愛の座敷牢

無料で読める文章

瀞にて未完成ーGRAPEVINEのダイナミズム

 僕が公言している趣味の一つに、読書がある。

 

 読書という趣味は、特に趣味のない人間が就活の際、履歴書の趣味の欄に書くものについて困った挙句、最後に行き着く砦であり掴む藁のようなもので、詰まるところ地味で取り柄のない人間が退屈な人生に絶望しない為の娯楽である。こんなこと書くと古今東西のプライドの高い読書好きの方々から滅多刺しにされてしまうかもしれないが、ぶっちゃけよくも悪くも無難でとやかく言うことも自慢することもない地味な趣味だ。曲がりなりにも自分の趣味をここまで貶めるのも胸が痛いが、事実であるから仕方あるまい。読書は地味です。

 僕が主に読んでいるのは格式の高い学術書なんてこともなく、大抵娯楽小説か漫画なので、なおさら読書趣味の人の中では身分も高くない。身分て。

 

 僕は活字中毒でも読書という行為自体に快感を覚えるわけでも何でもなく、ただ本が好きだから読んでるだけだが、正直YouTubeを観ている方が頭を使わなくていいので気楽で良いし、一面が文字で埋め尽くされた紙をぺらぺらめくって悦に浸るだけの娯楽はよくよく考えなくても退屈だと思う。目の前の本が迫力満点のフルボイスで文章を伝えてくれるわけでもなければ、文字がユニークに動いて物語を彩ってもくれないし。ことごとく前時代的な趣味だとつくづく思う。近頃は子供の学力低下にかこつけて若者の読書離れとか嘆く人がいるらしいが、そりゃ多種多様な娯楽に溢れたこのご時世、普通の感覚してたら読書なんて退屈だろう。かくいう僕も、子供のころからスマホYouTubeが今ぐらい普及してたら読書なんて見向きもしなかったと思う。他の娯楽の方が、面白いかどうかはさておき分かりやすく刺激的ではある。

 

 しかし、それでもこの地味であるはずの読書趣味というものが幼少期からかれこれ20年近く続いているのは、この趣味にそれなりの魅力があることの証左でもある。僕は一体読書の何に惹かれて、物心ついた頃から今まで地道に冊数を重ねているのだろうか。

 読書の魅力を考えてみる。悪いとこがない。家を出なくていい。コスパは思うほど悪くない。人に打ち明けたところで殆ど引かれない。書籍の外観自体がスマートでカッコいいのでそれなりの収集価値がある。大なり小なり知識と言う形で勉強になる。異なる価値観に触れられる。些細なことまで含めていろんな魅力があるが、個人的に挙げたいのは、読書から得た知識が「連鎖」することだ。

 

 例えば植物を主題とした娯楽小説を読んで植物に興味がわき、植物に関してもっと詳しく書かれた図鑑などを読み、そこで触れられた植物と関係する生物に興味を抱いてその生物に関して記された別の本を読み……という風に、読んだ本がまた別の本を呼び、その本がまた別の本を呼ぶ。これをひたすらに繰り返していくと、気が付けば今までの自分の好みでは決して触れることがなかったジャンルに行きついたりする。まるで行く当てのない気ままな一人旅の様に。

 そうして連鎖する読書によって蓄積された知識もまた別の興味を生み出し、その興味が原動力になり、結果新たな知識を産む。その繰り返しによって堆積した知識も、新たに知り得る知識や価値観で固められたり全てひっくり返されたりする。そうして培われた知識のかたまりが、自分自身をも思わぬ着地点へと導くようになる。

 僕の敬愛する作家のひとりである米澤穂信は著作『王とサーカス』の後書きにて、この自分自身の価値観をも変える知識欲の連鎖を「ダイナミズム」と称したが、実に的を射ていると思う。知識欲が引き金となる、爆発のような思考遊びの収束。めぐる世界は何も変わらないのに、自分の内面だけが知識の奔流によって破壊され、組み替えられていく感覚こそ、読書の魅力であり、醍醐味ではないか。

