愛の座敷牢

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licalの話

君の伝説に敵わなくても

奴が恋した彼女になれなくても 

ただ誰にも口出しされたくなかった

 

lical――跋文

 

 先月14日、大好きなバンドが無期限活動休止を発表した。

 

 ファミレスでTwitterをぼんやりと眺めながらパスタを待っていた僕は、そのバンドの新譜の発表ツイートを呑気にコーラなんか飲みながらリツイートしていた。配信ライブ告知と新譜の発表、これだけでよかったのに無期限の活動休止の発表も一緒にくっつけてきた。情報を出す順番が悪質すぎる。マジでいらねえと思った。コーラの甘さもパスタのしょっぱさも全部消えた。舌の上には虚無感しかなかった。

 公開された活動休止の理由は方向性の違いの亜種みたいなやつ。もうぶっちゃけて言うならありがちなものだった。人間関係とか金銭の問題とか、将来の展望とか不安とかいろいろあっただろうが、極めて抽象的かつ曖昧な言葉で包み隠された休止理由は正直煽りに近い気休めでしかなく、ただもう僕の好きなバンドがこれから先、余程のことがない限り新たな音源を作ることも、ライブで全国を回ることもしなくなるという、純然たる事実が横たわっているだけだった。

 

 社会に守られることのないバンドというのは極めて脆い生き物である。 

 極論言えば生きることにさして必要のない概念である「音楽」に希望を見出して、同じ志を持った人間と共にただひたすらに先の見えない闇の如き未来を見据えるこの生き物は、音楽に悩み、金に苦しみ、内外の人間関係にのたうち回り、同業に辛酸を舐め、新たな才能に絶望する。どれだけそれに苦悩しようとも世間は享楽に溺れるだけとしか認識せず、才能と根性と運のないものから次第にそぎ落とされていく。1リスナーたる僕がどれだけそのバンドを愛そうと関係ない。無常に過ぎる時間と繰り返される変わり映えのない生活の波は容赦なく全てを蝕み、やがて呑み込んでいく。

 今メインストリートにて音を鳴らすバンドは一つ残らず、おびただしい数のバンドの死骸の上にアンプを置いて、死臭の立ち込めるステージで音を鳴らしている。これまでも、そしてこれからもきっとそうだ。僕が一度でも作った音源を聴けるバンドなんて、砂漠の中の砂粒一つにすらならない。僕が知り得ずに息を引き取っていく、僕が好きになれる音を鳴らすバンドもたくさんいるのだろうが、その全てに気付けるほど僕は視野が広くないし、気付けてもお金をかけて追いかけられるほど財に自信があるわけではない。静かに死んでいくバンドを横目に見ながら、何もできない自分をあまりに情けなく、歯がゆく思ったことなんていくらでもある。こうやって嘆いている今回もそうだ。僕はきっと何もできない。

 

 だから何もできないなりに、何も出来ない僕と、そんな僕が大好きなバンドに向けて、拙いながらも文章を送ろうと思う。ただの1ファンだった僕が何もできなくとも、バンドの心臓が止まってしまっても、バンドの残した曲はこれからもずっと、色褪せることなく残り続けると信じて。

 

 

 licalというバンドについて語ろうと思う。

 

 

 衝撃的な音楽体験はトラウマに似ている。それはまさに、呼吸の仕方も忘れるような夜だった。

 

 福岡県小倉市に小倉FUSEという小さなライブハウスがある。泣く子も黙る仁義なき北九州の中心地である小倉駅近くに位置するこのライブハウスは、一本道路を跨いだら風俗街、跨がずとも近くにストリップ劇場がある、世紀末のような環境にひっそりと佇んでいる。趣と捉えるか地味と捉えるかはその人次第だが、この日初めて訪れた僕は見つけるのに割と手間取った。地下にある喫茶店のような外観をしており、本当に目立たないのだ。中まで入ると普通のライブハウスなんだけど。

 おおよそ2年前の2018年8月、愛してやまない平成の阿久悠こと山田亮一率いるバズマザーズのライブを観にここへ訪れた僕は、まったくマークしてなかった対バン相手の名も知らぬバンドにぶっ飛ばされることになる。

 

 

 山田亮一に会える。その一心だけで北九州という修羅の国にはるばる上陸した僕は、他の出演バンドについて全く予習をしていなかった。予習をしてなかったが故に、始まって数分で心を奪われた。ソリッドな轟音に全てを呑まれた。まぎれもなくヤバいバンドがいた。

 対バンにおける相手のバンドの予習とはワクチンのようなものである。摂取しなくとも罹らないかもしれないが、罹ったら、地獄を見る。バンドの放つ音楽というものははるか昔、恐竜がいたころから往々にしてそういうパワーを有している。面倒くさいの一言で予習を怠ると即死するのだ。まさしくそうだ。僕はlicalの鳴らす音楽に吹き飛ばされた。

 複雑に絡み合うツインギター、うねり踊るベース、キレッキレのドラム、儚くも芯のある女性ボーカル、そして何より冗談のように息の合ったタイトでテクニカルな演奏と、そのヒリつくような鋭角のサウンド。何から何まで全て衝撃的だった。衝撃的過ぎて、彼女らのライブが終わった後の、次のバンドへの転換中もずっと呆然としていた。

 本命であったバズマザーズのライブも遜色なく最高だったのだけど、licalの方が圧倒的にノーマークだった分、執拗なまでに脳裏に焼き付いていた。その日は新幹線の時間の関係で物販に顔を出せなかったのだけど、今になってそれを死ぬほど後悔している。神の悪戯で北九州から二度と出れなくなったとしても、物販でその日の感想を伝えるべきだった。結局僕はこの日の約30分間だけしか、licalのライブを観ることが出来なかった。それ以降はどうしても予定が合わず、後々に行われたlical主催の全国ツアーも、同じ小倉市まで来てくれたのに結局行けなかったのだ。

 衝撃と、歓喜と、未練が綯い交ぜになった、今でも忘れられない、忘れることが出来ない一夜になった。自身を切り裂かんばかりに鋭利な、薄くしなやかな刃のような音楽に刺されたまま帰路につく僕は、新幹線の中でひたすらにlicalのことを調べていた。僕がlicalと出会った夜はそんな感じだった。

 

 

 licalはその音楽性だけでなく、ビジュアル面からアートワーク、詩の世界観まで、使えるものは全部使って客を引きこめる魅力と、欺き通せる胆力のあるバンドだった。

 客を欺く。言い方は極めて悪いが、要はリスナーをバンドに没頭させる力のことである。

 ライブハウスに来る人間、もとい人よりも選んで音楽を聴いている人間は、大なり小なり非日常を求めてチケットを片手に自身の夜をささげている。日常ではおおよそ味わえない、狂った快楽じみた体験の渇望を好きな音楽に委ねて、日夜音楽を探し、ライブハウスに通っている。その根源となるのは単なる好奇心かもしれないし、日常に対する不満や退屈かもしれない。その思惑は人の数あれど、結局はどこまでも未知の快を求めている。圧倒的に壮大で、緻密で、重厚なフィクションを求めている。

 自身が心酔するアーティストが鳴らす生の音楽を至近距離で聴くことは、心に傷を残すほどに強烈で替えの利かない体験であると同時に、須らく非日常である。非日常であるからこそ、アーティストは観客を欺きとおす覚悟と胆力が不可欠となってくる。licalはそれが極めて優れていた。その音楽で奪った心や視線を落胆させることなく、バンドの出せるもの全てを使って欺き、繋ぎとめることが出来る稀有なバンドだった。

 

 

 儚げなボーカルをきちんと立たせながらも、リズム隊含めて卓越した演奏技術。その中でもひときわ目立つ、硬質で突き刺すような、責め立てるようなトリッキーなギター。そして特筆すべきは冗談みたいなキメの多さ。どれだけ息が合ってたら出来るんだ、と音源を聴くたびに思う。

 そしてこれだけ複雑なことをしながらもきちんと歌メロはキャッチ―に出来ており、耳馴染みがとてもいい。変拍子も転調もバリバリで、複雑なフレーズもこれでもかと盛り込んでいるのに、歌メロが良いから歌としてちゃんと聴けてしまう。こういう演奏バカテクバンドにありがちなとっつきにくさが殆どない。このバランス感覚。凹むから年下だと思いたくない。芸術点が高すぎる。

