愛の座敷牢

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憂き世に麻痺を、俺たちにハヌマーンを

 人に向けて放つ負の感情を有した言葉は、刃というよりは弾丸だと思うことがある。脳で生み出し喉元に装填し、狙いを定めて声帯にて放つ、不可視の弾丸。相手を切りつける刃と違うのは、その銃弾は貫通することなく相手に留まり続ける可能性があるということだ。

 一度銃口から放った弾丸をもう一度装填することが出来ないように、切りつけて傷つけた事実を巻き戻すことが出来ないように、一度放ってしまった言葉を取り消すことは出来ないし、受けてしまった傷をなかったことには出来ない。何気なく、ついうっかり、カッとなって、という言葉を冠に、放った弾丸が何かを撃ちぬいたことから始まるコミュニケーションの齟齬は今日もどこかで起こっており、誰かが傷ついている。

 言葉は他者とのコミュニケーションを主体とした人間社会において必要不可欠なツールではあるが、その一方でふとした間違いで容易に他人を傷つける凶器にもなり得る。人の悪口を言ってはいけない、を今の世の親が子に教えるのは別にそれが国民の義務だからではなく、自身が放つ言葉が有する危うさを経験で知っているからだ。相手の放った弾丸で痛い目に遭ったこと、もしくは自分が放った弾丸で痛い目に遭わせてしまったことを知っているからだ。そのトラウマや後悔が少なからず本人の人格に影響を与えているからだ。

 親から言われた自己否定の言葉。友達や恋人とのすれ違い。担任の教師や親戚の叔父から受けた将来の否定。職場の上司や先輩の何気ない嫌味。インターネットで見かけた目を覆いたくなるような罵倒の文言の数々。生きていればいるだけ自身の身体を撃ちぬく弾丸の数は多くなり、その度に傷を負ってはゆるやかな時間の流れと共に再生する。撃たれる前の摩耗し擦り切れた人格を少しずつそぎ落としながら、そぎ落とした部分に新しい価値観や処世術を補填しながら。そうやって少しずつ純粋さを、優しさを捨てて、賢くしたたかになっていく。

 

 人に向けて放たれる弾丸は、大抵は身体を貫通して消えていく。時間と共に風化していく記憶と共に傷口は修復し、その時放たれた言葉を自然と許せるようになる。自分を撃ち抜いた言葉を忘れることはなくとも、確実に鈍化した痛覚とその時より割り切れるようになった性格は、思ったよりも寛大にそれを水に流す。だが稀に、自身の身体を貫通せずに、自身の中にずっと残ってしまう弾丸がある。

 切り付けられた傷も撃ち抜かれた傷もいずれは修復するが、自身の中に残ってしまった弾丸は容易には取り除くことが出来ず、傷が修復した後も些細なきっかけでじくじくと痛みだす。いっそ迷惑なほどに頑丈で、感情の乱高下程度では簡単に死ねない生き物である人間は、時に癒えぬ痛みを抱えつつ生きていかねばならない。

 もちろん抱えてしまった痛みと真摯に向き合い、また痛みを感じながら、自身の中に残った弾丸を取り除くことが出来る人は少なからずいるが、その痛みに向き合うことすら怖く、忘れよう、忘れようと逃げてしまう人もいる。これを書いている僕もそういう人間である。過去に自分の放ってしまった弾丸にも、自身の中に残ってしまった弾丸にも、ずっと向き合えず痛んだままだ。年々心に増えていく盲貫銃創を抱えて、些細なことでフラッシュバックした記憶でもがいている。膿んだ傷口を見て見ぬふりして生きている。痛みから逃れられないのを分かっていて逃げ続けている。

 弾丸を抱え込んだまま再生をしてしまった心をほじくり返す勇気を今更付けられない。犯した過ちに対する贖罪をする手立ても希望もない。ずっとこのまま刺さった弾丸と共に生きていかねばならないという、情けなく悲壮な決意をした時に、そういう決意をしてしまった人に、このバンドを聴いてほしいと思う。僕が大好きなバンド、ハヌマーンの話だ。

 

 

 ハヌマーンの話

 