 ここは音楽のことを語るブログなのではないですか、なせ聴いてもいないのに読書の魅力について熱弁されているのですか、という思いはごもっともである。長くなったが、この記事の本題に移ろう(ここまで書くのに1週間かかった)

 

 

 ブログ開設当初からずっと、いつか書こう、いつか書こうと思いつつもなかなか言語化できなかった、大好きなバンドの話をしたい。今回はGRAPEVINEについての記事である。

 

 

 語りにくさ

 

 好きなアーティストは数多くいるが、その中でもGRAPEVINEほど何を語ればいいか分からないアーティストはいない。前述のとおりこのブログを始めたときから、いつか彼らについて書こうと思っていたのだが、なかなか綴れずにブログ開設から半年が経過してしまった。

 GRAPEVINEは語るものではない、感じるものだ! とかなんとか、香港のアクションスターみたいな精神で投げ出してしまえれば楽だとは思うが、せっかく勢いでブログなんて時代錯誤なウェブサイトを開設してしまったのだから、物好きのため、もとい僕自身のためにきちんと彼らを語らねばと言う思いは募っていた。開設当初から幾度となく立案とボツを繰り返し、年をまたいで半年が過ぎてようやくそれなりの形が仕上がったので、しばしお付き合い願いたい。

 

 彼らの語りにくさはその完成度の高さとバンドの持つ平衡感覚の強さゆえに、とりわけて特筆すべきポイントがないところにある。堅牢なまでに安定している上に悪い癖も隙もないので、何を語ればいいか分からないのだ。早い話「曲もライブも演奏も声も歌詞も良い、長年のキャリアによって裏打ちされた技術と魅力を持つ最強のバンドです、ぜひ聴いてください」で、彼らの紹介なんて全て終わってしまう。衝撃の60文字。そんなもんブログでなくともTwitterで済む話である。

 長いキャリアの中で育まれた音楽性は一筋縄ではいかないほどに多様であり、メロディは美麗だが時に無機質にも猛々しくもなり、歌詞は文学的かつ叙情的でありながらもどこか抽象的でつかみどころがなく、演奏は文句なしに上手い。こうまんべんなく褒めちぎるようなことを書くとどうも器用貧乏のレッテルを貼られがちであるが、そういうにはあまりにレベルが高すぎる。狂信者的な例えとなるが、個人的には器用「万能」が正しいと思う。何でも出来るが故に、安易な言及がしづらいのだ。

 

 

 例えば彼らの初期の代表曲であるこのスロウなんてもう、声も演奏も展開も何もかも良いとこしかないわけで。これを20代で作っていたとか信じられますか。爛熟と言って差し支えないほどの、シブさ。近年の彼らはよく「楽曲に年齢が追いついてきた」みたいな評価をされるが、その意見は半分頷けるし半分違和感も感じる(これに関してはまた後述する)

 スロウや同じく初期の代表曲である「光について」、最新作に収録されている「すべてのありふれた光」などといった美しい歌メロが秀逸なミドルテンポの曲を中心に、エッジの利いたアップテンポなロックソングやとろけるようなバラード、混沌とした形容しがたい曲やホーンを用いたカラフルな曲など、とにかくふり幅が広い。おおよそ一年おきに未だにコンスタントにリリースされるオリジナルアルバムは出すたびにバンドの新しい色、もとい境地を見せてくれるものに仕上げてきて、なおかつ毎回それがすとんと胸に落ちるような作りになっている。

 どんなに突飛で、一聴して真意がつかめないような曲でも、なんだかんだ「GRAPEVINEだもんな」で不思議と納得できてしまう、キャリアによって培われた地力と平衡感覚。彼らの持ち味、強みという点を言語化すればおそらくこういう結論に至るが、今回は素人なりにもう少し穿った、ちょっと変わった着眼点から彼らの魅力を解いていきたい。

 

 そこで僕が彼らの魅力を語るために引き合いに出したいのが、彼らの生み出す音楽による快楽は、前述のとおり読書がもたらすそれと似通っている、ということである。リスナー自身の日々の積み重ねによって、彼らの持つ「良さ」は連鎖し、ある日炸裂する。