 この申し分なくテクニカルでありながらもきちんと歌として聴ける、という音楽性で射止めたファンをそのまま魅了してやまないのが、ビジュアル面やアートワークなどのバンドの外殻である。これらをバンドと切り離して考えることなく、バンドのイメージを損なわないようにきちんと構築しているからこそ、僕らリスナーは非日常から醒めてしまう心配もせず、安心してlicalの音楽にのめり込むことが出来る。好き勝手やっているように見えて、というか音楽性であったりといったそういう大事な芯の部分はきちんと持ち得ながらも、第三者からどう見られているかを考えるのが非常に巧みな印象がある。客観性に長けているのだ。

 歌詞にしてもそうだ。ボーカルで作詞を担っている璃菜氏はわりと偏った語彙を持っているらしく、どこから知ったのか分からない英単語や熟語を歌詞や曲のタイトルに用いることが多い。どの歌詞もどことなく退廃的で陰鬱な雰囲気を纏っており、文の構成はきちんとしているのに、前述の語彙も相まって一読程度では輪郭を成してくれない。おそらく恋愛詞が多いのだと思うが、さすが詩人を自称するだけあって一筋縄ではいかない詞を書いている。

 

狂悖を恕するミルクポット 嘘と秘密で高まる感度

転んだ傷にキスをして どんな痛みも平気になるから

 

lical――デルタ/劇薬

 

 「狂悖」なんて熟語を使う人、この人以外には中島敦くらいしか知らない。

 バンドの持つミステリアスさを増強させているのが、この独特な「詞」である。荒廃としていて陰鬱なのにどこか艶めかしい歌詞はどうにも癖が強く、好む人を選ぶと思うが、バンドの音楽性とはばっちりとかみ合っている。ハマる人がきちんとハマれる強度のある歌詞である。

 歌詞と同じく、ビジュアル面やCDの歌詞カードやアートワーク、MVの構成などに関してもきちんと自分たちなりの見せ方、こだわりを持っており、どれもバンドの雰囲気を損なわないように丁寧に構成されている。ステージングやライブパフォーマンスも何というか強烈で、華奢なボーカルが逆に映えて異様に思えるほど、音圧と立ち振る舞いからくる「どぎつさ」のようなものが物凄かった記憶がある。

 総じて狂っていながらも根は丁寧で、自分たちの持っているセンスや技量をその音楽だけではなく、バンドを取り巻くもの全てに捧ぐ事の出来る、そんな魅力を持ったバンドだった。これからもっと、大きなステージで彼女らの音楽が鳴り響く姿をみたかった。そう自分が心から悔やんでしまうくらいには、本当にかけがえのないバンドだった。

 

 

 僕はハヌマーンというもう解散してしまったバンドが今でもものすごく好きなのだが、僕はハヌマーンと出会っていなかったら、ここまで邦楽ロックに固執することはなかったのかもしれないと思っている。

 山田亮一の掻き鳴らす、世の雑多な喧騒を切り裂くようなテレキャスターに胸穿たれた数年前のあの瞬間のような、あの世界をちゃぶ台ごとひっくり返すような衝撃と、脳髄に焦げ付くような聴覚由来の快楽が忘れられず、彼らで知ってしまった音楽体験を探し求めて、今でも新たな音楽を探している。それと同時に、ハヌマーン以上の興奮を擁した音楽体験も今後ないだろうな、とある種の諦念を覚えている自分もいる。僕にとってハヌマーンとの出会いは天啓であり、またある意味ではトラウマにも似ていた。

 

 僕はlicalの音楽でハヌマーン以上の衝撃を受けたわけではないけれど、ある種同じような感動を覚えた。こういう音楽と出会うために、こういう音楽を鳴らすバンドと出会うために、僕は音楽を聴くんだなあと強く思った。そしてそれは、これから邦楽ロックという途方もないジャンルにハマるのであろう、名もなきリスナーにも言える。licalの音楽には、ひとりのリスナーのその後の嗜好を定め、これからそのリスナーが聴きこむ指針となり得る魅力と、その期待に耐えうる強度がある。僕にとってのハヌマーンがそうであったように、licalに全てを壊されて、このジャンルの虜になってしまうリスナーは、これから先もきっと出てくる。

 だからこそ続けてほしかったと、無期限活動休止が発表された今となって強く思う。音源に関しては買えるものは買っていたし、新曲も出すたびに追い続けてはいたけど、とにかくほとんどライブに行けなかった。ワンマンライブはおろか、彼女らが主催のライブにも。復活したバズマザーズとまた対バンしてほしかったし、vivid undressともまた2マンしてほしかった。本当に悔しい。彼女らのライブを惜しみなく楽しめる空間で身体を揺らしたかった。物販でも何でもいいから、面と向かって2018年の一方的な出会いを伝えたかった。僕がここで悔やんだって活動休止の未来が変わるわけではないけど、それでも書かずにはいられない。

 

 

 活動休止前ラストライブとなる配信ライブは、7月11日に行われる。一応言っておくが土曜日の夜だ。こんなブログを読んでいる物好きがどれだけ忙しいかは知らないが、ぼんやりとなんとなくYouTubeを眺めているよりはずっと良い体験が出来ると僕が断言する。一緒にlicalの晴れ舞台を見届けようぜ。

 

 

 記事を書き終わって推敲をしている途中に、新しいMVが公開された。「モータルトロンメルフェル」という曲だ。バンドが最後に書き下ろした曲らしい。先行配信にてすでに聴いていたが、MVとなったことでより生々しさと、どぎつさと、鮮烈さが増したように思う。改めて、失うには惜しいセンスだと強く感じた。

 上に挙げた数々の曲がそうであるように、いつもはテクニックと音圧で容赦なく殴ってくるバンドだけど、こういうどうしようもなく感傷的なメロディもまた、このバンドの持ち味である。音で耳に、言葉で心に、甘く鋭く傷をつけるように語り掛ける声音が、あまりにも優しくてまた凹んでしまった。なんで活動休止するんだよ。もっと聴かせてくれよ。そう願っても無駄なんだろうな。

 

 licalに出会えて本当にうれしく思う。それと同じくらい活動休止は残念だ。

 けれどもう、決めてしまったことは仕方がない。4人のこれからの行く末を、陰ながらひっそりと応援したい。そしていつかまた、4人の道筋が交わるような奇跡があったら、その時はこころから祝福したい。バンドマンは身体を壊しやすい生き物だから、無理のない範囲で息災で、いつまでも音楽を続けていてほしい。

 

 

 もっと貴方達の音楽が聴きたかったです。お疲れさまでした。

 願わくば、これが貴方達に向ける跋文となりませんように。

 

 

 

瀞にて未完成ーGRAPEVINEのダイナミズム

 僕が公言している趣味の一つに、読書がある。

 

 読書という趣味は、特に趣味のない人間が就活の際、履歴書の趣味の欄に書くものについて困った挙句、最後に行き着く砦であり掴む藁のようなもので、詰まるところ地味で取り柄のない人間が退屈な人生に絶望しない為の娯楽である。こんなこと書くと古今東西のプライドの高い読書好きの方々から滅多刺しにされてしまうかもしれないが、ぶっちゃけよくも悪くも無難でとやかく言うことも自慢することもない地味な趣味だ。曲がりなりにも自分の趣味をここまで貶めるのも胸が痛いが、事実であるから仕方あるまい。読書は地味です。

 僕が主に読んでいるのは格式の高い学術書なんてこともなく、大抵娯楽小説か漫画なので、なおさら読書趣味の人の中では身分も高くない。身分て。

 

 僕は活字中毒でも読書という行為自体に快感を覚えるわけでも何でもなく、ただ本が好きだから読んでるだけだが、正直YouTubeを観ている方が頭を使わなくていいので気楽で良いし、一面が文字で埋め尽くされた紙をぺらぺらめくって悦に浸るだけの娯楽はよくよく考えなくても退屈だと思う。目の前の本が迫力満点のフルボイスで文章を伝えてくれるわけでもなければ、文字がユニークに動いて物語を彩ってもくれないし。ことごとく前時代的な趣味だとつくづく思う。近頃は子供の学力低下にかこつけて若者の読書離れとか嘆く人がいるらしいが、そりゃ多種多様な娯楽に溢れたこのご時世、普通の感覚してたら読書なんて退屈だろう。かくいう僕も、子供のころからスマホYouTubeが今ぐらい普及してたら読書なんて見向きもしなかったと思う。他の娯楽の方が、面白いかどうかはさておき分かりやすく刺激的ではある。

 

 しかし、それでもこの地味であるはずの読書趣味というものが幼少期からかれこれ20年近く続いているのは、この趣味にそれなりの魅力があることの証左でもある。僕は一体読書の何に惹かれて、物心ついた頃から今まで地道に冊数を重ねているのだろうか。