 あのバンドが解散していなければ、今頃もっと。

 邦楽ロックを、というか音楽を聴いているリスナーには、そう思ってしまうバンドが少なからずいることだろう。日の目を見ずに道半ばで消えていったおびただしい数のバンドの中には、続けていれば音楽シーンをひっくり返すような大ブームを起こしたであろうバンドがあったかもしれない。革命に爪が届いたバンドがあったかもしれない。ハヌマーンもそういうバンドの一つだと思う。

 

 

 思う、というか、解散した今でも熱心なフォロワーを生み出し続けている化け物バンドで間違いはない。今でも満を持してサブスクが解禁されると、その日のTwitterのトレンドに上がるくらいにはその影響力を感じさせる存在である。

 切り裂くようなテレキャスターサウンドに耳の嗜好をすべて持っていかれて邦楽ロックにずぶずぶとハマっていった僕みたいなリスナーにとって、ハヌマーンは間違いなく義務教育。単なる1バンドとして数えるのはどう考えたって無理。自身の好きな音楽性を求めるための「指針」及び「基礎」となり得るスーパーロックバンドである。僕はもう、例えば救いようがないくらいにゴミみたいな性格をしている人がいたとしても、もしもその人がハヌマーンを愛聴してたとしたらそれだけで信用してしまうくらいには心酔している。ああそうだ信者と言ってくれて構わない

 とにかくすべてがカッコいい。鳴っている音のすべてがカッコいい。それだけ。上に挙げた猿の学生もそうだし、この曲もそう。

 

 

 イントロからアウトロまで聴きどころしか無し。滅茶苦茶なイントロ、ゴリゴリのリズム隊、ずば抜けて機知に富んだ歌詞。そしてとても弾きながら歌ってるとは思えないギター。未だに残っている公式サイトのバンドプロフィールにある「空間を切り裂くような緊張感」というフレーズがちょっと苦笑気味に紹介されることもあるが、というか僕も少なからずネタにしているが、一切過言のない事実である。

 とにかくこのギターの音が僕は本当に好きで、YouTubeで初めてハヌマーンを聴いた時に「ああ、僕がロックバンドが好きなのはこの音のせいだな」と漠然と思ってしまった。未だにこの独特な、ギターが唸るような歪み方をしたサウンドを軸に使ってるバンドを見つけると聴き入ってしまう。ナンバーガール系譜のこのサウンド、これよ、これこそが真の邦楽ロックだろ、と思っている節は間違いなくある。余計な言葉が要らないカッコよさ。

 加えてリズム隊の二人もゴリゴリに主役を食いに来るアグレッシブなプレイをしており、ギターボーカルが凡庸だったらそれだけで完膚なきまでに食われてしまう獰猛さを孕んでいる。どの曲を聴いてもベースは重たいしドラムはバカみたいに手数が多い。何気に初めて「鳴ってる音全部かっこいい」と思ったバンドかもしれない。三者ともにわかりやすく人外。

 

ワンナイト・アルカホリック

ワンナイト・アルカホリック

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 違法アップロードに頼らず音源上げれるの本当にサブスク解禁ありがたい

 とりあえずもう百聞は一見に如かず、百文は一聴に如かずっていうことでこのハヌマーンってバンドも美辞麗句を100並べる前に一曲聴けばわかるバンドなんだけど、このワンナイト・アルカホリックとかたったの2分半弱の中にこの世の全ての「カッコいい」が詰まってる。軽やかでありながら切れ味鋭いギターサウンド、重くもきっぱりとしたベース、ことあるごとにスネアを殴打するドラム、飄々としつつもなんとも言えない色気のあるボーカル、そして小説然とした叙情溢れる歌詞。すべてが絶妙な塩梅で、絶妙なバランス感覚で成り立っている。いやもしかすれば、僕の知らない部分の傍から見れば何か破綻しているのかもしれないが、たとえそうだとしても胸を張ってカッコいいものだと断言出来る。理屈が分かっていなくても本能で良いと言える音楽。