 

 

「好き」が起こすダイナミズム

 

 腰を据えて音楽を聴かない層の中には、ベースの音が分からない人が一定数いるらしい。

 別にそれに関してとやかく書くつもりは無い。無いが、イヤホンを耳につけない日がほとんどない身としては信じがたい話ではある。しかし本格的に邦楽、もとい音楽の魅力にどっぷりつかる前まで、僕はきちんとベースの音を聴けていたかと問われれば正直自信がない。というかスラップの様に主張の激しい奏法であればまだしも、何の変哲もないルート弾きをきちんと認識できていたか、と問われると流石に首を振ってしまう。

 人間という生き物はよく出来たもので、興味のないことをとことん自身の視界から排除しても、違和感を抱くことなく生きていけるのだ。僕がキャプテン翼のキャラの区別があまりつかないように、音楽に興味がない人にはベースの音を認識できていない人もいる。誰にだって知らず知らずのうちに抜け落ちている、他の界隈にとっての常識がある。

 我々は世にある多様な知識を身に付けることで、世界とつながっている。単純に知っているものが多ければ多いほど見える世界は色鮮やかなり、遥かに意味を持つものとなる。時にはその知りすぎていることが排斥すべき情報すらも取り込んで、不快な感情まで呼び起こしてしまうのかもしれないが、それを含めて知識がある人とない人では世界の見方が全く違う。赤ちゃんと大人で考えればわかりやすいか。

 我々は言葉で世界を見ている、とはよく言ったもので、つまるところ知識や語彙は世界に対するぼやけた視界を矯正するレンズとなる。語彙が少ない人はそれだけ見えている世界が不明瞭で狭いんですね。SNS上でよくみられる、語彙力を失くしているオタクは視野が狭い。いつも推ししか見えてないから仕方ないね。

 

 

 GRAPEVINEの音楽は、一聴では分かりづらい魅力に満ちている。

 それはどこか文学的な歌詞であったり、楽曲の多様性であったり、楽器同士の複雑な絡み合いであったり、はたまたボーカル田中の独特な癖のある声であったり。各個の卓越した技量とセンスが生み出す調和は、一回聴いただけで全てを理解できるような、そんな淡白で分かりやすいものではない。ゆえに、少しとっつきにくく、噛み砕きにくい部分がある。彼らの楽曲を聴き始めてもう6年くらいになるが、いまだに上手く呑み込めていない曲もちらほらある。まだまだ聴きこみが足りない。

 彼らはそこまで派手な、煌びやかなバンドではない。たった一曲で全てを虜にするような音楽性というよりは、何かのとっかかりをきっかけに聴き続けていくうちに、知らず知らずドツボにハマる音楽性だと言える。歯に衣着せぬ言い方をするのであれば、昨今の市場にて評価される、派手で耳心地の良い楽曲と比べると、分かりにくく、いささか地味な印象を抱くかもしれない。ただ、それは決して「華が無い」わけではない。

 

 

 僕が初めてGRAPEVINEを知ったきっかけは、Wikipediaだった。syrup16g五十嵐隆の飲み友達として、田中和将の名前が挙げられていたのだ。そこから地元のサーキットイベントでたまたま初めてライブを観て、なんとなくそのライブが忘れられず「lifetime」をレンタルショップで借りて、そこから少しずつ、少しずつ、じわじわとハマっていった。最初から高い熱量のファンだったわけではない。ただ、不思議と飽きることがなかった。飽きることなく長く聴き続けているうちに、大好きなバンドに自然と名の上がる存在になった。耳寂しくなるととりあえず彼らの音楽を聴くようになった。

 彼らの音楽は底がない。聴くたびに新たな発見がある。こう書くとどうにも当たり障りのない紹介になってしまって歯がゆいのだが、彼らの楽曲だけでなく、彼ら以外の色んな音楽を聴いたり、色んな本を読んでは戻ってくるたびに、彼らの音楽から聴こえるものが、見えなかった歌詞の真意のようなものが増えていく。霞がかった視界が晴れていくような、ばらばらだったパズルのピースが次第に一つに形を成していくような。