 読書の魅力を考えてみる。悪いとこがない。家を出なくていい。コスパは思うほど悪くない。人に打ち明けたところで殆ど引かれない。書籍の外観自体がスマートでカッコいいのでそれなりの収集価値がある。大なり小なり知識と言う形で勉強になる。異なる価値観に触れられる。些細なことまで含めていろんな魅力があるが、個人的に挙げたいのは、読書から得た知識が「連鎖」することだ。

 

 例えば植物を主題とした娯楽小説を読んで植物に興味がわき、植物に関してもっと詳しく書かれた図鑑などを読み、そこで触れられた植物と関係する生物に興味を抱いてその生物に関して記された別の本を読み……という風に、読んだ本がまた別の本を呼び、その本がまた別の本を呼ぶ。これをひたすらに繰り返していくと、気が付けば今までの自分の好みでは決して触れることがなかったジャンルに行きついたりする。まるで行く当てのない気ままな一人旅の様に。

 そうして連鎖する読書によって蓄積された知識もまた別の興味を生み出し、その興味が原動力になり、結果新たな知識を産む。その繰り返しによって堆積した知識も、新たに知り得る知識や価値観で固められたり全てひっくり返されたりする。そうして培われた知識のかたまりが、自分自身をも思わぬ着地点へと導くようになる。

 僕の敬愛する作家のひとりである米澤穂信は著作『王とサーカス』の後書きにて、この自分自身の価値観をも変える知識欲の連鎖を「ダイナミズム」と称したが、実に的を射ていると思う。知識欲が引き金となる、爆発のような思考遊びの収束。めぐる世界は何も変わらないのに、自分の内面だけが知識の奔流によって破壊され、組み替えられていく感覚こそ、読書の魅力であり、醍醐味ではないか。

 ここは音楽のことを語るブログなのではないですか、なせ聴いてもいないのに読書の魅力について熱弁されているのですか、という思いはごもっともである。長くなったが、この記事の本題に移ろう(ここまで書くのに1週間かかった)

 

 

 ブログ開設当初からずっと、いつか書こう、いつか書こうと思いつつもなかなか言語化できなかった、大好きなバンドの話をしたい。今回はGRAPEVINEについての記事である。

 

 

 語りにくさ

 

 好きなアーティストは数多くいるが、その中でもGRAPEVINEほど何を語ればいいか分からないアーティストはいない。前述のとおりこのブログを始めたときから、いつか彼らについて書こうと思っていたのだが、なかなか綴れずにブログ開設から半年が経過してしまった。

 GRAPEVINEは語るものではない、感じるものだ! とかなんとか、香港のアクションスターみたいな精神で投げ出してしまえれば楽だとは思うが、せっかく勢いでブログなんて時代錯誤なウェブサイトを開設してしまったのだから、物好きのため、もとい僕自身のためにきちんと彼らを語らねばと言う思いは募っていた。開設当初から幾度となく立案とボツを繰り返し、年をまたいで半年が過ぎてようやくそれなりの形が仕上がったので、しばしお付き合い願いたい。

 

 彼らの語りにくさはその完成度の高さとバンドの持つ平衡感覚の強さゆえに、とりわけて特筆すべきポイントがないところにある。堅牢なまでに安定している上に悪い癖も隙もないので、何を語ればいいか分からないのだ。早い話「曲もライブも演奏も声も歌詞も良い、長年のキャリアによって裏打ちされた技術と魅力を持つ最強のバンドです、ぜひ聴いてください」で、彼らの紹介なんて全て終わってしまう。衝撃の60文字。そんなもんブログでなくともTwitterで済む話である。

 長いキャリアの中で育まれた音楽性は一筋縄ではいかないほどに多様であり、メロディは美麗だが時に無機質にも猛々しくもなり、歌詞は文学的かつ叙情的でありながらもどこか抽象的でつかみどころがなく、演奏は文句なしに上手い。こうまんべんなく褒めちぎるようなことを書くとどうも器用貧乏のレッテルを貼られがちであるが、そういうにはあまりにレベルが高すぎる。狂信者的な例えとなるが、個人的には器用「万能」が正しいと思う。何でも出来るが故に、安易な言及がしづらいのだ。

 

 

 例えば彼らの初期の代表曲であるこのスロウなんてもう、声も演奏も展開も何もかも良いとこしかないわけで。これを20代で作っていたとか信じられますか。爛熟と言って差し支えないほどの、シブさ。近年の彼らはよく「楽曲に年齢が追いついてきた」みたいな評価をされるが、その意見は半分頷けるし半分違和感も感じる(これに関してはまた後述する)

 スロウや同じく初期の代表曲である「光について」、最新作に収録されている「すべてのありふれた光」などといった美しい歌メロが秀逸なミドルテンポの曲を中心に、エッジの利いたアップテンポなロックソングやとろけるようなバラード、混沌とした形容しがたい曲やホーンを用いたカラフルな曲など、とにかくふり幅が広い。おおよそ一年おきに未だにコンスタントにリリースされるオリジナルアルバムは出すたびにバンドの新しい色、もとい境地を見せてくれるものに仕上げてきて、なおかつ毎回それがすとんと胸に落ちるような作りになっている。

 どんなに突飛で、一聴して真意がつかめないような曲でも、なんだかんだ「GRAPEVINEだもんな」で不思議と納得できてしまう、キャリアによって培われた地力と平衡感覚。彼らの持ち味、強みという点を言語化すればおそらくこういう結論に至るが、今回は素人なりにもう少し穿った、ちょっと変わった着眼点から彼らの魅力を解いていきたい。

 

 そこで僕が彼らの魅力を語るために引き合いに出したいのが、彼らの生み出す音楽による快楽は、前述のとおり読書がもたらすそれと似通っている、ということである。リスナー自身の日々の積み重ねによって、彼らの持つ「良さ」は連鎖し、ある日炸裂する。

 

 

「好き」が起こすダイナミズム

 

 腰を据えて音楽を聴かない層の中には、ベースの音が分からない人が一定数いるらしい。

 別にそれに関してとやかく書くつもりは無い。無いが、イヤホンを耳につけない日がほとんどない身としては信じがたい話ではある。しかし本格的に邦楽、もとい音楽の魅力にどっぷりつかる前まで、僕はきちんとベースの音を聴けていたかと問われれば正直自信がない。というかスラップの様に主張の激しい奏法であればまだしも、何の変哲もないルート弾きをきちんと認識できていたか、と問われると流石に首を振ってしまう。

 人間という生き物はよく出来たもので、興味のないことをとことん自身の視界から排除しても、違和感を抱くことなく生きていけるのだ。僕がキャプテン翼のキャラの区別があまりつかないように、音楽に興味がない人にはベースの音を認識できていない人もいる。誰にだって知らず知らずのうちに抜け落ちている、他の界隈にとっての常識がある。

 我々は世にある多様な知識を身に付けることで、世界とつながっている。単純に知っているものが多ければ多いほど見える世界は色鮮やかなり、遥かに意味を持つものとなる。時にはその知りすぎていることが排斥すべき情報すらも取り込んで、不快な感情まで呼び起こしてしまうのかもしれないが、それを含めて知識がある人とない人では世界の見方が全く違う。赤ちゃんと大人で考えればわかりやすいか。

 我々は言葉で世界を見ている、とはよく言ったもので、つまるところ知識や語彙は世界に対するぼやけた視界を矯正するレンズとなる。語彙が少ない人はそれだけ見えている世界が不明瞭で狭いんですね。SNS上でよくみられる、語彙力を失くしているオタクは視野が狭い。いつも推ししか見えてないから仕方ないね。

 

 

 GRAPEVINEの音楽は、一聴では分かりづらい魅力に満ちている。

 それはどこか文学的な歌詞であったり、楽曲の多様性であったり、楽器同士の複雑な絡み合いであったり、はたまたボーカル田中の独特な癖のある声であったり。各個の卓越した技量とセンスが生み出す調和は、一回聴いただけで全てを理解できるような、そんな淡白で分かりやすいものではない。ゆえに、少しとっつきにくく、噛み砕きにくい部分がある。彼らの楽曲を聴き始めてもう6年くらいになるが、いまだに上手く呑み込めていない曲もちらほらある。まだまだ聴きこみが足りない。

