愛の座敷牢

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好きになり損ねた夏の裏側で

 日々遍く物事の殆どすべてに何かしらの苛立ちを抱いている僕は、嫌いなものというものが大変に多い。渋滞、飲み会、あんかけ、足の多い虫、なめくじ、靴紐、朝のニュースの占いコーナー、坂上忍、そして野球部。何を隠そう僕は筋金入りの野球部嫌いである。

 

 野球というスポーツ自体も正直な話をすれば嫌いだけど、それ以上に野球部という存在を蛇蝎の如く嫌っている。この世で一番嫌いな人種といっても過言ではない。もし今世界で一番偉い人になれたら、世界各国の野球部部員を対象としたMKウルトラ計画を発動させてしまうかもしれない。何があってもこいつに権力は与えるな。

 義務教育の頃から社会人になるまで、僕はあの声と胃と態度のデカさだけが取り柄の野球部という生き物にずっと辛酸を舐めさせられ続けてきた。背丈が伸びても、ランドセルがスクールバッグになっても、あの独特なノリと、世界が自分中心に回っていると言わんばかりの傲慢さにずっと苦しんだ。いつか殺してやる、と心のナイフを握りしめ、臥薪嘗胆の思いを胸に秘めて日々の地獄を耐えてきた。結局復讐は叶わず、ただ苦い肝を舐めただけの学生生活はとっくの昔に終わりを告げたわけだが、今でも野球部への根源的な嫌悪感はぬぐえずにいる。親が好きで夏の間中テレビに映っている夏の野球大会の生放送も、人間ではない猿か何かの決闘だと思って観ている。

 長々とこんなこと書くと、今現在打って投げるだけの野蛮な部活に精を出している皆さん、及びその愛好家の方々から怒られるかもしれないが、その苦情は無垢な子羊だった僕の小中高の12年間に暗い影を落とし続けたかつての同級猿宛てに出してほしい。この世のどこかには弱きを助け強きをくじく心の綺麗な野球部員も生息しているらしいが、古くからの伝承や曖昧な見聞の中にしか未だ観測はされていない。言うなればネッシーツチノコと同じ類である。存在しないと言って差し支えないだろう。

 そんな僕の野球部に対する敵意への配慮は欠片もなく、世間は夏が来るたびにその滴る汗と涙、白球と青空のコントラスト、高校球児や監督、マネージャーたちの思い(笑)や情熱(笑)といった、青春の綺麗な上澄みっぽく見える部分だけを各種メディア向けに抽出・加工し拡散させ、毎年のように大盛り上がりしている。ほんとに毎年暑さで頭おかしくなってんだなと心の底から思う。いい病院を紹介してあげたい。

 

 そう、8月。夏真っ盛り、甲子園のシーズンである。今年はコロナでいろいろバタバタしてるらしいが、世間はやっぱり高校球児が大好きらしく、他の部活動の3倍くらい大きな抗議の声を聞いた。結果それっぽい大会が行われているのだから最早笑えもしない。「僕らの夏」という、自分たちが世界の主役と言わんばかりの大それたサブタイトルも気に食わない。何が僕らの夏だ。一生ショボい顔してろ。

 夏。すなわち野球部の季節。

 学生の頃の僕は当然嫌いだった。僕の全てを軽んじているかのような最悪の季節だった。今でも一番苦手な季節ではある。

  頭からつま先まで余すことなく何もかも気に食わない。暑いし怠いしなんか湿気でジメジメしてるし。何より野球部が教室でも廊下でもどこでもうるさいのなんの。セミですかと。セミなら1週間で死ぬのに野球部はいつまでも生きてるもんだから迷惑の度合いが違いすぎる。そもそもなんでこんな馬鹿みたいに暑い夏に一番知名度のある大会を開くんだろう。秋とかにやればいいのに。ドМなのかな?

