愛の座敷牢

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放たれた虎がバターになるまで

 

 

 僕が初めて買ったCDは、嵐の「believe」というシングルである。

 当時小学校のクラス内で嵐が流行っていて、自分もそれなりに関心があった、ただそれだけの理由で何となく貯めていたお小遣いを握りしめ、近所のTSUTAYAで何の特典も付いていない、当時最新だった「believe」の通常版のシングルを買い、親に買ってもらったばかりのWALKMANに入れた。

 それまで親が気まぐれに借りてくるJ-POPのCDをとりあえずインポートして聴いていた僕にとって、自分で選んで買ったCDというものはそれなりに思い入れが深いものであったらしく、かなり繰り返し聴いていたように思う。表題曲の「believe」も、大野君のソロ曲である「曇りのち、快晴」も、カップリングであった「トビラ」も、それら三曲のカラオケ版も、余すことなく全てを堪能していた。文字通り骨までしゃぶりつくす勢いで聴いていた。

 その嵐に対する興味関心も所詮は一過性のもので、彼らが活動休止した今となっては、彼らのことを思い出すのは日曜夕方の相葉マナブで延々と釜めしを食い続ける相葉雅紀を観ながら夕食を摂る時間くらいであるが、今でもその三曲はそらで歌える程度には歌詞や展開を覚えているし、依然思い出深く、好きな曲である。

「believe」はたしか実写版ヤッターマンの主題歌だったとは思うが、あんな深田恭子ドロンジョ様、いや深田恭子様のドロンジョがどエロいということ以外大して取り柄の無い映画ではなく、僕は嵐の「believe」を聴くと、母の運転する軽自動車に乗って祖母の家に行っていた時のことを思い出す。ろくに舗装されていない道路の上、ひどく揺れる年季の入った軽自動車の後部座席に座って、当時の同級生と僕を比較した小言を延々と捻出する特殊能力を有する母の怒涛の口撃から逃れるように、イヤホンで耳を塞ぎながら眺めていた昼前の海岸線沿いの景色が、この曲を思い出した時に脳裏に浮かぶ情景となっている。

 過去、今ほどに自由に使えるお金も無ければ音楽を探すために動ける行動範囲も狭く、インターネットに関する知識も無かった僕は、手に入る音楽、知り得た音楽を選り好みせずに聴くことしか出来なかった。その過程で知り得て聴いていた音楽の中には、好みではないもの、良さがわからないものもたくさんあったが、たったの2GBしかない当時のWALKMANの容量すら埋められないくらいの手持ちの曲数ではろくな選択肢もなかった。だから自分の小遣いを削って買った、あるいは借りた当時のCDの曲は、どんなに地味な曲であろうと、当時の記憶の深層で未だに息をしている感覚がある。

 年齢が上がっていくにつれて中古CD販売を知り、ニコニコ動画を知り、YouTubeを知り、当時まだギリギリ合法だった(今調べると法的に明確なルールが確立されてなかっただけで当時もYouTube的には規約違反行為だったらしいが、時効ということで許してほしい)YouTubeの動画をMP3に変換してダウンロードするサイトを知り、CDのコピーを知り、そこで知った音楽を当時のクラスメイトと共有し、聴く音楽の数や幅はそれまでとは比べ物にならないほど増え、広くなった。世の中にはテレビで流れる音楽以外にも素敵な音楽は探し切れないほどにあるということと、それを自分で探し出す楽しさを知った。

 

 

 そうやって、自分に合った音楽を探している中で知り得たバンドの一つに、GRAPEVINEというバンドがある。

 

 

 いつかの記事でも同じことを書いたが、五十嵐隆wikipediaで存在を知って、地元のサーキットイベントで初めてライブを観て、そこから少しずつ彼らの音楽にのめり込んでいった。種火に薪をくべるように、微かな興味を時間をかけて自分の嗜好の一部へと昇華させていった。

 思春期をボーカロイドやアニソンと共に過ごしたこともあってか、今も昔も比較的テンポが速くてサビのメロディが分かりやすい曲に惹かれがちであり、好みのスピーディな曲を見つけては所かまわず好き好き言って大騒ぎする節操無しであるが故に、GRAPEVINEは好きになるまでが結構長かったように思う。本当に好きになった今だから言えるが、「何か良いから聴いてる」という感覚だけで聴いていたわけではなく「好きになりたいから聴いてる」という、意地になっていた側面も少なからずあった。それだけ彼らの音楽には、その時の自分が感覚的に「逃してはダメだ」と思わせるだけの極めて言語化しづらい何らかの魅力があった、とも言えるが。

