愛の座敷牢

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眠る冥王に花を

 

okmusic.jp

 

 活動休止の発表の後これを読んで、純粋に、オブリビオンの歌詞はどんな気持ちで書いたんだろうなと思った。

 

 

 きっと何百年も そして何千年も 繰り返されてる

 あの約束のように 塵や彗星のように 忘れ去られて

 僕らは消えていくように出来てる

 

 オブリビオン――THE PINBALLS

 

 

 青天の霹靂、とはこういうことを言うのだろうな、と身をもって実感した気がした。脳天に雷が落ちたような気分だった。7月、うんざりするほどに暑い毎日をただ漠然とやりすごす中で、唐突に発表された活動休止の知らせをナタリーからの通知で知った。何かの間違いだとは思わなかったが、出来ることなら自分の幻覚であってくれ、とは思った。

 当たり前にそこに在ったものががらがらと音を立てて崩れていくような心地で、お通夜ムードになったTwitterのタイムラインを眺めていた。小粋なジョークも剽軽な立ち振る舞いも、全てが空回りしてしまうその日のタイムラインで、自分の思いの丈を綴ろうとしても、なにも上手くいかなかった。後日ツイキャスを使って率直な感想は述べたものの、募るほどの思いを20分そこらで語れるわけもなかった。なぜツイキャスなんてパリピなものを唐突に用いたのかは分からない。気が動転していたのだと思う。

 いつかちゃんと自分の言葉にしよう、言葉にしようと思いながら、気が付けばもうとっくに夏は過ぎ去ってしまい、活動休止前最後のライブがもう明日に迫っている始末だ。毎度のことながら自身の筆の遅さにはあきれるばかりだが、何を書けばいいのかをずっと迷っていたのも事実だ。

 正直言いたいこと、書きたいことは山ほどある。お疲れ様でしたとも言いたいし、勘弁してくれとも言いたい。ただまずは本当に、本当に大好きなバンドだからこそ、止まってほしくなかった。子供のわがままのような思いであることは重々承知の上で書くが、僕はとにかくずっとバンドを続けて欲しかった。

 

 どれだけ好きなバンドだろうと所詮は他人事、僕がどれだけ泣き喚き騒いだところで活動休止が取りやめになるわけでもない。Zepp Tokyo Divercityというたいそう立派なライブハウスのチケットが捌けてしまった今ならば尚更である。ソールドアウトの知らせを聞いた時は率直に、今までどこにそんな数のファンが隠れていたんだと思った。きっとTHE PINBALLSのファンはニンジャなのだろう。

 ロックバンドを追いかけはじめて今まで幾度となく、バンド活動休止、ないし解散の報告は見てきた好きなバンド、好きだけどそんなに追っていなかったバンド、好きではないけど名前はよく聞くバンド。僕の観測外でもおそらく一年の間に星の数ほどのバンドが生まれ、そして同じくらいの数のバンドが死んでいる。

 有限の生命を持つ人間が構成しているグループである以上、ロックバンドには必ず終わりは訪れる。それが遅いか早いかだけの話 いつまでも何も変わらず、何の苦労も挫折もなく淡々と成功を続け、体力的な問題から次第に一線から退いていき、バンドメンバーの老衰がきっかけでその活動に終止符を打つ。そんな、ある種理想的な生涯を全うするバンドなんて僕が知っている中では一つも存在しない。どこかで崩れるか歩みを止めるか、誰も知らないところでひっそりと息絶えている。

 

 ただこの、THE PINBALLSというバンドに関しては、その言葉で終わらせるには少しばかり愛着が湧き過ぎている。こんな時期になっても滔々と、惨めったらしくこんな文章を綴っているのが何よりの証左だろう。

 

 

 こういう直接的な言葉を使うのはちょっと気恥しさが混じるが、掛け値なしに本当に大好きなバンドだ。今まで知り得た中で一番好きなバンドは何か、というこの世で一番不毛な問い掛けにもしも真剣に答えようとするなら、間違いなく選択肢の一つに入るバンドである。その思いは過去記事にて長々と語っているので出来ればそちらを読んでいただければと思う。今読み返すと長ったらしいことこの上ないが、個人的には比較的気に入っている記事ではある。