 

 学生時代の夏を思い返せば苦い記憶しかない。仔細は省くが本当に苦い記憶ばかりだ。命を絶つほどでもないが、尊厳を挫かれつつ自分の生きるコミュニティやその中での役割を強いられる毎日。春先から始まる新しい学年、及びクラス替えした教室、こなれてきた新しいクラス内のカーストが固定されつつある中で、取り柄の無かった自分が教室という水槽にて、なぜか一緒に入れられた捕食者に食われないためには、道化を気取るしかなかった。自分は被食者側だと自覚する季節が大抵夏だった。言わずもがな嫌いだった。その環境も、季節も、その季節を取り巻く人や娯楽も。

 夏は家族で花火やキャンプやバーベキュー、仲間と一緒に海へ山へお祭りへ、ひと夏だけのセツナイ恋、そして野球部、もといそれに打ち込む若者たちの青春。そういうキラキラしたものを、世間はいつまでも、いつまでも好む。それを好まない人たちはおかしい、と言わんばかりの圧力をかけながら。

 ポカリスエットのCMを観るたびに全身から倦怠感が現れ吐き気を催し高熱を出して寝込む学生時代を過ごしてきた身として言えるのは、そういう切り取られた青春というのはあくまで上澄みであり、世間一般的に青春の舞台となる中学~高校、及びその教室の本質はもっとドロドロした、上澄みの部分に溶けきれなかった澱のようなものであるということだ。

 ネットと現実の境界が以前より格段に曖昧になり、菅田将暉が主演の学園ドラマが人気となる今となっては当たり前の認識だと思うが、その溶けきれなかった、世間に掬い取られる上澄みになれなかった泥の中でしか呼吸が出来なかった僕は、世間の「夏とは、夏の楽しみ方とはこうである、これが正しい、こうでなくてはならない」の無言の圧力に、人格のほとんどを否定されてきたように思う。はた迷惑な被害妄想の一種ですと片付けられてしまえばそれでおしまいだが、結果的に僕はこれで夏が嫌いになった。

 

 長々と約2000文字も使って「わたくしは野球部と夏が嫌いな根暗です」で済む自己紹介をやって、結局お前は何を伝えたいのか、と思う気持ちはもっともである。ふと思ったけどこのブログ、こんな感じの導入毎回やってないか? 

 そんな野球部が嫌いな根暗は夏大好きな世間に苛まれつつ性根と性格を歪め、些細なことでイライラしてしまう超短気社会不適合成人男性として申し分ないふざけた精神を意図せず育んでしまったわけだが、僕はそんな夏を人並に好きになれないことにそれなりの劣等感があったのだ。心の底にどうしても拭えない苦手意識がこびりついていた。夏が来るたびに気分が重くなった。周りと迎合できない自分が嫌になりつつも、そんな自分の気持ちを間違っていたと容易く捨てることも出来なかった。そんな、あまりにも不明瞭な内心でじめじめと沈んでいた高校卒業後の僕は、ふとしたきっかけでハマった邦楽ロックをひたすらに聴き漁る中で、ある一曲と出会う。

  

Don't Summer

Don't Summer

  • provided courtesy of iTunes

 

 今も、おそらくこれからもずっと愛してやまないバンドの、愛してやまない一曲。ハヌマーンの「Don't Summer」である。

 

 

 Don't Summerの衝撃

 

Don't Summer 君よ夏をしないで

もう彼の都合で夢を見ないで

君よ夏をしないで衝動に刺さる音楽を止めて 

ハヌマーン――Don't Summer

 

 何気ないきっかけで出会ったたった一曲の音楽が、たった一節の文章が、その後の自分の世界をすべて変えてしまうことはわりとよくある話だ。今自分が立っている座標というのは、父親の精巣に入っていた瞬間からそういう偶然の連続によって辿り着いたものだと言える。幾度となく間違いを繰り返し、数えきれないほどの苦虫を噛み潰した学生時代を歩んだ結果、このバンドと巡り合えたのだとするなら全てを許せる……気がする。気がするだけ。いややっぱ野球部だけは許せねえな、アース製薬は早く野球部ホイホイを売ってくれ

 過去記事でも幾度となく言及しているのでもう詳細に語ることは省くが、かつて大阪が産んだハヌマーンというバケモンのようなバンドの、「World's System kitchen」というこれまたバケモンのようなアルバムのトリを務めるバケモンのような曲である。

 ジャックナイフのような切れ味のギターリフ、両耳から鼓膜ごと脳を圧縮する音圧、思わず口ずさんでしまう秀逸な歌メロとシニカルで毒があって痛快でエキセントリックで文学的な歌詞。頭からつま先までキラーチューンぞろいのこのアルバムを最後を締めくくる、三人の卓越した技術を3分40秒に圧縮した、00年代邦楽ロック最高峰のバンドサウンド。聴いたら即入信、即Tシャツ購入、即コピーバンド結成。ハヌマーンに人生狂わされた人間だけで足立区くらいなら潰せる。マジで。サブスク解禁重ね重ね本当にありがとうございます。2020年8月現在嬉しいことランキング断トツの1位です。