 彼らの放つサウンドも最高に好きなのだが、何より僕が愛してやまないのは何よりその歌詞。ハヌマーンのフォロワー、というかハヌマーンに影響された(であろう)バンドというのは、僕が知っているだけでも片手には収まらないくらいにいるが、そのどれもがハヌマーンには、ハヌマーンほどの存在感を擁するバンドにはなれなかった。演奏面の個々のスキルとか音楽的な観点で言っても色々あるのだろうが、僕は山田亮一の書く歌詞こそが一番の要点だと思う。この国には本当に多くの素晴らしき作詞家がいるが、僕は現在の彼が組んでいるバンドであるバズマザーズでの活動も含めて彼の紡ぐ歌詞が一番好きだし、おそらくこれはずっと先も変わらない。

 

トラベルプランナー

トラベルプランナー

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 消耗して イメージを使い切って

 新しい存在になれるのなら

 真夜中一人きり 呟いてしまうような

 僕は一節の言葉になりたい

 

 ハヌマーン――トラベルプランナー

 

 文学的で退廃的、叙情的でとびきりシニカルな言葉選び、そこに内包される隠し切れない人間臭さとやさしさ、独特かつ秀逸な比喩表現、驚くほどにメロディと融和する詩の世界観、そして語感やリズム感など口ずさんだ時の心地よさ。どこをどう切りとっても歯噛みするほどに魅力にあふれた、彼だけが紡げるこの歌詞。僕が同業者だったら嫉妬で首でも切ってたかもしれない。これはもう「才能」という言葉だけで片付けるのは失礼に値する。丹念に、丹念にセンスを磨かなければこんな言葉選びは出来ない。

 もともと小説家を志していた、というのも頷ける話だ。単純な語彙もそうだが、誰もそれまで歌詞の中で言語化しようとしなかった・あるいは出来なかった感情の描写が卓越して上手い。普通なら悲しい・虚しい・遣る瀬無いといった単一的な言葉でしか表現されない感情の澱を捉えて言語化する描写力というか。ものすごく俗っぽい例えをするなら、「あー分かる~ほんとそれな」と頷いてしまうようなことを、常人では出来ない言葉選びで書いている。僕らと見えている世界の彩度は変わらないはずなのに、僕らが見えていなかったものを的確に捉えている。

 

 アラーム音固定パターン1に 

 感情まで支配される朝は

 血でも魂でも何でも売っぱらって 

 たった1秒でも長く眠りたい

 

 ハヌマーン――トラベルプランナー

 

 上で挙げたトラベルプランナーも冒頭一発目からこれである。この無気力感。虚脱感。そしてなんといっても「分かる」歌詞。元も子もないことを書くが、山田亮一はハヌマーンにたどり着いてしまう人が好きな歌詞を書くのが本当に上手い。YouTubeをぐるぐる巡回しててハヌマーンにたどり着く奴なんて、ましてや好きになる奴なんて、その99%は過去に何かしら後ろめたいことがあって太陽に中指立てて生きてるような人ばっかりだ。ド偏見だけど間違ってないと思う。だって僕がそうだし。

 

比喩で濁る水槽

比喩で濁る水槽

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 単純な言葉選びや比喩表現のセンスだけでなく、歌詞全体で魅せる技法もすさまじいものがある。例えばこの「比喩で濁る水槽」。ここで語られる二人称の「彼」の皮肉な態度や「俺」との複雑そうな関係性は、間奏後の歌詞でぐるっと印象が変わる。「彼」に対して抱いていた恐れのような感情が、憐憫と身を摘ままれるような感覚に変わるそれに、まるで秀逸な叙述トリックを目の当たりにした時のような感動と、歌詞自体の孕む憂鬱に何とも形容しがたい気持ちになってしまう。

 とにかく全曲どこかしらにグッとくる言い回しや表現、世界観があり、それも聴くたびに持ち得る感情やその時の価値観によって色が変わる。聴いた当初はそこまでグッとくるわけでもなかったフレーズが、ふと聴きなおすと途端に色めく瞬間がある。そうやってのめり込んでいく。聴き始めてからもう何年か経つが、未だに定期的にハヌマーンばっかり聴く時期がくるのはこのせいかもしれない。聴きなおすたびに胸に深く刺さる言葉が増えているように感じる。

