愛の座敷牢

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 近所にあったTSUTAYAが閉店した。

 

 そのTSUTAYAは、書籍とCDが別の建物になっているタイプのTSUTAYAで、潰れたのはレンタル館の方だった。閉店の知らせを聞いて、レンタル館の方にトイレを借りる以外の用事で入ったのは果たしていつだろう、と考えてしまうほどには足が遠のいていた。自分の家から徒歩5分圏内にあるというのに。

 内情をよく知らないので適当なことは言えないが、一昨年に最大のフランチャイズ加盟店である「トップカルチャー」がレンタル事業からの全面撤退を発表したことからもわかるように、これだけサブスクが隆盛を極めている時代に、わざわざ店舗に訪れてCDやDVDをレンタルする文化は流石にもう流行らないのだろう。二度と時間が巻き戻らないように、人は一度得てしまった利便性をそう易々と手放すことは出来ない。

 かくいう僕もそうである。指先一つで自在にダウンロードが出来る快適さに心を奪われ、今やもうすっかり敬虔なApple Music信徒に成り果ててしまった。もはやCDを開封する手間すら惜しい。CDを借りてPCを立ち上げてiTunesを立ち上げてCDドライブを繋いでインポートしてスマホに同期して、ああ考えただけで実家に帰りたくなる。無理無理。

 

 閉店前に、一度だけその店に赴いた。

「閉店のお知らせ」と書かれた紙が店の前の自動ドアに張り出されていて、数日間閉店セールを行っていた。もうとっくにお店でアーティストのCDを予約することも、まだ聴いたことのないバンドのCDをレンタルすることもなくなっていた僕には、レンタル館に特に目的も無かった。単に書籍館で漫画を購入したついでだった。

 セールスランキング順に並んだCDの品揃え自体は最近のヒットチャートに沿っていたが、入店して向かって右側がCDコーナー、左側がDVDコーナー、奥に行けばR18コーナーという商品の配置は、僕がこの店に初めて訪れた時から全く変わっていなかった。書籍館の方は体感数か月に一度くらいのペースで配置変更をしているのに。

 

 右奥側のトイレ近辺にある、J-ROCKと銘打たれたコーナーを何となく眺めた。

 あいうえお順に並べられたバンドのCDは年季が入っているものばかりで、全体的に傷が多く、薄汚れている。同じくかすれかかった仕切り板に書かれているのは、かつての僕がこの店でCDを借りたバンドの名前の数々。andymoriUNCHAIN、アルカラ、クリープハイプGRAPEVINE椿屋四重奏NUMBER GIRLヒトリエフレデリック、そしてUNISON SQUARE GARDEN

 何を隠そう、YouTubeで偶然聴いた「天国と地獄」に衝撃を受けた僕がCatcher In The Spyを借りたお店がここである。ある意味では僕にとっての聖地と言って良いのかもしれない。もう聖地消えたが

 僕が高校生の時は4枚1000円、そのうち何を血迷ったのか10枚1000円という、破格の値段で旧作CDをレンタルさせてくれたこの店で、長時間吟味して借りたアルバムを、かつての僕はいったい何枚自分のPCにインポートしたのだろう。どれほどの楽曲を自身のスマホに同期させたのだろう。スマートフォンの容量内訳を示す棒グラフがほとんど「オーディオ」で埋まっていることを、かつての僕はどこか誇らしく思っていたような気すらする。

 この店がなかったら知ることの無かった音楽がたくさんある、とまでは言わないが、この店がなかったら聴くきっかけがなかった「かもしれない」音楽はたくさんある。10枚1000円という価格設定が、自分がまだ触れたことのないバンドに手を出すきっかけになっていた。時には余った枠でジャニーズのアルバムを借りてみたり、ボカロやアニソン、はたまた洋楽に手を伸ばしたりしていた。その中には自分には合わなかったもの、難しかったもの、全くもって琴線に触れなかったものといった残念な出会いも多々あったが、そういうミスチョイスを通じて自分の好みを固めていったという見方も出来なくはない。

 懐旧と寂寥とほんの少しの後悔が綯い交ぜになった心を抱えたまま、結局何も買うことなく店を後にした。思い返せばお世話になりっぱなしだったな、とマスクの下で独り言ちる。晩春、店の前の駐車場には、どこからか吹いてきた薄桃色の花びらが滲んでいた。