 この記事で僕は、彼らの魅力について「真っ暗に思える世界の中に散らばる微かな「カッコいい」を集め、それを音楽と詞によって昇華できるバンド」だと書いた。その解釈は未だに変わっていないし、最新のアルバムでもその感性が揺らぐことは全くなかったと感じる。薄暗く、大した救いもなく、どこまでも退屈で、心躍るような非日常も特に訪れることもなく、ただ淡々と続く日常の中で、いつまでも消えることのない喧騒と街灯に掻き消されそうな星のように微かな瞬きを放つ「美」を拾い集めて音楽に変える彼らに、まるで魔法使いのようだと子供のような憧憬を抱いたままだ。

 

 

 遥か昔、キリストすらも生まれていない世界で、今よりもずっと澄んで見えたであろう夜空に無数に浮かぶ、星という名前もなかったであろう矮小な点を架空の線で繋いで、初めて星座を作った羊飼いの話を最近知った。彼らが身内で親しんでいたそれはやがて古代ギリシャに伝わり、巡り巡って天文学者の手によって僕らのよく知る星座の形になったという。

 初めて星座という概念を作った人は、一体どんな感性をしていたのだろう。

 ただそこに点在する「美」を繋いで意味を持たせ、誰かの心に刺さり、届く「作品」と為すこと、その世界にまだ無かった、言葉にすることすら出来なかった感情を、価値観をもたらすことの難しさと、かけがえのなさ。彼らの音楽を聴き、詞を読むたびに、彼らの、ひいては古川さんの感性というのは、生まれる時代が違えば星座を紡いでいた類のものなのではないかと思う。

 

 

ストレリチアと僕の家

ストレリチアと僕の家

  • THE PINBALLS
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 世界中のハチドリの羽根を

 集めたような君の歌が

 僕の何かを壊して解き放った自由が

 うるさくて眠れない

 

 ストレリチアと僕の家――THE PINBALLS

 

 一つ一つの曲の中に、ぞっとするほど美しいフレーズをいくつも込めている。それらのほぼすべてが常人の頭ではまず思いつかない上に、例え詞を読んだとしてもイメージが脳裏で像を結ばない難解なものだったりする。ちょうど海外文学作品を読んだ時の、常軌を逸した比喩表現を読まされた時のような感覚に似ていたりする。こうもり傘とミシンが解剖台の上で偶然出会ったかのような美しさ。

 それらが一つの曲としてまとまった際の、有無を言わせぬ圧倒的な「美」と、今まで知らず知らずのうちに空いていた自分の中の隙間にぴったりと収まるかのような心地よさは、地球からの距離もそもそもの大きさも違う星たちが、架空の線で結ばれて夜空に像を為す星座のすがたによく似ている。初めて星座という概念を知らされた昔の人も、そういう感動を覚えて次の世代にこの文化を託したとしたら、夢のある話だと思う。

 

 やがて時代が進んで天体観測の技術が発達し、肉眼では見えなかった星や新たな星座が生み出され、昔よりずっと宇宙が明瞭で、当たり前のものになった時代。名前の無かった星屑の一つ一つに名前と番号が割り振られて管理されるようになった。そんな無数の星の中に、冥王星と呼ばれる星がある。かつては太陽系第9番惑星とされていた、地球と同じく太陽の周りをぐるぐると回る、遠い遠い、そして小さな星だ。

 僕はこの冥王星という星が好きである。名前も、発見から惑星への認定、そして太陽系の仲間から外され、次第に忘れ去られていくそのエピソードの切なさまで含めて。

 プルート、つまり冥府の王様の名前を授かった星は、十数年前に偉い学者たちの会合の末に太陽系の仲間から外された。そんな矮小な人間たちのちっぽけな議論の結果など微塵も意に介していないこの星は、遠い遠い公転軌道上を衛星とともに、途方もなく長い時間をかけて今も周っている。茶の間に欠片ほどの意識も認識もされることなく、全国を渡り歩くロックバンドのように。

 

 

「地獄の果てまで行こうぜ」

 初めて彼らのライブを観に行ったとき、ライブ終盤で披露された蝙蝠と聖レオンハルトの前口上で古川さんはこう叫んだ。地獄の果て、つまり冥府の果て。各々いろんな想いはあれど、薄暗く狭苦しいライブハウスの中、音楽を全身で浴びたいとその望みを向ける客を扇動するステージの上の彼は、まるで冥府の王様に見えた。