 どこからどう聴いてもどう切りとってもカッコいいが、とりわけ衝撃的だったのはその歌詞。汗と涙が真夏の晴天のもとにきらめく純度の高い青春に唾を吐くような、生ごみと精液の匂い立ち込める薄汚い六畳間で一人毒づくような、夏の日差しに背を向け一人孤独に愚痴を吐くような、やりきれない陰鬱な歌詞。世間から見ればちょっと気取った根暗の散文詩、と片されそうなそれが、前述のバケモンバンドのよるバケモンのような演奏に乗っかっている。文句のつけようがないほどに、カッコいい曲に仕上がっている。

 これを聴いて僕は、心の底から許されたと思った。

 勝手に世間から抑圧され、勝手に世間に同調出来なくなり、勝手に夏の間ずっと上手に呼吸が出来なくなっていた僕を、気管支に青春の澱が詰まって窒息しかけていた僕を、ふわっと浄化してくれるような曲だった。目から涙の様に鱗が落ちた。こうあってもいいんだ、と勝手に救われたような気分になった。

 蹉跌まみれの青くも無い夏を無作為に過ごし続け、ひねくれてるのに逸脱も出来ずただ燻っていたその時の自分と同じような(歌詞を書いた本人はおそらく否定するだろうが)思想を持ちながらも、こんなにもカッコよくなれるんだ、カッコよくなっていいんだと思えた。思うことが出来た。

 甲子園を過剰に持ち上げる世間と無理に迎合しなくとも、野球部のノリについて行けずにクラスで孤立しても、ポカリスエットのCMが嫌いでも、カッコいいものはカッコいい。僕はハヌマーンのお陰でようやくそれに気付けた。呼吸できない夏に留まり続ける必要はどこにもないことに気付けた。前よりも清々しい気持ちで、夏が嫌いだと言えるようになった。彼らのお陰で、僕は随分呼吸がしやすくなったと思う。青春の軟泥から抜け出せたというよりは、違うレイヤーの存在に気付けた、という表現が近い。

 厭世的、という言葉を知ったのもこの頃だ。どこか自分とかみ合わない、噛み合ってくれない世の中を疎むことも一つの文化であり、立派な価値観であると、僕はハヌマーンを始めとする音楽でようやく実感できた。夏休みの昼中、家族団らんで覗くテレビ画面に映るような、光に溢れた朱夏の中ではうまく呼吸が出来ない人たちはどんな世代にも一定の割合いて、そんな人たちがきちんと呼吸が出来る場所も、目立たないだけであるのだ。マイノリティ、なんて名前で呼ばれるその場所で嘗め合う傷の味を覚え、居座るようになってから、僕はどんどん深化し、のめり込み、思想を深めた。

 

 ただ、まだ僕はこの頃夏という季節を、ロックスターが言った言葉通りに、平面的にしかとらえてなかったように思う。世間が「夏の楽しみ方とはこうである」と決めつけるかのような誇大広告を跋扈させるのと同じように、僕自身は「夏はこうだから嫌いだ」と、ある種決めつけの様に考えていた。おそらく野球部に関する苦手意識も同じようなものなのだろう。まあ、例えかつての同級生の野球部一人一人に、ハンカチ片手にしないと聞けないような悲しい過去が有ろうと生理的嫌悪感が拭えないとは思うが。何回頭の中で殺したかな、中学の野球部で鳴らしていた同級生を。

 そんな、腹の底から嫌いだった夏を少しだけ変えてくれたのも、思い返せばやはり音楽だった。この時期によく聴いてた思い出深い音楽の中に、こんな一曲がある。

 

もうじき夏が終わるから

もうじき夏が終わるから

  • n-buna
  • アニメ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

 

 この曲が収録された「花と水飴、最終電車」という5年も前に出たアルバムも、思えば随分長いこと聴いている。夏が来るたびにリピートしたくなる。新しい夏の切り取り方を、腹の底から嫌いだった夏の裏側を見せてくれた、大事な一枚である。

 

 

 夏の裏側で

 

 概念としての夏、という言い回しが、2年ほど前にTwitterで話題になった。僕はその頃はSNSというものにそこまで関心がなかったので、この言い回しを知ったのも最近なのだが、当時のツイートをまとめたtogetterを覗いてその言い回しがすとんと腑に落ちた。