 

Good bye my JAM

Good bye my JAM

  • provided courtesy of iTunes

 

破壊しても壊れない場所だと思っていた

ずっとそこで俺を待っているって

子供みたいに疑いもしないで信じていた

ずっとそこで俺を待っているって

 

Good bye my JAM――バズマザーズ

 

 人の目には、いつか失われてしまうものしか映らない。

 この世に「不変」などなく、在ったとしてもそれは人間の目には映らず、人間がそれを概念として認識することは出来ない。人間の目に映るこの世の全ては、いつかすべて変化し、そして消えてなくなっていく。そういう風に出来ている。近所のTSUTAYAも、それを衰退させたサブスクリプションも、この文章を映し出しているデバイスも、それを眺める貴方も、この文章を記述する僕も、それらを包括するこの世界すらもそうだ。

 しかしそれはあくまで客観的・俯瞰的な視点にて語るから言えることであって、主観的な立場となると話が変わってくる。現在の自分は、これまでの人生の過程ですでに完成されたものであって、ここから先余程のことがあっても変わることは無い、と思ってしまいがちだ。加齢や経験によっていくらでも変化する余地はあると、これまでの過程で痛いほど分かっているはずなのに、自分の思想とあまりに乖離する言論を、半ば罵倒でもするように、強く拒絶してしまうことがある。

 例えば、価値観とか。

 

 僕個人の話である。

 僕はこれまでアーティストに対して、作る曲さえ良ければ当人の人間性は二の次で良い、と考えていた。ぶっちゃけ今でも少なからずそう思っている。

 さすがに懲役が付くレベルの犯罪を犯したとかだと考えるが、基本的にどれだけ人間としてどうしようもなくても、作る曲が良ければそれだけで評価されて然るべきだと思っていた。罪を憎んで人を憎まずとまでは言わないが、人間性と楽曲の良さは切り離して考えるべき、という価値観があり、今でもその価値観の根本は変わらない。

 本当に好きなアーティストなのでこういう例えに出すのもちょっと気が引けるが、たとえばPK shampooのヤマトパンクス。僕が言うのも何だが、人間として彼はわりとダメな方だと思う。思うが、それでもPK shampooを聴いているのは、ひとえにヤマパンのアウトなエピソードによる好感度低下を差し引いても彼の書く楽曲が素晴らしく格好良く、美しく、そして銀河巡礼概論が死ぬほど面白いからである。あれで曲もラジオもダメだったらアンチになってる。間違いなく。

 些細な火遊びが文春砲で白日の下に晒されたり、SNSでしょうもないことを呟いて炎上したり、そういったちょっとした事件とそれへの対応を見てダサいと思うことはあれど、その当人の作った音楽そのものの素晴らしさが揺らぐことは無い。異論があることは承知の上だが、これまでの僕はあくまでそれを別々のことだと、切り分けて考えることが出来た。

 世の中に星の数ほど存在する表現者の中のトーナメントで勝ち上がって、まばゆいスターダムに上り詰める一握りの人間はみな、どこかしら普通の物差しでは測れない強烈な個性があって、その個性がほんの少しよろしくない方向に傾きがちな人もいるのだろうと納得できた。

 

 反対に、どうしても拒否感のあるものもある。昔から政治的なステートメントを公に発するアーティストが本当に苦手である。これはミュージシャンでも小説家でも漫画家でも絵師でも俳優でも何でもそうだ。政治への積極的な参加は大いに結構だが、それを目に見えるような形で出さないでほしい、という思いがある。自分勝手な我儘だというのは重々承知だが、何というか、水を差されたような気分になるのだ。

 アーティスト、という存在を過度に神格化してしまうが故の弊害だというのは分かっているのだが、苦手なものは苦手なので仕方ない。極めて庶民的な例えで恐縮だが、焼き魚も刺身も好きだとしても、魚の小骨は本当に邪魔に感じることと同じである。鍵垢で言えとまでは言わないが、出来れば「選挙に行ってきました」くらいにとどめてほしい。僕が未だにアジカンをまともに聴けないのは、ゴッチがそっち方面で非常にめんどくさいから、というのがある。一昔前なら言い訳乙って言われてたな、実際言い訳です

