「文章」という媒体・表現を使って適切なアプローチを模索する中で、その境界にずっと悩んできたし、悩んで出来た結果の文章を自分で読み直して「多少叙情的にチューンしただけの自己紹介」に完結したそれに、幾度となくため息をついた。書けば書くほど、考えれば考えるほど、主観としての、音楽を通すレンズとしての「自分」が邪魔になっていく。アーティストの作り出した世界を使って、顕示欲を満たしたがる自己が邪魔をしている。語り部は自分である以上、結局どこかで自分が混ざるのはもう仕方のないことだとしても、その比率があまりにも大きいことにどうしても違和感があった。かといって自分が抜けた隙間を埋めるだけの知識も無いので、結局空いてしまった隙間には自己紹介を忍ばせるしかない。

 では完全にロジカルに、自己を切り離してどこまでも客観的に音楽をとらえることだけが「音楽を語る」行為なのか、と問われれば、さすがにそれは乱暴だとも思う。ただ、自分がこれまで書いてきた「音楽を語る」と騙った記事のすべては、音楽を使った自己紹介以外の何物でもなかったとも思う。完全に感情を切り離して、理屈と論理片手にそつなく語る方がよっぽど音楽に対して真摯だ。

 理屈と論理で武装した付け入る隙のない評論と、どこまでも根源的な「エモい」の一言との狭間にある無限のグラデーションの中で、「表現」という言葉をある種神格化するかのように言葉を模索し、自分なりの丁寧を重ねて一つ一つの記事を、音楽を語ってきたつもりだった。ただ結局、衝撃的な音楽を初めて聴いた時の、たった一言の「カッコいい」に勝る言葉は無いし、それ以上を捻出しようとすると誰も訊いていない自身のバックボーンが漏れ出してしまう。

 好きな音楽に対して何かを語りたいくせに、自分を媒介にしないと何も語れず、語れたとしてもそれは音楽ではなく「自分」を語っている。このブログで自分の好きな音楽のことを綴りながら、そんな思いがどうしても拭えず、ずっともやもやしたままだった。

 

 

 基本的に、音楽を聴くことは1人で完結する行為である。CDや動画サイト、サブスクで音楽を聴くことも、ライブに行くこともすべて含めて、たった1人で完結する行為だ。そこに他者の介入は必要ないし、重要でもない。だからそれ以上の行為は蛇足でしかないし、無理に意味を見出すことは、音楽という他者の創作物を使って自身の何かを満たす行為につながってしまう。

 それを踏まえた上で好きな音楽について何かを表現したい、語りたいのであれば、明確な付加価値が必要だという思いがずっとあった。他人の評価によって初めて見出されるものではなく、他でもない自分自身が読み手としてその表現を受け取った際に、その音楽そのものをより高い次元に昇華させてくれるような。例えば、文芸作品の文庫本巻末によく挿入されている解説がそうであるように、的確な語りはその作品をより深く理解するための助けになりうるのだと思う。しかしそれには知識と地に足の着いた理屈がどうしても必要で、僕はその知識が圧倒的に足りなかったし、今でも足りない。今になって少しずづ勉強しているとはいえ、それが自然と使えるくらいに身になるのは何年先のことか分からない。

 だから今の僕がやっていることは結局、自分という歪なレンズを通して、どこまでも主観でねじ曲がった像についてああだこうだ申しているという、他者から見れば野暮で無粋なことなのだろう。「言葉」が中心となっている文化では無い以上、音楽を「語る」行為は究極的に言えば不毛だ。

 しかし、理屈と論理だけでは囲繞できない、感情の話でしかとらえられない、人間の原初の階層である「快楽」に直接作用するような、そういう衝撃を内包した音楽はこの世に確かに存在して、それを自分以外の他者にもどうにか理解できるように可視化するのは「言葉」しかないのだと信じて、好きな音楽に対する表現を模索するのは罪ではないのだと思うし、それによって誰かが勝手に救われたり、共感したりすることは、それもまた音楽の持つ力による顛末の一つなのだろう。

 でも結局、はじめて聴いた時の純粋な「なにこれすげ~良い」「エモい」に勝る言葉はないし、それ以上の表現は刺身のツマにもならない。最近になってようやく、自分のやっていることがどこまでも不毛で、野暮で、無粋なことだと開き直ることが出来るようになった気がする。それを理解したうえで、これからも言葉を書き連ねたいと思う。音楽そのものへの理解も少しずつ深めながら。この記事はずっとそのことに思い悩んでいた自分にある一つの区切りを与えるための、禊のようなものだ。この文章こそ尊大な自分語りだとも思うが。

 

 

 悩んでもがいて、その先にうまれた表現に、他でもない自分が何らかの価値を見出せるのならば、その時改めて「音楽を語った」と言えればそれでいいのかな、と思った。