 おそらく彼らが活動を止めたって世界は何も変わらない。冥王星準惑星という括りになって、太陽系の仲間から外されてしまった時のように、彼らの活動休止が特別何かに作用することはない。彼らの知名度が現状の何倍あろうが、それは変わらない。ただ彼らの音楽に、彼らの世界に触れていた僕らの日常が少しつまらなくなるだけだ。本当に、ただそれだけの話。

 

 ただそれだけの話を、未だに受け入れられずにいる。

 

 地獄の果てまで一緒に行った先で勝手に眠るなんてどういう了見なんだろう。せめて納得できる結末を提示して欲しい。これでは到底納得がいかない。だいたいZepp Tokyo Divercityごときで地獄の果てなど、今更そんなちっぽけなスケールで何かを語られても困る。個人的な感覚としては三途の川すら渡った覚えもない。頼むから途中で投げ出さないでほしい。このままでは死ぬに死ねない。

 ある種執拗なほどにファンタジーを描いてきた貴方は、誰よりもこの世界における言葉の力を知っているはずだ。なぜ地獄なんて言葉を使った? 貴方の語る地獄とは何だ? ただの都合のいい形容詞だったのか? そういう強く、分かりやすい、抽象的な言葉でしか表現できない未踏の快楽の境地があると、ロックバンドにはそれに至れる力があると信じてやまないが故のものだったのではないか? まだ道半ばではないか、何故そこで止まる まだ地獄の果てには到底たどり着いているようには思えない。

 もっと大きなステージで音を鳴らしてる姿を見たかった。僕の他の愛してやまないバンドと真っ向から対バンする姿を見たかった。もっと色んな人に愛される貴方たちを見たかった。世界が古川貴之の紡ぐ詩世界に、その鬼気迫るパフォーマンスに、少しでも関心の比重を置く日が来ると願ってやまなかったのに。

 解散ではなく活動休止、そんなこと分かってはいるが、僕が今の熱量を持ったまま、期限がいつかも分からない休止をずっと待ち続けられるとは限らないわけで、仮に彼らが10年後また再始動したとして、今よりも感性も何もかも衰え摩耗しきっているであろうその時の僕は、果たして彼らの復活のアナウンスに気付けるのか。気付けたとして今と同じくらいに喜べるのか。時間というものはそれだけ冷徹で残酷なものだ。少なくともこれから何年かの僕は、彼らに対する思いを少しずつ減らしながら生きていくのだろう。

 彼らの活動休止によってぽっかりと穴の開いた心を、夾雑物で埋めるような生活が待っている。そしてそれは、多分埋めること自体は可能なのだと思う。ご親切なことに、この世は質の良い娯楽が味わい切れないほどに溢れているから。ただ僕は、蝙蝠と聖レオンハルトによって、NUMBER SEVENによって、Leap with Lightnings tourによって教えてもらったあなたたちの魅力を、衝撃を、それによって開けられた心の風穴を、やっと見つけた自分に似合うと信じてやまないビート以外のもので埋めたくはない。勝手な我儘であろうと馴染ませたくないのだ。

 5年前、福岡Queblickで初めて彼らのライブを観た。ぎゅうぎゅうの観客たちと一緒に飛び跳ね、足を踏み鳴らし、歓声を上げたライブの帰り道、未だ喧騒が続く天神の街の中、ずっと耳鳴りが止まなかった。あのライブを見る前と見た後では、全てが変わって見えた気がした。本当に気高く、うつくしく、獰猛で、底抜けにカッコいい姿を見た。彼らが足を止めるなんて考えたこともなかった。なかったのに、近く訪れる11月24日を境に何もかも全てが変わってしまうなんて本当に、未だに悪い冗談のように感じる。

 

 