 彼らはそこまで派手な、煌びやかなバンドではない。たった一曲で全てを虜にするような音楽性というよりは、何かのとっかかりをきっかけに聴き続けていくうちに、知らず知らずドツボにハマる音楽性だと言える。歯に衣着せぬ言い方をするのであれば、昨今の市場にて評価される、派手で耳心地の良い楽曲と比べると、分かりにくく、いささか地味な印象を抱くかもしれない。ただ、それは決して「華が無い」わけではない。

 

 

 僕が初めてGRAPEVINEを知ったきっかけは、Wikipediaだった。syrup16g五十嵐隆の飲み友達として、田中和将の名前が挙げられていたのだ。そこから地元のサーキットイベントでたまたま初めてライブを観て、なんとなくそのライブが忘れられず「lifetime」をレンタルショップで借りて、そこから少しずつ、少しずつ、じわじわとハマっていった。最初から高い熱量のファンだったわけではない。ただ、不思議と飽きることがなかった。飽きることなく長く聴き続けているうちに、大好きなバンドに自然と名の上がる存在になった。耳寂しくなるととりあえず彼らの音楽を聴くようになった。

 彼らの音楽は底がない。聴くたびに新たな発見がある。こう書くとどうにも当たり障りのない紹介になってしまって歯がゆいのだが、彼らの楽曲だけでなく、彼ら以外の色んな音楽を聴いたり、色んな本を読んでは戻ってくるたびに、彼らの音楽から聴こえるものが、見えなかった歌詞の真意のようなものが増えていく。霞がかった視界が晴れていくような、ばらばらだったパズルのピースが次第に一つに形を成していくような。

 巷にあふれる玉石混淆の音楽から、地道に自分だけの「玉」を探し出すような、そんな途方もなくすらも思える方法で音楽と触れ合っていると、素人なりにも自分のすきな音楽がどういうものか、どういう展開、音、発声、歌詞、リズムに心惹かれるのかがなんとなくわかってくる、気がする。数多の音楽の中で見つけた自分の小さな「玉」たる曲の、バンドのルーツを探り、そこから少しずつ興味を紡いで、少しずつ自分の好きを確立していく。読書によって得られる知識が連鎖するように、自分の「好き」が連鎖し、蓄積する。

 そういう自分だけの「好き」の手がかり・断片のようなものを探しては拾い集め、一つ一つ組み上げていく中で、今まで良いのか良くないのか分からないまま、消化不良のまま聞き流していた音楽が、ある日突然自分の中に積み重なった「好き」によってひっくり返され、それまでとは全く違って聴こえてしまう、快楽。新しい地平に立つ感覚というか、見渡す世界の視覚の明度が上がる感覚というか、もう世に出てしまった不変の作品である曲を前に、自分だけが自分の好きによって木端微塵に破壊され、新たに構築される感覚というか。漠然としていた好きが、確信めいた快楽に昇華する瞬間。僕はGRAPEVINEの音楽にそういう快楽を、幾度ももたらされ続けてきたように思う。

 

 

 少し上で挙げた「指先」のBメロから間髪入れずにぬるりと入ってくるサビにしても、この「Wants」のシンプルなアコギからメロディアスに盛り上がっていく後奏やサビ直前に右から重く厚みを増させるエレキの音にしても、聴き始めたときは何も思わなかったのに、今となっては聴くたびに感情を全て持っていかれてしまう。最初は気付けなかった良さに、彼らの、もしくは彼ら以外の音楽を取り込み続けることで、何気なく聴いていた彼らの音楽から見えてきた、未知の景色がある。

 

コヨーテ

コヨーテ

  • provided courtesy of iTunes

 

 歌詞にしてもそうだ。「フラニーと同意」や「metamorphose」の様に海外の文学作品を分かりやすくモチーフにしたものもあれば、「リトル・ガール・トリートメント」「ソープオペラ」のようにいくらでも深掘り、言葉を選ばずに言うなら邪推できるような曲もあるし、一見意味不明でもその内実を知識として身に付けると、歌詞の全体像がより鮮明に見えてくるものもある。

 上に挙げた「コヨーテ」も単なる動物の方だけではなく、北アメリカのインディアンが「トリックスター」として崇める、伝承としてのコヨーテのことを知ることで、歌詞の真意がより一層飲み込めたりする。田中氏がこっちのコヨーテに関する知識をどんな過程にて仕入れたのかなどは知る由もないが、これを飲み込んでから改めて聴くと、ちょっと肩の力の抜けた歌メロや、間奏で入るハーモニカっぽい音の陽気さ、全体的に自由奔放なギターも、どことなく悪戯好きなトリックスターを彷彿とさせて面白い。こういうところまで計算づくで作っているとすれば、本当にどの楽曲もまだまだ聴きこみが足りないし、解剖しがいがある。どこまでも底が見えない。

 

 上に挙げたような色んな知識の断片を総動員して紐解いていけるような歌詞も書ければ、どこまでも心に迫る、胸を突く歌詞も書けるのがソングライター田中和将の恐ろしいところで、僕はどちらかといえばこちらの歌詞に心打たれたことが多い。含蓄の深さを物語る歌詞も魅力的だが、田中自身の価値観、持ち前のシニカルさから紡がれる、諦念やマイナス寄りの覚悟を感じる詞も、同じくらい魅力的で、味がある。

 

 いつか叶うようにと

 どの面下げて言うんだろう

 その大事な想いも

 やがて忘れてしまうんだそうだ

 

 GRAPEVINE――Everyman,everywhere

 

 どうにもならないことを奇蹟や希望によって覆そうとすることなく、そういうものだと捉えながらも、その中で自分の価値観やささやかな反抗心や皮肉、理想を紡ぐ歌詞。ストレートに書くことがはずかしいから少し捻っている、との本人の弁の通り、分かりやすくは書いていないが、その分日本語の持つ美しさや彼の言葉選びの魅力が垣間見れる。彼自身、ミュージシャンになるまでも家庭の事情で僕の想像など及ばないくらいの苦労を経験したそうだが、その頃の経験も間違いなく自身の血肉となっているのだろうな、と思う。

 

 詞にも曲にも、聴けば聴くほどに新たな発見があり、気付く魅力がある。本当に月並みな表現でしかないが、今僕が好きなアーティストの中でこの言葉が一番ふさわしいアーティストは、彼らだと断言できる。今は呑み込めない詞もメロディも、これからの僕の価値観や嗜好の変容によって、ある日突然「好き」が爆発するかもしれない。その気持ちよさを彼らに教えられたから、僕はこの先も彼らの曲を聴き続けるのだろう。聴いていく音楽とは別に、得ていく知識やそれにより新たに育まれる価値観によって変わっていく未来の自分ですらも、持ち前のふり幅で間違いなく満たしてくれるその懐の広さこそ、彼らの一番の魅力だと思う。

 

 

 瀞にて未だに

 

 

 邦楽ロック界隈、ひいては音楽業界全体を川とするなら、GRAPEVINEは瀞のような場所にいる存在だと思う。

 

 瀞とは、川の流れが深くて非常に静かな場所を指す言葉である。よく渓谷などの地名として使われているが、今ではあまり使われない言葉らしい。

 音楽業界は新陳代謝の高すぎる世界だとつくづく思う。娯楽を生み出す界隈すべてに通ずるものだと思うけど、音楽はそれが特に顕著だ。いつかの記事でも同じようなことを書いたが、今第一線で活躍しているアーティストも、5年後も同じように支持されているとは限らない。僕が邦楽ロックを聴き始めたころと今では、メインストリートにて音を鳴らしているミュージシャンの顔触れは全然違う。音楽はそこに在り続けるけど、同じ音が鳴り響き続けるわけではない。絶え間なく流れ続ける川の水の様に、市場を席巻するバンドも絶えず入れ替わり続ける。入れ替わらないのは停滞しているということだから、現状が正常なのだろう。メジャーもインディーズも関係なく昔の曲しか評価されなくなったら、それこそ本当に業界の終わりである。

 その瞬間の世の覇権を握る楽曲が、それを聴く一人のリスナーにとっての絶対的な「世界一好きな音楽」の解答であろうと、そこは決して音楽そのものの到達点ではない。全ての人類にとって一番優れた音楽、というものが、未だ作られてないだけでもしかしたら存在するのかもしれないが、作られてないからこそミュージシャンは今日もまだ見ぬ解答を求めて日夜音楽と向き合い、リスナーは今日も新たな音楽を探す。

 音楽のあるべき姿はおそらくこうなんだろうけど、理想を追い求めるだけでは食べていけないから、結局は大衆に分かりやすく、程よく新しさを擁している楽曲を作れる人たちが、その時々の覇権を握っているのが現実だと思う。おそらくそういう背景があって現代を風靡するKing Gnuは生まれたし、米津玄師はウケたのだろう。