 岸田はクソ! うんち! と小学生男子のように茶化すならまだいいのだが、長いアーティスト生活で自ずと鍛えられた豊富な語彙と、世の中の澱みを的確に捉えしその慧眼と、センシティブな話題故にどうしても過激に聴こえがちな語り口と、無駄に大きく強くなり過ぎた発言力が合わさった時が非常にマズい。大抵の場合、年中Twitterしかやっていない暇人どもに袋叩きにされ、見たくもない自分のTLにまで話題が波及するという七面倒臭い展開に陥る。自分の好きなアーティストがそのやり玉に挙げられ、ろくに曲も聴いたことも無いであろう人から、心無いバッシングを受けているのを見ると本当に死にたくなる。俺が。

 繰り返すが、政治的な話題を出すのは悪いことではない。政治的な話題をカジュアルなものにせず、反対に「政治」という生活の根幹を為すものを語る、という当たり前のことをタブーな雰囲気にしてしまった、この国のこれまでが悪い。それを変えていくのが影響力のあるアーティストの、ひいてはインフルエンサーの務めだと言うのも、大いに結構である。ただその旗振り役は僕の好きなアーティスト以外にお願いしたいというだけの話だ。

 

 まあ矛盾してるな、と自分でも思う。

 作る曲さえ良ければ当人の人間性はどうでもいい、と語りながら、政治的なステートメントを公に発信することは嫌う。政治観は人間性の勘定には入らないとでも言うのだろうか。むしろ中心軸寄りだろう。思想なんだから。

 ただ、本当にバカらしいが、これが音楽を聴くことが生活の少なくない部分を占めるようになってから、少しずつ醸成されてきた僕の価値観である。そこに嘘はつけないし、この根幹はこれから先も変わらない。そう思っていた。

 が、その価値観が少しゆらぐ出来事があった。出来事というか、情勢が。

 AIの急速な隆盛である。

 

 

 今やインターネットで一日たりとも見ないことのない、AIの話題。ここ数年で一番分かりやすく「人間の技術もついにこの粋に達した」を体現した概念ではないかと思う。

 例えばイラストの分野では、今更自分で練習するのも馬鹿らしくなるような高いクオリティのイラストを一瞬で生成できるAIが開発され、pixivにはそれを用いて作成されたイラストが氾濫し、絵師のモチベーションを岩壁を削る波のように蝕んでいる。

 例えば文章創作の分野では、chat GPTなどの文章生成AIの発展により、極めて短時間で任意の文章を精製できるようになった。仕事でのメール文書を作成する際に使っている例もあるどころか、自治体によっては正式に業務に取り入れている所も出始めているらしい。創作関連でも昨年、AIを使って執筆された小説が星新一賞受賞したそうな。

 業務で用いる文書やマニュアル化された作業など、ある程度形式化された物事への浸透は予想していたものの、ここまでクリエイティブな方面への浸透も早いとは思わなかった。このままのペースでAIが進歩するのであれば、人間が何かを創って提供することそのものが「酔狂」と言われる時代も、そう遠くはないのかもしれない。野崎まどの「タイタン」みたいな世界。

 

 では、イラスト、文章ときたら音楽はどうだろうか。

 こちらも負けじと目覚ましい進歩を遂げているらしい。2015年ではまだまだ稚拙な音楽しか作れなかった音楽制作AIだが、今ではその将来への影響を危惧され、海外ではAIに音楽を学習させないことを要求する声明が出されるほどの脅威と化している。自分自身が使用したわけではないので詳しいことは言えないが、その技術の進歩はとうに想像の域など超えているのだろう。すでに海外には、自身の作品にAIを積極的に取り入れているアーティストも存在する。きっと自分が観測できていないだけで、この国にも同じアプローチをしているアーティストはいるはずだ。すでにAI技術の数々は知らぬ間に我々の日常に溶け込み、我々は意識せずともその恩恵を享受しているのだから。

 

 音楽の中でも、我々(ここで言う「我々」とは、邦楽ロックやそれに準じるポップスを好んで聴く人間を指す)が常日頃聴いている邦楽に関して言えば、「コード進行」なる楽曲の雰囲気を決めるベース部分はもうとっくに開拓され尽くしているらしい。それでも毎日新しい快楽を開拓してくれる邦楽に音楽素人のワタクシは驚かされっぱなしだが、音楽識者からしたら似た曲ばかりに聴こえて退屈なのかもしれない。