 その象徴のようなアルバムが「愚かな者の語ること」である。

 

 

 彼らのアルバムの中でも「真昼のストレンジランド」そして「BABEL,BABEL」と並んで、好きになるのに時間が掛かったアルバムである。初めて聴いた時は「これはまだ自分には大分早いなあ」と、イヤホンをしながら二、三歩後ずさるような思いになった。

「スロウ」や「光について」のような分かりやすいグッドメロディな曲(彼ら曰く「幕の内弁当」みたいな曲)があまり目立たず、収録された楽曲それぞれに分かりやすいシナジーがあるわけでもなく、どっちかといえばダウナーで、静かで、なにより瀟洒な印象のあるアルバムだ。「1977」や「迷信」のように、はじめて聴いた時から気に入った曲はあれど、今でも全体的な雰囲気で言ったらかなりつかみにくく、とっつきにくい印象であることは変わらない。

 中学生の頃、根拠もないカッコよさに憧れて飲めもしないコーヒーをわざわざブラックで飲んでいるうちに舌が慣れていったように、分からないくせに分かろうとして何度も聴いているうちに徐々に好きな曲が増えていき、今では彼らのアルバムの中でもかなり好きな一枚となった。

 

虎を放つ

虎を放つ

  • provided courtesy of iTunes

 

 そんなアルバムのトリを務める曲が、この「虎を放つ」である。

 淡々としていて、どの曲も別方向に取っ散らかっているこのアルバムの中でも、一際シックでつかみどころのない瀟洒なバラード。歌メロよりも展開と無機質さで魅せるタイプの曲であり、あまり使いたい表現ではないが、いわゆる典型的な「スルメ曲」と言える。聴けば聴くほどに耳に馴染み癖になる曲だ。ただ、GRAPEVINEを聴くようになってまだ浅かった当時の僕にとって、この「聴けば聴くほど」のハードルは結構高かった。早い話、良さを理解するのが難しかったのだ。

 

ここまできたのなら覚悟はいいかい

GRAPEVINE――虎を放つ

 

 

 エレキギターの弾き語りと共に、この印象的な一節の歌詞から始まる「虎を放つ」は、未だに歌詞の元ネタがよく分かっていない。ジョン・アーヴィングの「熊を放つ」という小説から着想を得ているみたいな意見も見たことがあるし、僕個人の意見としては最後あたりの歌詞はどことなく「山月記」を彷彿とさせるような気もする。ただ、「虎を放つ」というタイトルと最初のこの一節から、何となくこの曲は当時のGRAPEVINEにとっても「虎の子」のような、渾身の一曲だったのではないか、と思う。 

 僕はこの放たれた虎と何一つ分かり合えないままに何度もこのアルバムをリピートし、聴いているうちに脳ではなく耳が慣れたようにこの曲を受け入れた。ファンになってから何度かの新譜リリースを経験した今となっては、GRAPEVINEの中でもかなり熟した渋さを感じる魅力的な曲だと胸を張って言えるし、この曲の淡々とした平坦さこそがこの「愚かな者の語ること」を締めるにふさわしいと思えるが、そう言えるようになるまでは正直、この曲をどう捉えていいのか、どういう感情を持って自分の心に落とし込めばいいのかが分からなかった。あの時分からずとも根気よく向き合った謎の意地が無ければ、僕は今好きなバンドとしてGRAPEVINEを上げることがなかったかもしれない。そういう意味でも印象深い曲である。

 

誇り高き姿で

誰もわかってくれないだけ

GRAPEVINE――虎を放つ

 

 新年、寅年ということで、虎と言えばと久しぶりにこの「愚かなものの語ること」を通して聴いていて、ああやっぱり「1977」はいい曲だなとか、あれ「うわばみ」ってこんなに爽快感のある曲だったっけとか、再確認と再発見の連続になんだかしばらく見なかった親戚の子供の背丈を見て驚くような心地になりながら、最後の「虎に放つ」を聴いて、ふと、今の自分の音楽との向き合い方に微かな違和感を抱いた。