 巷にあふれる玉石混淆の音楽から、地道に自分だけの「玉」を探し出すような、そんな途方もなくすらも思える方法で音楽と触れ合っていると、素人なりにも自分のすきな音楽がどういうものか、どういう展開、音、発声、歌詞、リズムに心惹かれるのかがなんとなくわかってくる、気がする。数多の音楽の中で見つけた自分の小さな「玉」たる曲の、バンドのルーツを探り、そこから少しずつ興味を紡いで、少しずつ自分の好きを確立していく。読書によって得られる知識が連鎖するように、自分の「好き」が連鎖し、蓄積する。

 そういう自分だけの「好き」の手がかり・断片のようなものを探しては拾い集め、一つ一つ組み上げていく中で、今まで良いのか良くないのか分からないまま、消化不良のまま聞き流していた音楽が、ある日突然自分の中に積み重なった「好き」によってひっくり返され、それまでとは全く違って聴こえてしまう、快楽。新しい地平に立つ感覚というか、見渡す世界の視覚の明度が上がる感覚というか、もう世に出てしまった不変の作品である曲を前に、自分だけが自分の好きによって木端微塵に破壊され、新たに構築される感覚というか。漠然としていた好きが、確信めいた快楽に昇華する瞬間。僕はGRAPEVINEの音楽にそういう快楽を、幾度ももたらされ続けてきたように思う。

 

 

 少し上で挙げた「指先」のBメロから間髪入れずにぬるりと入ってくるサビにしても、この「Wants」のシンプルなアコギからメロディアスに盛り上がっていく後奏やサビ直前に右から重く厚みを増させるエレキの音にしても、聴き始めたときは何も思わなかったのに、今となっては聴くたびに感情を全て持っていかれてしまう。最初は気付けなかった良さに、彼らの、もしくは彼ら以外の音楽を取り込み続けることで、何気なく聴いていた彼らの音楽から見えてきた、未知の景色がある。

 

コヨーテ

コヨーテ

  • provided courtesy of iTunes

 

 歌詞にしてもそうだ。「フラニーと同意」や「metamorphose」の様に海外の文学作品を分かりやすくモチーフにしたものもあれば、「リトル・ガール・トリートメント」「ソープオペラ」のようにいくらでも深掘り、言葉を選ばずに言うなら邪推できるような曲もあるし、一見意味不明でもその内実を知識として身に付けると、歌詞の全体像がより鮮明に見えてくるものもある。

 上に挙げた「コヨーテ」も単なる動物の方だけではなく、北アメリカのインディアンが「トリックスター」として崇める、伝承としてのコヨーテのことを知ることで、歌詞の真意がより一層飲み込めたりする。田中氏がこっちのコヨーテに関する知識をどんな過程にて仕入れたのかなどは知る由もないが、これを飲み込んでから改めて聴くと、ちょっと肩の力の抜けた歌メロや、間奏で入るハーモニカっぽい音の陽気さ、全体的に自由奔放なギターも、どことなく悪戯好きなトリックスターを彷彿とさせて面白い。こういうところまで計算づくで作っているとすれば、本当にどの楽曲もまだまだ聴きこみが足りないし、解剖しがいがある。どこまでも底が見えない。

 

 上に挙げたような色んな知識の断片を総動員して紐解いていけるような歌詞も書ければ、どこまでも心に迫る、胸を突く歌詞も書けるのがソングライター田中和将の恐ろしいところで、僕はどちらかといえばこちらの歌詞に心打たれたことが多い。含蓄の深さを物語る歌詞も魅力的だが、田中自身の価値観、持ち前のシニカルさから紡がれる、諦念やマイナス寄りの覚悟を感じる詞も、同じくらい魅力的で、味がある。

 

 いつか叶うようにと

 どの面下げて言うんだろう

 その大事な想いも

 やがて忘れてしまうんだそうだ

 

 GRAPEVINE――Everyman,everywhere

 