 

 近年のGRAPEVINEは、それこそ代表曲である「光について」や上に挙げた「望みの彼方」を踏襲するような、分かりやすいグッドメロディが印象的な曲がわりと減ったように思う。「すべてのありふれた光」のような、これぞGRAPEVINE! と言わんばかりの優しく耳に残る歌メロ曲ももちろん作りながらも、どちらかといえば無機質であったり、奔放であったり、ABサビの型にまったくハマらなかったりといった、前衛的・挑戦的な曲調の楽曲が増えたような気がしている。

 

 

 最新作の「ALL THE LIGHT」に関しても、全面にホーンを用いた多幸感にあふれるリード曲の「Alright」を始め、全編アカペラの「開花」や、執拗に鳴り続ける物寂しげなエレキギターの弾き語りがどこか不気味でありながらもふんわりと優しい「こぼれる」、多様性に富みながらも全体的に静かに流れるアルバムの中で、バチッと映えるエネルギッシュな「God only knows」など、相も変わらずだだっ広いふり幅の中から、一生枯れる気配のない音楽に対する意欲と、己とリスナーに対する挑戦心を感じる。静かな時間の流れ続ける瀞にて、どこまでも掴めない何かを探し続けている。

 長いキャリアで培ってきたファンと地位にかまけて、牙を研ぐのをやめてしまえば、まだ見ぬ素晴らしき楽曲の探求を止めてしまえば、すぐにその才は腐ってしまう。耳敏いリスナーはすぐに見限ってしまう。彼らは音楽業界の苛烈な奔流の中で、熱心なファンを抱えて一際静かな場所にただ留まり続けているようにも見えるが、そこに留まり続けるのには、相応の覚悟と並々ならぬ努力が要る。いくら水の流れが極めて緩やかな瀞であろうと、流れ続ける水に従って古くなった水は入れ替えていかねば、水はいずれ腐って中の生命は死に絶えてしまうのだ。

 単純な流行りではなくやりたいことをどこまでも貫く覚悟と、その覚悟を言葉だけのものにしないための、音楽に対する研究と努力。時代の変化によって変わる価値観に適応するための、自己のアップデート。自分たちの立っている場所が不変である、という幻想を捨てる決心。求め続ける場所が不変であるために、彼ら自身が不変でありつづけることを彼らは、とうの昔に打ち捨てている。彼らの音楽に、完成は未だ無いのだ。

 

何度も奏でて 色褪せて

悲しいほど 繰り返そう

何も変わらなくていい このままでいられるよう

ここに突っ立ってるよ

 

GRAPEVINE――指先

 

 彼らの曲を聴いて普段からこんな面倒なことを考えているのか、と言われたらそんなことはないし、僕が彼らについて知っていることなんて彼らが公に見せている範囲の1割もないと思うが、この地位でこのキャリアを持ちながら、新譜を出すたびに新しいことをやり続け、それでいてリスナーの心を掴んで離さない彼らのことを考えると、これくらい芯の通った決心を抱えてないとやっていけないのかな、と思うのだ。

 飽くなき探求心と、音楽に対する並々ならぬ渇望を兼ね備えた彼らは、これから先もおそらくずっと完成しない。ずっと新しくあり続ける。名のある評論家からここが極致と評されても、それでも新たな地平を切り開き続ける。果たして存在するかもわからない理想を求めて、リスナーすらも気に留めることなく、ひたすらに自分たちの「好き」を磨き続ける。

 

油断すると 大人になっちまう

 

GRAPEVINE――真昼の子供たち

 

 ずっと上にて『近年の彼らはよく「楽曲に年齢が追いついてきた」みたいな評価をされるが、その意見は半分頷けるし半分違和感も感じる』と書いた。彼らが若かりし頃に書いた曲が、キャリアを伴って新たな魅力を見せ始めた、という意味ではそうだとも思う。が、年齢だけを積み重ねた結果、彼らの過去の曲がより映えることになったのかと言われれば、それはそれで違和感を感じるのだ。彼らがセールス上の最盛期を迎えていた当時ではなく、誰も見ていなかった遠い未来を見据え続け、思考錯誤を繰り返してきた結果ではないか。飽くなき探求の賜物ではないか。

 

 

 世が絶えず変化を続けるように、音楽も変わり続け、終着点である完成を拒み続けるからこそ、GRAPEVINEの音楽は完成せず、終わらず、いつまでも変わり続ける。僕はそれを聴くたびに圧倒され、新たな「好き」の扉を開き、時には全てをひっくり返されるのだろう。

 

 

 ここまで長々と語りましたが、文字を読むのも面倒くさい方向けに要点だけかいつまんで書きます。曲もライブも演奏も声も歌詞も良い、長年のキャリアによって裏打ちされた技術と魅力を持つ最強のバンドです、ぜひ聴いてください。以上、ブログでなくともTwitterで済む話でした。

 

 

俺はナナヲアカリちゃん大好きおじさんになってしまった

 

 タイトルの通りである。勘弁してほしい

 

 今年に入って一番聴いたアーティストは誰ですか? という問いに現時点で答えるとするなら間違いなくナナヲアカリだと思う。いやだめだちょっと呼び捨てが出来ない。ナナヲアカリちゃん、と呼ばせてほしい。

 

 この場を借りて懺悔させてほしいのだが、今年に入るまで僕はナナヲアカリちゃんの「ナ」の字も知らなかったのだ。それが今ではApple Musicで聴ける音源全部聴いてYouTubeで観れるPV・ライブ映像全部観て、カルボナーラを作って、動物とマイメンになって、終いにはツイキャスまで覗く様になってしまった。これは本当に面倒臭がりの僕としてはすごいことだ。ここまでハマったアーティストは本当にひさびさである。マジでTHE PINBALLSやCRYAMY以来かもしれない。

 最近は聴くものに困るとフライングベストを聴いているし、週初めの月曜日は最新作の「マンガみたいな恋人がほしい」を6曲全部鼓膜に叩き込んでから職場に向かっているし、ことあるごとにナナヲアカリちゃんのTwitterを眺めては悶絶している気がする。いや最後はちょっと大げさだけど、マジで毎日のルーティンにナナヲアカリちゃんタイムがある。レスラーが物事の節目節目に煙草を刻むように、ナナヲアカリちゃんを日々の節目節目に刻んで生きている。これは最早常備薬に近い。彼女の声を摂取しないとまっすぐ歩けなくなってしまった。ハイレヴェルなヤク中みたいなこと言いよる

 とにかく今までの人生においてハマってきたアーティストと比較しても、初聴から自分の音楽嗜好に浸食していく速度が段違いに速い。マジで速い。じわじわとその深さにハマっていくわけではなく、一気に好きになるタイプ。そういう点ではユニゾンとかヒトリエと似通った部分はあるなあと思う。とにかく即効性が強い。

 そんなわけでこの記事ではナナヲアカリちゃんの魅力を語ろうと思うんだけど、もうね、Twitterのフォロワー数10万人、YouTube公式チャンネルの登録者数44.5万人(2020年5月現在)の大人気歌手に対して、知って数ヵ月目の僕が語れることなんてたかが知れてるので見当外れなこと言っても多めにみてくれるか、他にこんな魅力があるんだぜってことがあればぜひ教えてほしい

 

 

 ダメさ

 

 ナナヲアカリちゃんの一番いいとこはダメなとこです。wikipediaにもファンから「ダメ天使」と呼ばれてるって書いてあるしこれは多分明記したって怒られないと思う。ダメなとこがいい。本当に。

 いや実際は普通に賢い真人間だと思うんですよ。行動力もあるし親友と呼べる友達もいるっぽいしギターも弾けるし作詞も作曲も出来るわけで、僕なんかよりずっと賢いしきちんとしてると思うんですけど、その自覚しているのであろうダメさを、隠すことなく武器として全面に出してるのがとてもいい。ほんとに、いい。めちゃめちゃいいキャラクターを持ってるなって。

 女性のポップソングシンガー・アニソン歌手ってどうしてもキャラクター商売な部分があるじゃないですか。面白さとか、ミステリアスさとか、隠れオタクとか美人かどうかとか、あとはどんなアーティストと関わっているかとか。声優と兼業だったらどんな役をやってるかとか、他の声優との絡みとか。単純な声の質とか歌唱力と同じくらい、その人がどんな性格で、どんな属性を持ってて、どういう立ち振る舞いをするのか、平たく言うのであればどんなキャラなのかっていうのが人気に密接に関わるっていう側面が少なからずあるわけで。まあほとんどアイドルですよ。