 社会人になって、自分が破滅しない範囲であれば好きなように好きなことにお金を使えるようになってから、聴く音楽の範囲は学生時代とは比べ物にならないくらいに広がった。特に大きかったのがサブスクを利用し始めたことだ。もう本当に便利。最高。CDをインポートするのが本当に煩わしくて仕方ないくらいにどっぷりと沼に浸かってしまっているこれのおかげで、国内だろうが異国だろうがアーティストがサブスク音源を出してさえいれば、この世のどんなニッチな音楽だろうと最新のヒットソングだろうといくらでも定額で聴くことが出来る。これとTwitterのフォロワー各位のお陰で、世界の広さを日々実感している所存である。ありがとうAppleMusic。ありがとうフォロワー。

 聴く音楽の母数が増えるということは、それだけ一つの曲、一枚のアルバム、一組のバンドやアーティストに割く時間は減るということだ。加速する世の中が次々と提示する新たな才能と、その世の中の基盤を作ってきたこれまでの軌跡を追うだけで、僕らは一体どれだけの音楽を、どれだけのアーティストを聴くことになるのだろう。そしてそれら一つ一つに、いったいどれだけの時間を割けるのだろう。

 

 

 ちびくろサンボ、という海外の絵本をご存じだろうか。

 

ja.wikipedia.org

 

 今からおおよそ100年以上前に、インドに在住していたスコットランド人の作者が、自らの子供のために書いた本が公判されたものであり、今は世界各国で読まれている大変有名な著作である。大変有名な著作である、と言いながらも僕は高校に上がるまでこの作品のことは欠片ほども知らず、ネット小説を読んでいた際に引用として用いられていたことがきっかけで知ったくらいだ。

 改めて調べてみるとどうやら僕が読んだこともないストーリーもあるらしいので、この記事で取り上げたい部分だけ掻い摘んであらすじを説明すると、「イカした服とズボンと靴と傘を親からもらった少年が森の中で、4頭の虎から身に付けたものをすべて奪われてしまうものの、それぞれのオシャレ・グッズを身に付けた虎同士が「俺がこの森の中で一番お洒落だ」と喧嘩を始め、4頭で木の幹をぐるぐると回っているうちに皆バターになってしまい、少年の親がそれを全部ひろってパンケーキにして家族で全部たいらげる」という話である。何というか童話特有の、発想にルールってないんだなって思わせられるストーリーだ。巷のバトル漫画に整合性を求めるのが馬鹿らしくなってくる。

 虎がバターになる、というのは別に慣用句でも何でもない。助けた鶴が美女になって恩返しに来ることや、川から流れてきたモモに子供が入っていることが今日の世の中で諺や慣用句になっていないように、虎がバターになることそのものに深い意味は無い。ただ、この話の世界観では虎は回り続けるとどうやらバターになるらしい。黄色いからかな?

 先ほどGRAPEVINEの「虎を放つ」は、当時の彼らにとっても「虎の子」のような渾身の曲だったのではないか、と書いた。彼らを知ってまだ間もなかった僕は、文字通り彼らによって放たれたこの曲、もといアルバムという「虎の子」が、バターになってしまうほどに聴いていたように思う。それはアルバムがそうさせたのではなく、自分がそうしたのだ。一聴だけでは到底すべての魅力を感じきれないこのアルバムを「分からない」と放り投げてしまうことが、どうしても出来なかったのだ。

 この世に星の数ほどいるアーティストが音楽というものに向ける熱意はそれぞれだとしても、リリースする新譜に掛ける想いやプライドはそんな単純な言葉で語れるほどに生半可なものではないだろう。というかそうではないアーティストをアーティストとは呼びたくない。僕らは完成品をただ聴くだけだが、アーティストそれぞれは膨大な資金と相当な紆余曲折を経て、渾身の「虎の子」を放つ想いでリリースしているものだと思う。だから僕らは好きなアーティストの新譜が出るたびに感動するし、音楽ってすげえな、と言語化を諦めた感想で纏めてしまおうとする。