 どうにもならないことを奇蹟や希望によって覆そうとすることなく、そういうものだと捉えながらも、その中で自分の価値観やささやかな反抗心や皮肉、理想を紡ぐ歌詞。ストレートに書くことがはずかしいから少し捻っている、との本人の弁の通り、分かりやすくは書いていないが、その分日本語の持つ美しさや彼の言葉選びの魅力が垣間見れる。彼自身、ミュージシャンになるまでも家庭の事情で僕の想像など及ばないくらいの苦労を経験したそうだが、その頃の経験も間違いなく自身の血肉となっているのだろうな、と思う。

 

 詞にも曲にも、聴けば聴くほどに新たな発見があり、気付く魅力がある。本当に月並みな表現でしかないが、今僕が好きなアーティストの中でこの言葉が一番ふさわしいアーティストは、彼らだと断言できる。今は呑み込めない詞もメロディも、これからの僕の価値観や嗜好の変容によって、ある日突然「好き」が爆発するかもしれない。その気持ちよさを彼らに教えられたから、僕はこの先も彼らの曲を聴き続けるのだろう。聴いていく音楽とは別に、得ていく知識やそれにより新たに育まれる価値観によって変わっていく未来の自分ですらも、持ち前のふり幅で間違いなく満たしてくれるその懐の広さこそ、彼らの一番の魅力だと思う。

 

 

 瀞にて未だに

 

 

 邦楽ロック界隈、ひいては音楽業界全体を川とするなら、GRAPEVINEは瀞のような場所にいる存在だと思う。

 

 瀞とは、川の流れが深くて非常に静かな場所を指す言葉である。よく渓谷などの地名として使われているが、今ではあまり使われない言葉らしい。

 音楽業界は新陳代謝の高すぎる世界だとつくづく思う。娯楽を生み出す界隈すべてに通ずるものだと思うけど、音楽はそれが特に顕著だ。いつかの記事でも同じようなことを書いたが、今第一線で活躍しているアーティストも、5年後も同じように支持されているとは限らない。僕が邦楽ロックを聴き始めたころと今では、メインストリートにて音を鳴らしているミュージシャンの顔触れは全然違う。音楽はそこに在り続けるけど、同じ音が鳴り響き続けるわけではない。絶え間なく流れ続ける川の水の様に、市場を席巻するバンドも絶えず入れ替わり続ける。入れ替わらないのは停滞しているということだから、現状が正常なのだろう。メジャーもインディーズも関係なく昔の曲しか評価されなくなったら、それこそ本当に業界の終わりである。

 その瞬間の世の覇権を握る楽曲が、それを聴く一人のリスナーにとっての絶対的な「世界一好きな音楽」の解答であろうと、そこは決して音楽そのものの到達点ではない。全ての人類にとって一番優れた音楽、というものが、未だ作られてないだけでもしかしたら存在するのかもしれないが、作られてないからこそミュージシャンは今日もまだ見ぬ解答を求めて日夜音楽と向き合い、リスナーは今日も新たな音楽を探す。

 音楽のあるべき姿はおそらくこうなんだろうけど、理想を追い求めるだけでは食べていけないから、結局は大衆に分かりやすく、程よく新しさを擁している楽曲を作れる人たちが、その時々の覇権を握っているのが現実だと思う。おそらくそういう背景があって現代を風靡するKing Gnuは生まれたし、米津玄師はウケたのだろう。

 

 近年のGRAPEVINEは、それこそ代表曲である「光について」や上に挙げた「望みの彼方」を踏襲するような、分かりやすいグッドメロディが印象的な曲がわりと減ったように思う。「すべてのありふれた光」のような、これぞGRAPEVINE! と言わんばかりの優しく耳に残る歌メロ曲ももちろん作りながらも、どちらかといえば無機質であったり、奔放であったり、ABサビの型にまったくハマらなかったりといった、前衛的・挑戦的な曲調の楽曲が増えたような気がしている。

 

 