 アニメソング歌手、って括りだけで文字通り星の数ほどのアーティスト・声優がひしめき合っている中で、重度のオタクですとか声が可愛いとかそういう生半可なキャラ付けしててもすぐに食われるんですよ。これはどんなジャンルの音楽だって同じだと思うけど、その界隈に自分より優れた同系統の個性を持っている人がいたらすぐにその人の下位互換のレッテルを貼られるわけで。特に今のご時世は流行り廃りが激しいからなおさら強めの個性が求められる。何かしらのタイアップやらネット上での一瞬のバズりで知名度を上げたところで、そこに魅力的なキャラが伴ってないとお話にならない。若い女性のシンガーなら尚更である。顔が可愛い子ばっかりでほんと大変だよな。

 ナナヲアカリちゃんのいいとこ、というか強みは、そのキャラ付けの部分で「ダメさ」を惜しみなく前面にどかーんと出しているところだと思う。ダメであることに真摯。

 

 

 働きたくはないし されどもお金ないし

 かといや布団から出たくはないし

 お釈迦になる――ナナヲアカリ

 

 まあこの曲の歌詞書いたのはみんな大好きNeru氏なんだけど、他の曲でもなんでもこういう歌詞を当たり前に使えるキャラ作りに成功してんのはめちゃくちゃ良いよなって思うんですよ。

 このくらいの年齢の女性歌手の歌って、もっと希望とか未来とか友情とか、そういう元気でキラキラしたものを主軸にしがちだと思うんですよ。ダウナーなテーマでもよくて失恋とか、若さゆえの懊悩とか、そんな感じ。それが悪いってことではなくて、ていうか普通はそうであるべきなんだろうけど、決してそれしか歌っちゃダメってことではない。いや、それどころか今のこのご時世、どっちかっていうとネガティブな題材の方が受けてる気すらするぞ。女性歌手のみなさん、もっと心に負った傷とか歌にしていいんじゃないでしょうか

 彼女はその点で他の同業者と明確な差別化をしている。ナナヲアカリちゃんめっちゃ可愛い顔して歌ってるワードが五十嵐隆五十嵐隆にうま味調味料とサブカルとカワイイを鬼のように添加したら多分ナナヲアカリちゃんが爆誕する。インターネットもといSNSが生活の一部として当たり前となった世代、のナイーブな部分を的確にぶっ刺す言葉選びがとても秀逸。

 チューリングラブとか、ワンルームシュガーライフとかあの辺の、ナユタン星人が作った中毒性激強なポップで可愛くてBPMが早いダンスビート、つまり俺たちの好きな奴をアニメタイアップでうまーく当てて、興味を持ったところで持ち前のダメさと可愛さのダブルパンチで叩き落す。この即死コンボよ。あざとい、悔しい、でも聴いちゃう……

 

 

 曲、めっちゃいい

 

 そしてそんな味の濃いキャラに負けじと曲もいいんだなこれが。そりゃだって作ってるメンツがもうやばいもん。

 

 米津玄師、そしてヒトリエあたりのニコニコ出身のアーティストがシーンに風穴を開けてから、邦楽ロックとボーカロイド及び歌い手、そしてアニソン歌手の垣根がぶっ壊されて境界が曖昧になった今日の邦楽シーンは、高校時代ボカロを聴き漁ってた身としては滅茶苦茶楽しいんだけど、そのごちゃ混ぜになったシーンでも台頭してきたのがやっぱりボカロP、もとい彼らが主催のグループではないかと思うわけで。

 2~3年前くらいから明らかに目立つようになったボカロ出身のクリエイターたち。もう名前を挙げたが米津玄師にヒトリエ、ヨルシカ、PENGUIN RESEARCH、ネクライトーキー、サイダーガール、須田景凪などなど挙げればきりがない。最近ではYOASOBIとか空白ごっことかもそうだし、ずっと真夜中でいいのに。にも編曲にボカロPがガッツリ関わってたりする。どこもかしこもボカロPだらけ。

 泣く子も黙る超有名PであるNeru氏の曲にて産声を上げたナナヲアカリちゃんも言うなればこの括りに入るアーティストなんだけど、彼女は別に一人のクリエイターがバックについてプロデュースしているわけではなく、色んなクリエイターが彼女の曲を作っている。どっちかと言えば三月のパンタシアとか、ちょっとクリエイターのジャンルが変わるけどLiSAとかに近い。いろんな人が彼女の曲を作っているわけだから、振り幅がとても広いわけですね。

 

 ボーカロイドという何でもありな世界にて育まれた個性バリバリな面子がバカスカ曲提供してるっていうんならそりゃ強いよねって話。ざっと挙げてもNeru、DECO*27、ナユタン星人にバルーンに石風呂にみきとPに、最新作では煮ル果実も加わっている。錚々たる、なんて言葉が陳腐に聞こえる。王下何武海ですか?

 中毒性の高い電波ソングからバチバチのロック、無機質な打ち込み曲にアコースティックなバラードまで幅広く持っており、それらすべてが本当に良い曲だらけ。歌い方も曲によってカッコよさ・可愛さ・ゆるさ・だるさをそれぞれ使い分け、色んな表情を見せてくれる。根底にある「ダメ天使」というキャラは崩さずに、その上でやりたいほうだいやっているのだ。

 ナナヲアカリちゃんという個人はそのままに、「ナナヲアカリ」という一つのコンテンツがあり、その枠内でクリエイターが各々好き勝手やって、それをナナヲアカリちゃん自身がアウトプットしている感じ。でも自身のキャラがしっかりしているから、決して「歌わせられている」という感じはせず、ちゃんと彼女の曲になっている。好き勝手やってても芯はブレない。

 そういうわけで彼女が今まで出した曲を紹介したいのだが、全部紹介すると流石に腱鞘炎になるので、今回は厳選して5曲を紹介する。気になったのならもう全部聴けばいいよ。

 

 

1.ダダダダ天使

 

 

 まあこれは入れないとダメだよねって曲。自己紹介ソングですね。

 味の濃いメインリフと4つ打ちダンスビート、彼女の十八番であるボカロを彷彿とさせる早口、ライブ映えするコールもふんだんに盛り込んだ大変中毒性の高い一曲。Vtuberとか歌い手がこぞってカバーしており、昔ながらの音MADもちらほら見かける。時代が時代だったらニコニコ動画でもコスりにコスられてただろうね。

 僕はチューリングラブをブックオフの店内放送で聴いてからナナヲアカリちゃんを知ったんだけど(何だこの曲って思って必死で歌詞を覚えて検索した)ハマったきっかけはこの曲である。YouTubeでこの曲のライブバージョンを聴いてからドハマりした。もっとキャピキャピしてるもんだと思ってたら結構ガッツリとバンドで面食らったのだ。ギャップに敗北してしまった。

 

 

 1:15のコールに合わせて足上げるとこめっちゃ好き

  この曲が好きだったらナナヲアカリちゃんを聴きこむと幸せな音楽体験が出来るのではないでしょうか。は? この曲が好きじゃなかったら? 我慢して聴いてたらどうせ好きになるので四の五の言わず聴いてください。音楽とは洗脳です

 

 

2.シアワセシンドローム

 

 

 ダダダダ天使もだけどこれもナユタン星人作曲。お前ナユタン星人が好きなだけじゃねえかって言われそう。まあいっぱい作ってるからね

 ナナヲアカリちゃんの曲で特徴的なのは、いくつかの曲の間奏部分にポエトリーと称される、ラップのようなそうでないようなセリフが入ること。その曲の2番を全部食ってしまうほど長いものもあれば、ラスサビ前の間奏にちょろっと含まれるだけのものもある。シアワセシンドロームは結構長めのポエトリーが入っており、ここの「まあ もう とにかく疲れたんだってば」が好きすぎて、それが聴きたいがために何回リピートしたか分からないってくらいリピートした。

 ナナヲアカリちゃんはほんとに何というか、血肉の付いたボーカロイドというか、おおよそ人間が歌う歌じゃないよ、っていう詰め込み方した曲を涼しい顔で歌う。滑舌が異次元。普通にしゃべってる時はちょっと舌足らずにすら聞こえるのになんで歌う時はべらべらなんだろう。ふしぎ。わざとやってんのかな、それならそれで可愛いけど

 

 