 もう3年近く前の話になるが、ヨルシカの「盗作」をリリースした際のインタビューで、既存のポップミュージックについてn-bunaがこう語っていた。

 

僕のなかで思っているのは、そもそもメロディに関していえば、ポップ・ミュージックという枠組みの中ではオリジナリティというものは存在しないと思っているんです。今の世の中に生まれているメロディは、音楽の歴史の中ではどこかで流れたメロディである。もはや全てのメロディは十二音の音階の中でパターン化されて出尽くしている。

ヨルシカ『盗作』オフィシャルインタビュー<前編>より

 

 まあ天下のn-buna様が語るのであればきっとその通りなのだろう。だとすると、現代ポップスにおける表現と言うのはある観点から見ればすでに「底のあるもの」であり、これからの音楽生成AI技術の進展によっては、その辺の作曲家を吹いて散らすようなクオリティの「既存の焼き増し」を、従来では考えられないペースで量産する未来もあるのかもしれない。

 人間の仕事の大部分がAIにとって変わられる世界は、もうすぐそこまで来ている。前述の通り、イラストや文章制作の分野ですらそうだ。それに関する諸問題はさておき、音楽に関しても近い未来、まったくの素人が、自分の好きな曲を自分の好きなように作ることの出来る未来が訪れるとしたら、自分を取り巻く音楽は一体どう変わっていくのだろう。ミュージシャンの存在価値は、どこに見出せばいいのだろう。

 

 

 ずっと前から疑問だったことがある。

 果たして自分は何を持って、曲を「良い」と判断しているのだろうか。

 

 

 こちらはソードアート・オンライン主題歌でお馴染みの「Catch the Moment」である。歌唱は今をきらめく歌姫LiSA氏で、作曲は我らが田淵智也氏。これ以上ない、と言っても過言ではない黄金コンビである。もう6年前の曲らしいぜ

 この曲を例に挙げたことに別に他意はない。素晴らしき楽曲である。ただ、この曲を「良い」という心は本当に、楽曲に対する評価だけなのだろうか、ということがずっと疑問だった。もっと言うのであれば、自分は「曲」を単体で聴いているのではなくて、それを作ったアーティストが好きなことを前提として聴いているのではないかと。まったく同じ音・歌詞・構成の曲を、自分が全く好きではないアーティストが作っていたとしたら、そこまで好きではない歌手によって歌われていたら、本当にその曲が好きになっただろうか、と。

 もしこの「Catch the Moment」を歌っているのが、例えばYouTube shortでキモい声出しながらオムライス作ってるあの謎の男で、作曲者がまったく自分の好みの範囲外にある人だったら、まあおそらく好きになることはなかっただろうなと思う。

 ハヌマーンの元ボーカルがやっているバンドという情報を知らなかったら、バズマザーズを聴くことはあっただろうか。フィッシュライフのボーカルのソロプロジェクトということを知らなかったら、多次元制御機構よだかを聴くことがあっただろうか。トーマの別(新)名義という前情報がなかったら、Gyosonを聴くことはあっただろうか。

 

 

 なかったかもしれない、と思う。ハヌマーンに、フィッシュライフに、トーマにそれぞれ執着がなければ、彼らの今を知り得ることは難しかっただろうし、在ったとしても好きになるのは今以上に難しかったのではないか。僕は自分が思う以上にその曲を作ったアーティストを重視しているし、それそのものが音楽を取捨選択する際の基準になっている。

 自分の心の琴線を揺らす音楽に出会って、それを作ったアーティストのことを知る。細部の音を聴きとり、紡がれた歌詞の解釈をし、そこから価値観や大事にしているものを読み取り、自分なりに音楽を咀嚼する。それを何度も繰り返して、言葉と音の幻影を追い続けて、そのアーティストのどの曲を聴いても身体が揺れるようになった時、本当の意味で初めてそのアーティストが好きになるのだろう。普段何気なく発される「好き」とはきっと、様々な要素が幾重にも複雑に、多層的に、ねじれ、絡まっているものだ。自分が思っている以上に、ずっと。