 活動休止に際するメンバーのコメントを読んだ時に、ああ、この人たちもあくまで自分と同じ人間なんだなってことを強く実感して、少し虚しくなったことをよく覚えている。

 自分の好きな音楽を鳴らす人をどうにも過剰な神格化をしがちな僕は、出来る限り浮世離れしていてほしいという、どうしようもない我儘を常に抱き続けている。俗世の下らぬ喧騒に耳を傾けることなく、他の人間には理解できない世界観と言語感覚で、極彩色の世界を創造し続けてほしいと願ってやまないのだ。だから僕はアーティストが政治的な発言をすることに関しては「興醒めする」という大変に子供じみた理由で苦手だし、SNSにてハッシュタグを乱用するバンドやアーティストを見るとそれだけで食指が動かなくなってしまう。同じ人間だということを実感させられてしまうのが苦手なのだ。

 まさか活動休止の報せでこんなことを実感するとは思わなかった。特に森下兄貴のコメントの、どうしようもない生活感が痛いほどに突き刺さった。音楽を生業とするのは本当に、大変な事なんだなと思わされる。

 形の無いもの、そして人生において生きるために必須ではないものを創り、価値を与える仕事は、他人にこの上ない夢と羨望を抱かせる半面、どうしようもない現実が当人に付き纏い続ける。絶えず新たな才能は現れるし、自身の技量や才覚は決していつまでも輝きを失わないわけではない。だからこそ絶えず進化が、アップデートが求められ、そのための充電期間として一度歩みを止める、という選択肢があることもまた事実だ。それは別に音楽に限った話ではない。創作を生業とする職なら全てにおいて当てはまる。

 

 私事で恐縮だが、僕は小説を書いていた過去が有る。今思えば特段別に面白くもない作品ばかりを生み出していたが、それなりに楽しく創作活動を行っていた。結局その界隈に馴染めず、あと普通に書けなくなって今はとんとご無沙汰なのだが、何だかんだその時の経験は今、こういう記事を書いている中で生きているとは思う。

 創作をしていた身として思うことは、アウトプットとインプットは同じくらい大事だと言うことだ。ただがむしゃらに創作することも一つのやり方だけど、人が体を維持するために何かを摂取する必要があるように、創作活動も自分の中にない新たな見聞を得ることが無ければ、元手となる発想はいずれ何処かで枯渇する。インスピレーションは自分の中から無尽蔵に湧き出るものではなく、日々無意識に得ている知識やそれに付随する感情を咀嚼し、自分の中に取り込み続ける中で、ふとした瞬間の偶発的なきっかけから生まれるということ。 良い創作を続けるためには作り続けることと同じくらいに、それ以外のものを見つめることが大事なのだということを、小説を書く中で学ばされた。

 年齢か立場かそれとも枯渇か、はたまた時代の変化とそれに伴う価値観の変容か、絶えず走り抜けてきた彼らの視点でしか見えない、高い、高い壁のようなものがあるとして、今いる場所よりもっと素敵な場所に行くために、もっと高いところへ飛ぶために、一度その生業自体から離れる。羽を休める。これも立派なひとつの選択だと思う。きっとがむしゃらに走り抜けていたこれまででは見えなかったものが、これから先彼らの道がまた交わるとして活きることもあるのだろうし、そうしたことによって辿り着ける境地があるのかもしれない。

 

 まあとかなんとかちょっとクソみたいな自分語りを交えて気取ったこと書いたところでさ、

 

 

 そんなんで納得できるわけねえだろマジで

 どうしたって嫌だよ活動休止は。ずっと元気な姿のTHE PINBALLSを見ていたいよ俺は。だって一番かっこいいもん。

 何言ってるか分からなくてもカッコイイし、何言ってるか分かったら美しいんだよこのバンドは。音も言葉も佇まいも全てカッコいい。かっこいいが服着てギターもってるようなバンドなんですよTHE PINBALLSは。世の中の何がダメかってTHE PINBALLSをカッコいいと思えない衰えた感性と、どれだけ彼らが頑張っても目にも留めない狭すぎる視野だよ。

 何度でも言うよ本当に心から大好きなバンドだよ。ファンになってから行けるライブは全部行ったよ。CDも何もかも買えるものは全部買ったよ。未だに蝙蝠と聖レオンハルトを聴くと全身の血液が沸騰するしワンダーソングを聴くとこのバンドを好きになってよかったって思うよ。俺は俺が死ぬか彼らが音楽にてやりたいことをやりつくすまでは彼らのライブを観たいよ。だからマジで休止って文言を未だに受け入れきれないんだよ。何だよ4人とも「俺たちは音楽以外では生きていけません」みたいな雰囲気出してるくせにさ、フォロワーもいつか言ってたけど森下兄貴以外の3人がバンドという生業から離れること自体がだいぶ怖いよ。古川さんとか絶対電話応対とか出来ないじゃん。いや上手く言葉が出てこないのはステージ上だけかもしれないけどさ