 最新作の「ALL THE LIGHT」に関しても、全面にホーンを用いた多幸感にあふれるリード曲の「Alright」を始め、全編アカペラの「開花」や、執拗に鳴り続ける物寂しげなエレキギターの弾き語りがどこか不気味でありながらもふんわりと優しい「こぼれる」、多様性に富みながらも全体的に静かに流れるアルバムの中で、バチッと映えるエネルギッシュな「God only knows」など、相も変わらずだだっ広いふり幅の中から、一生枯れる気配のない音楽に対する意欲と、己とリスナーに対する挑戦心を感じる。静かな時間の流れ続ける瀞にて、どこまでも掴めない何かを探し続けている。

 長いキャリアで培ってきたファンと地位にかまけて、牙を研ぐのをやめてしまえば、まだ見ぬ素晴らしき楽曲の探求を止めてしまえば、すぐにその才は腐ってしまう。耳敏いリスナーはすぐに見限ってしまう。彼らは音楽業界の苛烈な奔流の中で、熱心なファンを抱えて一際静かな場所にただ留まり続けているようにも見えるが、そこに留まり続けるのには、相応の覚悟と並々ならぬ努力が要る。いくら水の流れが極めて緩やかな瀞であろうと、流れ続ける水に従って古くなった水は入れ替えていかねば、水はいずれ腐って中の生命は死に絶えてしまうのだ。

 単純な流行りではなくやりたいことをどこまでも貫く覚悟と、その覚悟を言葉だけのものにしないための、音楽に対する研究と努力。時代の変化によって変わる価値観に適応するための、自己のアップデート。自分たちの立っている場所が不変である、という幻想を捨てる決心。求め続ける場所が不変であるために、彼ら自身が不変でありつづけることを彼らは、とうの昔に打ち捨てている。彼らの音楽に、完成は未だ無いのだ。

 

何度も奏でて 色褪せて

悲しいほど 繰り返そう

何も変わらなくていい このままでいられるよう

ここに突っ立ってるよ

 

GRAPEVINE――指先

 

 彼らの曲を聴いて普段からこんな面倒なことを考えているのか、と言われたらそんなことはないし、僕が彼らについて知っていることなんて彼らが公に見せている範囲の1割もないと思うが、この地位でこのキャリアを持ちながら、新譜を出すたびに新しいことをやり続け、それでいてリスナーの心を掴んで離さない彼らのことを考えると、これくらい芯の通った決心を抱えてないとやっていけないのかな、と思うのだ。

 飽くなき探求心と、音楽に対する並々ならぬ渇望を兼ね備えた彼らは、これから先もおそらくずっと完成しない。ずっと新しくあり続ける。名のある評論家からここが極致と評されても、それでも新たな地平を切り開き続ける。果たして存在するかもわからない理想を求めて、リスナーすらも気に留めることなく、ひたすらに自分たちの「好き」を磨き続ける。

 

油断すると 大人になっちまう

 

GRAPEVINE――真昼の子供たち

 

 ずっと上にて『近年の彼らはよく「楽曲に年齢が追いついてきた」みたいな評価をされるが、その意見は半分頷けるし半分違和感も感じる』と書いた。彼らが若かりし頃に書いた曲が、キャリアを伴って新たな魅力を見せ始めた、という意味ではそうだとも思う。が、年齢だけを積み重ねた結果、彼らの過去の曲がより映えることになったのかと言われれば、それはそれで違和感を感じるのだ。彼らがセールス上の最盛期を迎えていた当時ではなく、誰も見ていなかった遠い未来を見据え続け、思考錯誤を繰り返してきた結果ではないか。飽くなき探求の賜物ではないか。

 

 

 世が絶えず変化を続けるように、音楽も変わり続け、終着点である完成を拒み続けるからこそ、GRAPEVINEの音楽は完成せず、終わらず、いつまでも変わり続ける。僕はそれを聴くたびに圧倒され、新たな「好き」の扉を開き、時には全てをひっくり返されるのだろう。

 

 

 ここまで長々と語りましたが、文字を読むのも面倒くさい方向けに要点だけかいつまんで書きます。曲もライブも演奏も声も歌詞も良い、長年のキャリアによって裏打ちされた技術と魅力を持つ最強のバンドです、ぜひ聴いてください。以上、ブログでなくともTwitterで済む話でした。