 

 上に書いた通りハヌマーンは、スーパープレイヤー3人によって繰り出される破壊的なサウンドと、山田亮一による唯一無二の歌詞、それだけでも十二分にずっと聴くだけの価値と魅力のあるバンドである。ただ、彼らの音楽を単なる音楽的欲求を満たすために聴いているかと問われると、それはそうなんだけど馬鹿正直にそう答えてしまうとちょっと色気が無い気もする。

 何を隠そう、僕は数年前、今までの人生で一番きつかった時期に、ハヌマーンを聴いて勝手に救われて生き延びたタイプの人間なのだ。ハヌマーンが無かったら冗談抜きで飛び降りるか首を吊るかしていた。「World's System Kitchen」と「RE DISTORTION」が県内のTSUTAYAのレンタルコーナーに置いてなかったら死んでいたかもしれないのだ。それくらい脆い魂が、今この長ったらしい文章を書いている。

 いったい僕は、音楽的なかっこよさ、音の爽快感、そして世界一魅力的な歌詞のほかに、何を求めてハヌマーンを聴くのだろう。数年前の僕は、いったいハヌマーンの何に救われたのだろう。彼らの歌と詩に僕は何を求めるのだろう。数年前、車の中で泣きながら幸福のしっぽを聴いていた自分のことをわざわざ思い出しながら彼らのアルバムをぐるぐるとリピートする日々の中で、ハヌマーンの歌詞を自身の信条のどこかに据えて毎日を過ごす中で、なんとなく思い当たったことが一つある。

 僕は彼らの音楽に、紡がれる詞と怒鳴られる歌に、いわゆる「麻痺」のような役割を求めているのではないか。今年の夏に読んだある一冊の小説がきっかけで、そんなことを考えるようになった。その一冊とは、泣く子も黙って首を振る稀代のアル中でありロックスター、中島らも氏著の奇書「アマニタ・パンセリナ」である。

 

 

 麻痺を求めて

 

アマニタ・パンセリナ (集英社文庫)

アマニタ・パンセリナ (集英社文庫)

  • 作者:中島 らも
  • 発売日: 1999/03/19
  • メディア: 文庫
 

 

 中島らもという人間を一言で説明するなら「アル中」である。今まで僕が読んだ著作のほとんどすべてに、何かの冗談のような常軌を逸した飲み方をして病院のお世話になっている下りがあるのだから間違いない。脳と肝臓のネジとブレーキを自我の製造過程で放り投げて、治すどころかそれに度数の高い酒をぶっかけて火を点けるような、破天荒にもほどがある生き方をしており、どんなに切羽詰まった〆切が来ても強めの酒をキメてラリってしまえば明け方には何とかなっているヤバイ人である。

 そんなヤバい人だから、なんかヤバイ人に好かれる。というか頭のねじがおかしな方向にぶっ飛んでいる人は大抵どこかで自然と中島らもを通っているらしい。有名どころで言うと米津玄師とか。かくいう山田亮一もどうやら中島らも読者だそうで、今組んでいるバズマザーズでは「心が雨漏りする日には」という小説タイトルをそのまま引用した曲を作っていたりする。他に引用している著作は思いつかないが、もしかすると「バクのコックさん」は「獏の食べのこし」からインスピレーションを受けていたりするのかもしれない。推測だが。

「アマニタ・パンセリナ」はそんなアル中が書いた、ドラッグについてのエッセイである。睡眠薬から大麻、シンナー、LSD、果てにはガマの油やアヘンまで、著書自身の体験だったり古今の作家の名著から引用したりしながら、古今東西のいろんなヤバいクスリについて語る、奇書と名高い怪作である。晩年は大麻取締法違反で逮捕され懲役を食らった著者らしいといえば著者らしいが、大麻の研究すら禁じられているほどにドラッグに厳しいこの国でよくもまあ出せたなと感心すらしてしまうほどぶっ飛んだ体験のオンパレード。出来ることならラリった著者の虚言、もしくは幻覚であってくれた方が幾ばくかマシではないかと言わんばかりの展開が、約200ページと少し続く。