 彼らに限らず、カッコいい音楽を作る人はそれだけで不自由なく生きていってほしいよ。好きなことを好きなだけやりながらずっと、滅茶苦茶カッコいい音楽をいつまでも発表し続けてほしいよ。それが今の世界でどれだけ難しいことかはわかった上で言うけど、これから先もこの考えは変わらないよ。僕に金と力が無尽蔵にあったらそれが出来たのかな、今から石油王でも脅せば何とかなるのかな

 もう明日なんだよな、明日なんだよ、明日が翌日になった時にはもう彼らは一旦4人でステージに立つことは無くなってしまうんだよな、その「一旦」がどれだけ途方もない期間になるのか、はたまた意外とすぐに終わるのかは今は何もわからないけど、とりあえず世の中は少しだけ色褪せてしまう。それだけは間違いない。ただでさえそんなに面白くないのにもっとつまらなくなるんだものやってらんねえよマジで。だいたいメモリアルアルバムの一曲目をICE AGEにするんじゃないよ。何が氷河時代だ実に的を得てるよ。天才か? 腹立つわ さっさと目を覚ませよ呼び続けてやるから

 

 

 

 

 結

 

 初めは花を向けるような気持ちで書いていた。書いているうちに怒りが湧いてきた。結局筋書きを放り捨て、感情の思うがままに書きなぐることになった結果が上記である。このブログにある記事はいつも、そしてきっとこれからも大体そんな感じだ。自分の指先が紡ぐものの行く末すら分からないものなのだ。初めて星座を作った人だってきっと、今のような大層な文化になるとは思っていなかっただろう。未来は不透明で、不明瞭で、不明確で、この上なく不安定なものだ。確かなのは、今すぐ来てほしくもあって永遠に来てほしくない明日は確実にやってくることと、彼らが一度歩みを止めてしまうことだけ。

 これからしばらくの間、彼らは僕らの前から姿を消す。まるで昼中の星のように さそり座が冬に、オリオン座が夏に見えなくなるように。 星座と違って、季節がめぐってもまた変わらぬ姿で観測することが出来る保証はなくとも、僕らには結局何も出来ない。出来るとするならば、それを祈ることと、忘れないようにすることだけだ。

 やがて眠ってしまう冥王に、ささやかながら花を贈ることが出来れば。そんな思いででこの文章は書き始めた。けれどきっとこれが彼らに届くことはないし、それを僕は欠片も望んではいない。誰に宛てるわけでもないこの文章はどこまでも独りよがりである。それでも花を贈りたいと思った。感謝も怨嗟も全て込めた、自分なりの極彩を。

 せめて今、これ以上なく貴方たちの鳴らす音楽が好きな自分が贈ることのできる精一杯を、そんな思いを込めた8000文字を、届く宛もないまま電子の海に放り投げる。貴方たちもきっと、世界に届くかどうかもわからないまま、自分たちがやっていることが正しいかどうかも何もわからないまま、ただ自分たちの中にある「美」だけを信じて楽器を鳴らし、声を張り上げて歌っていたのでしょう?

 

 だったらいつか、またそのカッコいい音楽を鳴らして欲しい。

 衰えた感性をも貫くギターを、捻くれた自意識すらも揺らすベースを、凝り固まった固定観念をぶち壊すドラムを、非日常を求めるくせに探す気力も無くなっている魂を叩き起こす歌声を。誰にどう届くかどうかなんて何も考えなくていい。眠っている間もそのままでいてくれたらそれでいい。

 

 

 明けない夜は無いかもしれないが、始まらない朝はこれから来る。けれど、もしももう一度彼らが音を鳴らすのなら、彼がその音をバックに喉を震わせて、他の誰でもなく自分たちのために再び集結し、誰に宛てるでもなくステージの上で歌うのなら。それを願うことだけはやめないでいるから、

 

 

 

 

 また、いつか