 自分が有していた「作る曲さえ良ければ当人の人間性は二の次で良い」の価値観が、根本的に間違っていた、とは言わない。だが、そのアーティストの書く音楽に、詩に、それを出力する根源に惹かれた瞬間から、その音楽と人間性はどうしても密接に紐付いてしまうものなのだろう。自分が気にする、しないに関わらず。

 

 上で引用したn-bunaのインタビューには、実は少しだけ続きがある。

僕のなかで思っているのは、そもそもメロディに関していえば、ポップ・ミュージックという枠組みの中ではオリジナリティというものは存在しないと思っているんです。今の世の中に生まれているメロディは、音楽の歴史の中ではどこかで流れたメロディである。もはや全てのメロディは十二音の音階の中でパターン化されて出尽くしている。それでも僕は表現方法までは出尽くしていないと思っていて。メロディの動きだけじゃなく、歌詞や楽器や構成のような複合的な要素が組み合わさった中で、偶発的な美しさがそこに生まれると僕は思っているんです。

ヨルシカ『盗作』オフィシャルインタビュー<前編>より

 

 人間には到底追いつかない、ものすごいスピードで学習とアウトプットを繰り返す人工知能でも模倣できないものが、そのアーティスト自身が楽曲を創るまでに歩んできた中で、自らの中で育んできた言葉選びや思想、価値観なのだと思う。

 歌う言葉と紡ぐフレーズ、そして何よりそれを彩り、それに彩られる音楽を構成する一つ一つの要素を味わうこと、「なんだか気持ちいい」を自分の言葉で言語化して、飲み込み、自分を構築する一片とすること。これから先、音楽生成AIの技術進歩によって、素人でもある程度自在に自分の「気持ちいい」と感じる音楽を創ることが出来る時代が来たとして、それによって単なる表面的な「好き」が駆逐されるとしたら、その中でアーティストの価値を見出す解答のひとつが、自分なりにそのアーティストの深部を覗きこもうとすること、楽曲の根源を紐解こうとすること、自分なりの「解釈」を持つことなのかもしれない。このインタビューを読む中で、そんなことを思った。

 

 

 

月曜日の夕暮れ、海岸でコーヒーを
飲む魔法使いのアルパカは、
雪の結晶でピアノの曲を奏でた。
雨の中で眠る紫色のヘリウム風船は、
透明な猫の歌声に導かれて、
木曜日にカレーを食べる夢を見た。

これはGPT-4で生成された、
なんら意味性をもたない文章ですが、
音楽というフィルターだけでヒトはきっと、
ここに比喩性を求めてしまう。
その推測こそ、人間らしさの根幹なのだ。

 

 これは椎乃味醂の「あなたにはなれない」という楽曲から引用した歌詞である。

 ボカコレ春参加曲として投稿されたこの曲の、ポエトリーリーディング部分として書かれた上記の歌詞を見て、本当に痺れた。この時代でもうこんなにAIを上手く使いこなすアーティストがいるのなら、AIの隆盛にそこまで怯える必要もないのかもしれない、と思ってしまう。最高。

 邦楽ロックを好んで聴くようになってから、この"一見意味のない文字列にどうにか意味を見出す"という、極めて厄介な性にずっと振り回されているような気がする。これをこじらせて、気付けば結構な数の記事を連ねた。まあこういうのは例外だとしてもだ。その節は本当に申し訳ありませんでした。この記事でバカみたいに熱弁した「ラバーバンドはいらない!」の価値観も、いずれ変わっていくのかもしれない。

 すべては変わりゆく。音楽の在り方も、それを聴く自分も、それらを内包する世界すらも。変わることがないのは過去だけで、未来は失われるために存在する。やがて訪れるかもしれない、果てしなく大きなシンギュラリティの奔流に呑み込まれた時に、今と同じように好きな音楽と付き合っていくのはきっと難しいだろう。だからこそ思考を止めないこと、そして出来れば自分の言葉で言語化し、取り込み続けることが大事なのだと思う。

 

 そう考えると、一時のノリでブログという媒体を選んだにしては、わりと自分の性に合っていたのかもしれない。そんなことを思った50記事目でした。

 いつもありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。