 例えば夏風に揺れる縁側の風鈴とか、煙のように立ち上る大きな積乱雲とか、潮風と麦わら帽子とか、縁日と打ち上げ花火とか、うっすらと辺りを橙に染める夕暮れの中にどこか物悲しく響く蜩の声とか。そういう夏にしか観れない景色、夏にしか聞こえない音というものが少なからずある。騒がしく煩わしく暑苦しい、過剰に快活で空気の読めない年上の知り合いのような性質を持つ夏という季節の、静かでノスタルジックで、どこか物悲しい部分。つくづく僕は野球部とセットになってついてくる夏がどうしようもなく嫌いだが、夏という季節自体が持つこういう一面、及びそれを表す言葉の美しさを魅力的に思える心は持っているらしい。おそらく。

 

夢が言えないことに気が付いた

浅い夏よ 終わってくれよ

 n-buna――もうじき夏が終わるから

 

  種田山頭火や尾崎放哉、現代作家であれば道尾秀介あたりに影響を受けたと公言する彼は、夏の叙情的な一面を執拗に連ねつつ、独特の厭世観を含ませる歌詞を書く。

 今やネットで大人気のロックバンドヨルシカのコンポーザーとして活躍する彼を始め、米津玄師やwowakaが火付け役となったボカロブームから少し間を開けて、n-buna他数名のボカロPが頭角を現し始めた数年前。僕はこの頃腰を据えてボカロを聴いていたわけではないので具体的な勢力図などは全然分からないが、そんな中でも好んで曲を聴いていたボカロPが三人いる。このn-bunaと、ぬゆり、そしてバルーンである。

 

 

止まったままの雨は今日も日差しの中で乾いて
度を越した正体は無数の答えで網膜に溶けた

ぬゆり――錯蒼 

咽るような夏が嫌いだった
早く夜になれと願っていた
味気ない程、日々は無邪気に終わる

バルーン――夕染

 夏、という季節は暑苦しく押し付けがましい、世の中のすべてにおいて希望を見いだせる選ばれし人間のための季節である。分かり切ったようにそう断言するのは容易いが、同時に凝り固まってしまった固定観念を超えるには自分の力だけでは困難を極める。ある概念に対して恣意的に歪めてしまった認識を変えるためには、自分とは違う視点でそれを見つめる他者の視点が何より必要なのだと思う。

 どこか厭世的な視点を有しながらも、それぞれ何らかの感情を夏という季節に向けている彼らの綴る詞は、意固地になっていた僕に新しい視点をもたらしてくれるものだった。今まで知る由もなかった夏に由来する感情を、押し付けがましく感じることなく取り入れられた。落ち切ったはずの目の鱗が、まだ残っていたことに驚いた。

 ハヌマーンに音も詞の世界観も大きな影響を受けたと語るぬゆりの歌詞には、Don't Summerに起因するような夏に対する忌避感が見え隠れしながらも、どこか夏の有する叙情性に執着するような雰囲気が感じられる。熱されたアスファルトの匂い、白昼の蝉しぐれ、湿り気を帯びたまとわりつくような熱気。平面的に捉えればただ疎ましいだけのそれを淡々と綴る彼の立つ場所もまた、同じ夏なのだと思うと、それに執着するだけの見えない魅力があるのだと思うし、それをなんとなく理解できるような気もする。

 バルーンの書く詞は上記二人と比較すればそこまで夏に対する執着心というものは感じられないが、それでも節々に挟まれる夏の描写には悲壮感ややりきれなさ、寂寞とした雰囲気がうかがえる。独特な言語感覚で紡がれる彼の詞の根幹には、やはり夏という季節の、ふとした時に見せる胸がぎゅっとなるノスタルジーがあるのだと感じる。

 

 ある種の概念に抱いてしまった負の感情を絶対的な解答だと思い込むのは極めて楽である。見たくないものを見ず、触れたくないものに触れず、どうせ嫌いだからと遠ざけて好きなものだけを視界に入れ続ける。それ自体は間違ったことではない。無意識的に取捨選択を繰り返しながら長いようで短い生涯を絶えず歩み続ける僕らが生きる上で必須ではない物事に使える時間は有限なのだから。一度嫌いだと認識したものをもう一度捉えなおし、1から見直すのは相応に労力が要る。夏が嫌いだ、という認識を変えなくとも、不自由することなく生きていけるのだ。