 全15編の掌編からなるこの作品は、どの話の下りも悪い夢のようだが、個人的に一番引いたのはハシシュ(大麻製品)の下りである。ざっくりあらすじを説明すると、乳首とラッキョウが原因でドイツ人とオーストラリア人が喧嘩して、そのあといろいろあって数人でハシシュを回し飲みして、翌朝ラリった脳みそのままドライブに行って車を谷底に落とすという、C級映画の脚本家でももう少し頑張ってプロットを練り込んでそうなほどアホな話だ。こうやって文字に起こした僕も一体何を書いてるのか全く分かんない。

 

 そんな、常人の見た悪い夢が甘美なものに思えるほどにトチ狂った展開の続く一冊だが、その中で「人はなぜ快楽を求めるのか」という人間の根源的な欲求について、著者自身の言葉で語っている部分がある。僕はそこを読んだ時に、日付なんかとっくに変わった真っ暗な帰路の中、ハヌマーンを大音量で流して泣きながら車を走らせていた数年前の僕の、ぼろぼろだった心が少し分かったような気がした。以下、その箇所を引用する。

 

 ……それでも人々は往々にして「麻痺」に憧れる。

 それは現世というものが往々にして「憂き世」だからである。少し覚醒しておれば、この世の憂さも見えてくる。人は、覚醒とは正反対のものを目指すようになる。

 

 アマニタ・パンセリナ――中島らも集英社文庫

 

 氏の、有機溶剤(シンナー)の体験談を語る章の最後の方に綴られたこの一節に、僕がハヌマーンを飽きることなく聴き続けている理由が凝縮されていた。僕はハヌマーンを、というか痺れるほどにカッコいいものを堪能して、文字通りずっと麻痺していたいのだと思う。麻痺していたかったのだと思う。

 自身の信ずるカッコいいもの、気持ち良いものに触れて、何も考えず、何もかも捨てて、ただ快楽の涯へ逃げてしまいたかったのだと思う。生まれた時から間違いなくそこに在ったのに、どこか他人事のようにぼんやりと捉えていた巨大な憂き世がいざ自身に牙を剥いた時、立ち向かう術も勇気も養ってこなかった僕は、ただ逃げることしか出来なかったのだと思う。ハヌマーンに、カッコいい音楽に逃げていた。後々聴き返すたびに当時のつらさがフラッシュバックして吐きそうになってしまうほど、彼らの音楽を依り代としていた。

 仕事や人間関係で受けた痛みを、自身のふがいなさで生じた傷を、思いがけずぶつけられた言葉の弾丸による銃創ときちんと向き合って一つ一つ治療するのではなく、ゆっくりを膿んでいくそれをただ見て見ぬふりしか出来ない僕は、痛覚を麻痺させることをずっと選んでいる。それが間違っているとは分かっていても、それしか出来なかった。そういう意味では、僕にとってハヌマーンは強力な麻痺剤のようなものだ。聴いている間だけはその音に、歌に、世界に没頭できた。6時間後には何も変わらずにやってくる朝のことを考えずに済んだ。聴いた分だけ現実から遠ざかれる気がした。

 

 

 一人残らず呪い殺してやるぜ

 だけど今は黙ってヘラヘラ笑えよ

 

 ハヌマーン――アナーキー・イン・ザ・1K

 

 ハヌマーンのころも今のバズマザーズでも、山田亮一の書く詞からは時折、どうしようもないほどの死の匂いを感じることがある。突飛で奇想天外な世界とはそこまで縁のない、どちらかと言えばてんでダメな日常に寄り添うような彼の詞は、何の進展もなくただゆったりと腐敗していくだけの下り坂の毎日が、呆気なく死んでしまう未来と薄氷一枚程度の壁で隣り合わせになっていることをひしひしと感じさせる。