3.kidding

 

kidding

kidding

  • ナナヲアカリ
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 僕はまだナナヲアカリちゃんがインディーズのころに出した音源で、YouTubeにもApple Musicにもない曲は本当に一切聴けてないので、彼女が作曲した曲に関してもメジャー後に出したものしかまだ聴いてないんだけど、今現在聴いた中で、ナナヲアカリちゃんが書いた曲で一番好きなのはこの曲。

 フライングベストとかいう、収録されている曲のBPMで平均取ったらめちゃくちゃな値を叩きだしそうなくらいに早い曲が揃いに揃った1stアルバムの中でも異彩を放つ、ゆったりとしたアコースティックなバラード。前後の曲と比べてもびっくりするくらい静か。前後の曲が特別うるせえってのもあるんだけど。

 ともすれば味が濃すぎて聴き疲れてしまうあのアルバムの中で、ふっと肩の力を抜いて聴けるこの曲は、なんというかとても映える。そして歌詞もいい。

 

 ほら 何もしなくたって お腹は減るのさ

 kidding――ナナヲアカリ

 

 部屋の底で水もなく溺れているような閉塞感が満ちた詞を、気だるげでゆったりとした声で歌うこの曲を聴くと、別に頑張らなくてもいいやって思える。肩の力抜きすぎて肩をどっかで落っことしたって、もう別にいいやって。頑張るのって疲れるんですよ。ネットでも現実世界でも、頑張るのはとても疲れる。

 こないだのツイキャスYouTubeライブだか忘れたんだけど、その時弾き語りで聴けて大変うれしゅうございました。個人的にはCD音源より弾き語りverのが好きだった。いつかライブで聴けたらいいな。

 

 

4.Youth

 

Youth

Youth

  • ナナヲアカリ
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

 出ました個人的二大巨頭の一角。今年に入っておそらく一番聴いてる曲です。大好き。何も言うことがない。ただひたすらに好き。

 無機質で薄味なバックの演奏に、これまた気だるげな歌。Youthというタイトル通り、若者の憂鬱というか、先の分からなさ? 憂い? みたいな、どうにもならない、どうしようもない、けどまあ多分大丈夫、みたいな曖昧を曖昧なまま形にした、マジでどう表現したらいいかわからない独特の気持ちいい浮遊感のあるサウンド。とてもいい。夜に聴いても朝に聴いてもいい。どっちかというと夜の曲。深夜誰もいない街中をゆらゆらと歩きながら聴きたい。

 彼女の親友について歌った曲らしく、それについてのインタビュー記事があるから歌詞に関しての考察とかは記事見ながら適当にやればいいと思うんだけど、この曲はマジでもう聴き心地が良い。歌詞も良いけどそれよりなにより聴き心地が良い。さっきから連呼してるけど聴き心地って何だろう

 

 

5.眠らない街、眠りたい僕 

 

眠らない街、眠りたい僕

眠らない街、眠りたい僕

  • ナナヲアカリ
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

  

 今まで上に書いてること全部忘れてとりあえずこの曲だけもう聴いてくれればいいよ

 二大巨頭の一角にして個人的に最強の一曲。今んとここの曲が一番好き。やっばい。

 重ためのギターサウンドにゴリッゴリのベース、ストレートに陰鬱な歌詞の世界観、それだけでも百点満点なんですけどなにより声がいい~その声でそのサウンドを後ろにその歌詞を歌うのはもうだめですよ、癖が詰まってるよ癖が ランダムにどれかの能力が二段階上昇してしまう

 これはもう好きなところしかないから特筆も何もないんだけど、あえて言うならサビの入りの「くだらないな」のとこでがなり声になるというか、ちょっと巻き舌っぽいの入るのめっちゃ良くないですか。ナナヲアカリちゃんの「カッコいい」の部分が超出てる。

 ちなみに、この曲と上のYouthはどっちもキタニタツヤ(こんにちは谷田さん)作曲。俺の身体中のツボを知り尽くしている。日向一族かよ。

 

 

 というわけで5曲紹介でした。他にもんなわけないけどとかハノとか月だけが聞いているとかメルヘル小惑星とか語りたい曲はいっぱいあるけど、YouTubeにMVがたくさん上がってるから聴けばいいと思うよ。僕が何キロバイト文章を紡ごうと再生ボタン一回押す方が分かりやすい。興味を持つきっかけにでもなったらなと思う

 

 

 顔が可愛い

 

 

 顔が可愛い。見りゃ分かんだそんなことは。

 でもこの顔の可愛さはそれが主体ではなく、あくまで音楽の付加価値的な意味としてのあれであって……みたいなことを長々と綴ろうとしたんだけど、ちょっと聴いてほしい話がある。

 

 僕の昔話なんだけど、高校生の頃同級生にももクロ好きな友達がいたんですよ。

 スマホの写真フォルダに推しの子(ピンク)の画像をしこたま詰め込んで、きたねえウォークマンに詰め込んだ音源を無理やり聞かせて、文化祭では体育館のステージでももクロの曲でオタ芸やって……と、ありとあらゆる手段で僕に「ももクロはいいぞ」とガンガン勧めてくる、オタクというにはちょっと過剰に活発な、今風に言うと「陽キャ」なオタクだった友達が。僕はぶっちゃけ当時女性アイドルグループに過度な偏見を持ってたのでどれだけ勧められても聴かなかったんですけど。

「顔とかアイドルって仕事に本気なとこもいいけど、なによりマジで曲が良いんだ」って何かと熱弁してて、正直なんだコイツどうせ顔目当てのくせに正当化しやがって気持ち悪ッて思ってた節があったんですけど、今僕がその状態に陥ってて焦った。いや顔は、顔はもちろん良いけど僕はあくまで彼女の音楽に惚れてだね……みたいな、誰のためか分からない弁明をしかけてマジで頭抱えた。

 

 あのときは辛かったんだねアキラくん。緑の子が辞めた時めっちゃ煽ってごめんね

 

 

 おわりに

 

 というわけで、今年に入ってハマったアーティストランキング堂々第一位のナナヲアカリちゃんを盛大にプッシュする記事でした。何か名前は知ってるけどまだ聴いたことない、っていうそこのキミ、女性のピン歌手とか歌ってる題材の温度感が違いすぎて聴けね~とかなってるそこのキミ、多分そういう奴ほどハマるアーティストだからとりあえず聴いてみよう

 個人的には上にも書いた「眠らない街、眠りたい僕」や最新EPに収録されてる「ヒステリーショッパー」みたいな、彼女のカッコいい・殺伐とした部分がガッツリと表に出たゴリゴリのロックソングをもっと聴いてみたいな~と思うので、そういう曲が今後たくさん出てきてくれたらめっちゃ嬉しい。

 

 今後の話だけど、チューリングラブとかいう聴くヘロインみたいな曲がものすごい勢いで再生数伸ばしてるのを見ると、まだまだ人気は衰えないどころかもっと加熱するのでは、と思う。曲のセンスとか、詞の世界観とか、彼女の容姿とかキャラ付けとか、本当に今後のシーンをガッチリと掴んでる気がしてならない。全国のアリーナをまたにかけて、ダメ天使がネガティブソングを熱唱する未来もそう遠くないのかもしれない。早いうちに生ライブでの彼女の姿を見てみたいなーと思う。まあその最新のライブツアーがこないだ中止になったけどな。さっさとコロナ終息してくれ~頼むよ~

 

  彼女がもっと人気が出て、もっと大きなステージで、もっと多くのファンの前で歌う未来が来たら、それこそ今の楽しい音楽シーンすらも滅茶苦茶にぶっ壊して、もっとわけわからなくなるんじゃないかなって勝手にワクワクしてます。このまま思うがまま突き抜けてほしい。

 

 

 

 

【エア】UNISON SQUARE GARDEN-fun time HOLIDAY 8(w/ヒトリエ)@2020.4.9 Zepp Fukuoka【ライブレポート】

 

 因縁はおおよそ2年前。2017年の12月まで遡る。

 片田舎の極悪ブラック企業勤め、将来への展望なんて絶無な社会人生活を送っていた憐れなる22歳であった僕に、音楽ナタリーが今世紀最大と言っても過言ではない核爆弾級の特報をぶっこんできやがったことが全ての始まりだった。

 

 ヒトリエ主催の対バン企画「neXus」第4回にて、対バン相手が我らがUNISON SQUARE GARDENに決まったというのだ。日にちは2018年1月17日・水曜日。場所は東京・マイナビ赤坂BLITZヒトリエ×ユニゾン。僕にとっては考えうる限り一番ヤバい組み合わせである。