 けれど、僕がただ嫌いだと言っていた夏にも色んな一面がある。暑さ、物悲しさ、きらめき、寂しさ、煩わしさ、切なさ。人類がそれぞれの季節に風情を感じるようになってから幾星霜を経て今に至り、その過程で取り込んだ多彩な感情が、数多の文化を創り出している。僕が嫌いだと語る夏は、あくまでそれの持つ一つの表情でしかない。僕はn-bunaを始めとするミュージシャンたちが描く夏に触れられたことで、ようやくそれを理解できたように思う。未だに苦手な季節ではあるけど、嫌いだと思ってしまうことは減った。

 このように音楽は、その物事を改めて捉えなおすための労力を軽減して異なる思想・価値観に触れさせるという点に関して、他の娯楽より格段に長けているのだと思う。

 鬱屈とした学生時代を根に持つあまり、好きになり損ねた夏の裏側を見つけるのに、思えば随分と長い時間を掛けてしまったように思う。でもだからこそ広がった視野も、見える景色もあるのだろう。少なくとも今、夏の暑さは前ほど嫌いじゃない。

 

 

 被食者ならば

 

Dizzy Trickster

Dizzy Trickster

  • provided courtesy of iTunes

 

ああ みんなが大好きな物語の中じゃ

呼吸がし辛いんだね

UNISON SQUARE GARDEN――Dizzy Trickstar

 

  ライオンとシマウマの見え方の違い、ひいては肉食動物と草食動物の視野の違い、というものを、大昔に理科の授業で習った。もう十年も前に習ったことなので若干うろ覚えだが、かいつまんで言うとライオンは獲物との距離を正確に認識するために立体的に見える範囲が広く、シマウマは外敵をいち早く察知するために視野そのものが広い、というものだ。

  ずっと上で『自分は被食者側だと自覚する季節が大抵夏だった』と書いた。物心ついた時から何かに虐げられ、ささやかな尊厳を踏みにじられながら生きてきた僕は、何があろうと被食者の枠に入れられる生き物だったのだろうと思う。食われ折られないように常に気を張り、捕食者の視覚に入らないように息を殺すことに神経をとがらせる集団生活を今まで送ってきたし、これからもそれは変わらないと思う。

 

 音楽を含め、各種メディアの広告に乗っかる多彩な娯楽は、ほとんどが捕食者の側を向いている。その娯楽をストレートに受け止めることの出来る人たちの方を向いている。提示された娯楽を適切な距離感にて何の不自由もなく受け止めることの出来る彼らと、嫌いなものが多く素直に受け止められない自分を比較した時に、自分が持てる数少ない強みがその視野なのだと思う。

 捕食者から逃げるための視野ではなく、疑り深い自分が寄り掛かれる強度のある娯楽を探すための視野。これが絶対的な正解である、と決めつけて思考を止めないための、視野。それに加えて、一見趣味に合わないようなものでも一度引き受けれる程度の度量まで備えられたら最高だと思う。人間的に未熟なもので度量の方はまだまだだけど。

 もう10年近く前、野球部に虐げられた学生時代のことを未だに根に持っているほどのドの付くみみっちさをなぜだか捨てきれず、今でも週1くらいのペースでどう苦しめて殺すかを妄想している、自分でも嫌になるほどに腐った性根を抱えている僕が彼らと同じくらい音楽を含めた娯楽全般を楽しむためには、常に何かを探し、考え続けなければならないのだと思う。世間一般が提示する娯楽の中では呼吸がしづらいのならば、不自由なく呼吸が出来るレイヤーを見つければいい。音楽ならば、それは割と容易い。

 

 かつて好きになり損ねた夏の裏側で、僕は今年も息をしている。液晶画面の向こう側で雄たけびを上げる色の黒い男子高校生から目をそらしながら、今日も自分の世界と向き合っている。音楽の力で夏を克服できたように、いつか身を蝕む過去の記憶と決別し、高校野球に熱くなれる日が来るのかもしれない。今は一生来なくていいやって思ってるけど。やはりまだ視点が一辺倒でダメだ。

 嫌いで憎くて仕方ない全国の高校野球部諸君やそれを尊ぶ文化に対しても、野球部に入っているというむくつけき一面だけで捉えるのではなく、もっと趣味や好きな女の子のタイプとか、そういう人間的な部分を見つめて、見つめ、見見見うんやっぱ無理