 どこか現実とは異なる位相にある言葉に思えるこの「死」という概念も、よくある現実逃避の手段の一種とも考えることは出来る。その気になれば、そして手段さえ選ばなければ、人間はいつでもどこでも自身の意志で命を絶つことが出来る。紐でも刃でも窒息でも落下でも。そしてどんなに辛く重く苦しいことがあっても、死ねばとりあえずすべてのしがらみから逃れることが出来る。自死は一人の人間の持つ最後の武器であり、逃げであり、そして救済である。メディアに扱われないだけで、今この瞬間も誰かが逃げるために、あるいは憂鬱が募って衝動的に首を吊っている。遠ざけられ隠される死は本来、現代人が思うよりもっと身近なものなのだろう。

 山田亮一の書く歌詞をもっとざっくりと、端的に説明してしまうなら、ふとした瞬間に生じた憂鬱や希死を、この上なく文学的に、叙情的に、耽美に書いたものだ。平坦もしくは緩やかな下り坂のまま続く憂き世の中に生まれた名もなき澱に触れ、寄り添い、持ち前の語彙と表現力で詞として可視化している。だからそこには、当たり前のように死の影がちらついている。悲壮も憐憫も輪廻の概念もなく、ただの代謝のように扱われるそのシニカルな詞は、見方を変えれば冷酷にも思えるし、どこか優しくも感じる。

 

若者のすべて

若者のすべて

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 青年と走る鉄塊は交差して

 赤黒い物体と駅のホーム

 復旧を告げる放送を聴きながら

 その光景を持って身震いする

 

 ハヌマーン――若者のすべて

 

「死」が現実逃避ならば、彼らの音楽によって与えられる・勝手に感じる「麻痺」もまた現実逃避だ。その違いは、死は終わりだが麻痺はまだ終わりではないかもしれない、ということだけ。かもしれない、なので本当はとっくに終わっているのかもしれないが、まあ結論を先延ばしには出来る。未来の展望がまったく見えない自分に、逃げ場の選択肢を増やしてくれる存在だと思えるのならば、精神が弱っているときにこれほど心強い支えは無い。死に踏み切れる勇気のない心しか持たぬのならばなおさらだ。

「痺れるほど」カッコいい、という比喩表現はもしかすると、比喩でも何でもないのかもしれない。憂き世にて麻痺に焦がれるように、苦悩と疼痛に苛まれるばかりの毎日にハヌマーンを求めていた。それは今でも、きっとこれから先もそうなのだと思う。

 

 

 見えないことにした

 

 絶えず流れ続ける暗いニュースに囲まれ、不景気の波に揉まれ、明るい兆しなんて退屈な校歌の退屈な歌詞でしか馴染みのなかった時代に生まれてから、自分を囲う世の中に大きな希望を抱いたことなんてほとんどない。あったとしてもそれはすべて一時的な気休めのようなもの、揮発性のものだった。些細な切っ掛けで根付いた鬱屈によく分からないまま肥料を流し込み、芽吹く自尊心に言われるがまま除草剤をぶっかけるような生き方を繰り返して、そういう性格こそが「謙虚」だと信じてやまなかった僕は、それが謙虚ではなく「卑屈」だと気が付くのに、思えばずいぶんと時間がかかってしまった。

 自分に期待をしていないので、自分のコントローラーを人生の運用が上手な人に任せて、残りの生はもうずっと自我に閉じこもって蓋をしてそのまま眠ってしまいたいと思うことが、少なく見積もっても週に7回くらいある。自分が自分であることが何よりもはずかしい。意志決定権も生殺与奪の権も全部他人に握ってほしい。面倒くさいことからずっと逃げていたい。世界一「責任」という言葉が嫌い。けれどどれだけ逃げても、何事もいつかはけじめをつけないといけないので、その度に盛大に失敗して、矮小な心に痛みを増やしてなんとか切り抜けている。健やかに育っていたはずなのに、知らないうちに随分曲がってしまった。背筋も性根も、取り込み、宿し、放つ言葉も。