 聴く音楽の幅が広がるにつれて、分からないものを分からないままにすることが増えた。話題になったアーティストでも、数曲聴いて合わないと思ったらそれ以降食指が伸びることが無くなった。ロックバンドのMVに顔の綺麗な女がベッドで寝転がってるだけで聴く気が失せた。無意識に自分の中でフィルターと仕分機能を付けて、分からないと決めつけたものを理解しようとせず、全て排他するようになった。聴くものが自分の手のひらの中で全て収まっていた時代の自分と比べて、確実に放たれた虎を無視することが多くなった。ただただ、膨大な数のニュー・リリースの中から自分にとって耳当たりの良いものを探して、それを収集することを「音楽鑑賞」と呼んでいる。そういう聴き方をしている。

 知らず知らずのうちに野に放たれていた膨大な数の虎が、こちらを睨みつけている様な気がして、少し背中が寒くなった。

 

 

 

 

あなたの言う僕の参謀がね

今の若い人たちは放浪者だと言うんですよ

人の評判だけではものを買わず決まったブランドを愛さず

自分に合うものは何か探し続けているんだと

まだ真価を知らない目で 愚かに散財しながら

実に真摯だとは思いませんか

 

ブランチライン(2)――池辺葵(祥伝社 フィールコミックスSwing)

 

 

 上で引用したセリフは、近年僕が新刊を楽しみにしている漫画ランキングトップ3に入る「ブランチライン」で語られたものである。主人公の1人が勤めているアパレル通販会社の社長が、営業先の代表に言ったセリフだが、僕はこれを読んだ時に「音楽も同じだよなあ」と思った。特に今の時代はその傾向が顕著だと思う。その姿勢が真摯かどうかはさておき。

 テレビやラジオといったメディアが大きく力を失い、インターネットによって世界中の情報に容易にアクセスできるようになった時代。音楽を生業とする人々は、ライブハウスで幾度もライブをこなして叩き上げでその知名度を上げていくことより、メジャーレーベルにデモを送って評価してもらうことよりも、もっと容易で確実な手段としてインターネットを手に入れた。Twitterをやっててもう100回くらいは「昔と比べて今は「誰かに見つけてもらえる」という点で相当恵まれている」という言葉を見た気がする。そして、聴く側の僕らも、探そうと思えば世間の知名度も関係なくいくらでもマイナーなアーティストの音楽を聴くことが出来る。だからこそ最近は特に、わかりやすく、センセーショナルなものがウケている時代なのだと思う。

 上で「ただただ、膨大な数のニュー・リリースの中から自分にとって耳当たりの良いものを探して、それを収集することを「音楽鑑賞」と呼んでいる」と書いたが、僕は別にこの聴き方が間違っているとは思わない。むしろそういう聴き方をして、出来るだけ多くの音楽に触れて、自分の好きなものをつかみ取っていくのは正しいと思う。

 ただ改めて「愚かなものの語ること」を聴いて、世間で流行っている音楽のように最初から分かりやすく「良い曲」だと言えるようなものもあれば、僕にとっての「虎を放つ」のように、幾度も聴きこむことによって良さが分かってくるような曲ももちろんある。分かりやすいものを求めてしまう以上、こういう曲を自分の好きなものだと気付くまで聴きこむのは相当難しいけれど、音楽がそうであるように、良い音楽の探し方も画一的なものではないのだとすれば、そうやって魅力を見出していく曲を「分からない」と投げ出してしまうのは少しもったいない気がする。

 

 

一聴では分からないなら

それこそが贅沢な暇つぶしって思いはしないかしら

 

UNISON SQUARE GARDEN――mix juiceの言う通り

 

 放たれた虎は虎のままで良いこともあれば、放たれた虎がバターになることで見えて来るものもある。小さい頃、まだ聴く音楽を探せるほどに自分の手札を持たなかった僕は、手元にある放たれた虎を、知らず知らずのうちにバターにしていたのだと思う。

 音楽を探すための色んな手段を知ってしまった以上、もう過去の自分に戻ることは出来ないが、せめてもう少しだけ、放たれた虎をバターにするような聴き方が出来たなら、また違った世界が見えるのではなかろうか。好きな曲と身近な情景が結びつくように、自分の世界に明確な像を成す曲を増やすことが出来るのではなかろうか。僕にとっての嵐の「believe」がそうであるように。

 

 

 まあそんな僕が嵐の曲の中で一番好きなのは「truth」だが。

 

truth

truth

  • J-Pop
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  • provided courtesy of iTunes

 

 悲しみ……