 無数の言葉を通して世界を見ている我々には、無意識のうちに人生そのものが、知り得た言葉の数々に引っ張られていく性質があるのだと思う。思いがけない切っ掛けも運命的な出会いも、それに至るまでの自分の行動を作っているのはそれまで出会ってきた言葉であり知識であり、「思いがけない」も「運命的な」も言ってしまえば副産物に過ぎない。だからこそ誰もが自身にとって耳心地の良い言葉ばかりを求めたがる。それを求めるあまり知らず知らずのうちに誰かに突き刺さるような言葉を装填し、発砲し、時には他者のそれに撃たれる。そうして少しずつ傷を増やし、その度に時間の経過と取り込む言葉によって修復し、昨日の自分の有していた心が少しだけ強かに、賢く、ひねくれる。まるで免疫を獲得する身体のように。そうしてまた誰かを傷つけ、誰かに傷つけられる。時々心に抜けなくなった弾丸を残しながら。そうやって痛みの増えた心をかかえて、言葉に手繰られて日々を生きていく。この世界にいる誰もがそうだ。

 

 時折こんなことを考えることがある。よくある勧善懲悪の物語に出てくるような生まれつきの悪人なんて、世界のどこにもいないのではないか。誰もが世界よりほんの少しだけ、自分の方が大事なだけなのではないか。自分の手の届く範囲の外のことまで考えようとすると、自分の守りたいものと世界の都合が合わなくなってしまうから、無意識のうちに自身の世界を狭めていく。自身の手の届かない場所を最初からなかったもの、見えないものとするために。

 

幸福のしっぽ

幸福のしっぽ

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 それでもまだ人間でいたくて

 明日もまた同じ 場所へ同じ手段で行く

 誰もがまだ人間でいたくて

 見えないことにした からくりも種も仕掛けも

 

 ハヌマーン――幸福のしっぽ

 

 誰にも世界のすべてなんてものは分からない以上、誰の見る世界も必ずどこか不完全で、まったく見えない部分がある。世界のすべてを知るのに100年と少しの寿命は短すぎるのだ。だから人間には最初から、見えないものを自身の都合のいいように解釈する機能が、思考を放棄する機能が備わっているのだろう。年を重ねるごと、心が摩耗し擦り切れるごとにその機能の便利さに気付きゆく人間は、いつしかどんどん独りよがりになっていく。そういう人間に溢れて、世界は狭量になっていく。無数の言葉の弾丸が絶えず飛び交う世界になる。

 心無い言葉に撃たれ、その疼痛に苦しみ膝をついても、それでも死ぬ勇気が無いのであれば、生きている間は生きることしか出来ない。どれだけ億劫でも面倒でも、心が無数の傷跡に苛まれて痛んでも、死ねないのならば生きることしか出来ない。それに気付いた時に縋れるものが一つも無いのとあるのでは全然違う。ハヌマーンの音楽は、求める人にとっては心置きなく縋れるものだと思う。抱えてしまった痛みを麻痺させてくれる。

 

リボルバー

リボルバー

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 弾倉には一発 共犯者になってやるよ俺が 

 ぼーっとしてんなよ 行け リボルバー

 

 ハヌマーン――リボルバー

 

 この記事でこれまでずっと「弾丸」と表現してきた、心に突き刺さって取れないままの言葉は全て、悪い意味のものばかりだ。けれど生きている中で稀に、本当に稀に、具体的に言うなら数年に一発あるかないかくらいの頻度で、思い出すだけで肩の力が抜けるような、呼吸が楽になるような、いつもよりほんの少しだけ朝が怖くなくなるような、そんな言葉に撃たれることがある。稀にくるそういう一発を忘れずにきちんと自身の心の帳面に紡げるのならば、他の弾丸による痛みがどれだけ辛くとも苦しくとも、意外と人生捨てたもんじゃないなって思えたりするのだ。ハヌマーンの音楽に乗る詞は、それを求めてやまない人にちゃんと応えられる詞だと保証できる。

 

 生きていればいるだけずっと、色んな言葉に撃たれて生きていく。それでもずっと心に残ったまま取り出せなくなった、無数の弾丸の中にたった一発でも、こういう刺さり方をする弾丸があってもいいじゃないかと思う。少なくとも僕にとってハヌマーンはそういう音楽を作ってくれたかけがえのないバンドだ。これからハヌマーンに出会い、好きになる人にとっても、そういうバンドであってほしいなと思う。