 

 自室で寝そべりながらこの情報を見た僕はまず慎重に真偽を確かめ、正座し、舐めるように双方のコメントを読み、日にちを確認し、深呼吸をした後、スマホを壁にぶん投げた。腹の底から声が出た。おそらく人生で一番デカい声だった。行けるわけねえだろいい加減にしろ、と。

 九州の片田舎に住んでいながらブラック企業勤め、しかも新人の僕が、葬儀以外の用事で有給休暇なんて使えるわけもない。ましてや平日の東京に行くとなると1日取っても心もとない。どう考えても通しで2日は取らないとダメだった。飛行機や何やらで無理をすれば1日でどうにかできなくもないが、確実にその後の業務と人間関係に支障をきたすし何より送迎の関係で家族に迷惑をかける。東京着後のタイムスケジュール的にもメチャクチャタイトなものを強いられる。ていうかまず平日水曜の東京って時点でどう考えても無理だった。

 ヒトリエ大好き、ユニゾン大好き、そんな僕にとってその2バンドの掛け算なんてどう考えても最高に決まっている。この世で一番僕が求めていた組み合わせだと言っても過言ではない。wowakaさんが「いま日本で一番僕自身が見たいツーマン」だのなんだの言ってたがもうマジで、同感。同感ゆえにほとばしる怒り。「筆者の絶対に行けない場所で最高の対バンを開催してしまった罪」で有罪。満場一致で有罪。裁判官が僕に同情して飯を奢ってくれるレベルで有罪。今度からは頼むから福岡でやってくれ。俺との約束だ。

 

 そういうわけで泣く泣く見送り、セトリとライブレポートを見て発狂し(ユニゾンは好きだけどヒトリエはそこまで聴いてない、けど楽しかった、みたいな人のライブレポ見て本気でムカついたりした)、その一件は関係ないけど会社を辞め、以前とは比べ物にならないレベルのホワイト企業に転職を決めた。有給取得のハードルの高さもストーンヘンジから縁石くらいまで下がった。

 よっしゃこれでいつでも行けるかかってこいや、と環境を整えたその1か月後に、本当に今でも意味が分からないんだけどwowakaさんが急逝して、願望も希望も予定も何もかもがぐちゃぐちゃのぼろぼろになって、対バンどころじゃなくなってしまった。この時の話は近いうちにまたどこかでちゃんとしようとは思うんだけど、一年経った今でも時折ふと思い出して、なんで僕は生きてんだろうなって虚しくなってしまう瞬間がくる。

  そんな感じで悲しみの涙で日本が水没した後wowakaさんの追悼会があったり、wowakaさんを欠いた状態のヒトリエによるワンマンツアーがあったり、初めてのファンクラブライブがあったり(別にいいけどこれも平日の東京だったので行けなかった)初のベスト盤とそれに伴うワンマンツアーがあったりと、なんだか空元気かと心配してしまいそうなほどに精力的に活動する中で、ユニゾンの自主企画対バンツアーである「fun time HOLIDAY 8」のゲストが発表された。

 フレデリックキュウソネコカミSUPER BEAVERなどなど、今を煌めく錚々たるメンツが並ぶ中に、ヒトリエの文字を見つけた時の、そしてヒトリエゲスト公演が福岡である時の僕の喜びようといったらそれはもう、察してくださいよ、24歳にしておしっこを漏らしました。上からも下からも水分漏出が止まらねえ 源泉か? 

 そもそも主催が違うし、wowakaさんももういないからあの時の完全再現ではないけど、2年前の因縁をようやく晴らせるときが来たのだ。ピンポイントでこのめぐりあわせは流石に奇跡と言っても過言ではない。まあコロナの畜生のせいで台無しなんだけど

 この2年で悔しさも嫉妬ももどかしさも濃縮に濃縮を重ねてもはやどろっどろである。砂も臍も苦虫も、顎がくたびれるほどに噛んだ。この募りに募った渇望も激情も、すべてZepp Fukuokaに置いていくために産まれた感情だと思えば我が子のように愛おしい。僕はこの対バンが決まった瞬間に、初めて書くライブレポートをこれに捧げることを決めた。

 というわけで、前置きが長くなったがこの記事はライブレポートである。初めてのライブレポートなので拙い部分もあるだろうが、多少の節操は温かく見逃すなりTwitterでやさしくリプライするなりで教えてほしい。初めてのライブレポートが妄想ってほんと人としてどうなんだろう

 

 というわけでネタバレ注意、以下本文

 

 

 

 

【先攻:ヒトリエ

 

 Zepp Fukuoka。福岡最大のライブハウス。個人的には最近はフレデリックのライブにてよくお世話になる会場である。Zeppの名を冠しながらも収容人数は1500人程度。都内で言うとEX THEATER ROPPONGIとあんまり変わらない。全国のZeppで一番小さい。ということは現存するZeppの中で一番アーティストとの距離が近いZeppである。福岡最高。東京(笑)

 開演前は意味もなく近くのMARK IS店内にあるニトリで家具をみて「たけ~~~」と言いながら一人ぶらぶらするのを一種のルーティンとしているのだが、今回もそれをした。人をダメにするソファ、人より先に財布の中身をダメにするのほんと笑えない。

 その後いい時間になったので物販に並んでTシャツを1枚買い、ヤフオクドーム側の階段にて整列を待ち、呼ばれる番号に従って会場内に入る。Zepp Fukuokaに来るたびに毎回もらうゴム製のカラフルな小さいペットボトルホルダー、そろそろいらない。何個もいるもんじゃない。ミルクボーイでも流石に持て余す。

 ステージ向かって右側、上手の方に陣取る。前列5番目くらいに立つことが出来た。製番からすればなかなか頑張った位置である。ぶっちゃけ押し合いへし合いが苦手なので、いつもはあんまり前には行かない質なのだけど、今回ばかりは話が別である。たとえ出てくるのが愛しのバンドメンバーでなく飢えたライオンであろうと本望の気持ち。歓喜の血反吐をぶちまけるぜ

 

 

 そうこうしているうちに暗転。歓声と拍手が巻き起こる。

 先攻ヒトリエ。おなじみの入場SE、Foals『on the runa』が流れ始め、3人がひょこひょことステージに。一層大きくなる歓声が少し遠く聞こえる。動悸と緊張で心臓が痛い。手拍子を煽るシノダさんにつられて手を打ち鳴らす。去年の6月の追悼会以来に見る、センターに立つべきフロントマンがいないヒトリエ。当たり前だけどまだ見慣れなかった。彼らの各ポジションへの移動や楽器の触り方に一切の迷いがなく、ああ、もう大分慣れたんだな、と思ってしまってちょっともうここで涙ぐんでしまった。

 SEがすこしずつ小さくなる。拍手も徐々にまばらになり、やがて止まる。今まで見てきたヒトリエとは思えないほどに静かな立ち上がり。ほんのひと瞬き、しかし確かに実感がある一瞬の無音を挟み、シノダさんのギターが柔らかく会場の空気を揺らす。彼の吸い込んだ息の音が、今までにないくらい大きく聞こえた。

 

「誰が止められるというの 心が 叫んだ声を」

 

 弾き語りによって幕を開けた彼らのライブの一曲目、ポラリス。ギター一本、コーラスもなし、スポットライトは彼にしか当たっていない。こんなにシンプルなステージなのに視界が歪んで上手く捉えられない。蹲って泣いてしまいたかった。ずるすぎる。追悼会にて、涙声で前説を述べた後に、同じようにポラリスのフレーズ弾き語りからヒトリエ第2章の火蓋を無理やり切った彼を思い出してしまった。リーダーが立ちたかったであろう新木場の広いステージの左端にて、少しぎこちないながらもたくさん、たくさん練習したことが分かる、ヒトリエのギターボーカルとしての姿を見せてくれた、あの日。

 2年前の対バンにて、wowakaさんはユニゾンを「日本一カッコいいバンド」と称した。そんな憧れのバンドから名指しで読んでもらえるこの日、このステージに、この場に一番居たかったのは他でもないwowakaさんだったと思う。その事実がめちゃくちゃ悔しいし、だからこそ最初の弾き語りは胸と涙腺に来た。

 弾き語りだけの入りから間髪入れずに、どすんと重いベースとドラムが入る。一気に視界が開ける感覚。ああこれだ、この音圧、この演奏、素人耳にもわかる各パートの主張の強さ。これが、このヒトリエが聴きたかったんだよな。何回観ても、初めてワンマンを観たあの日と同じように圧倒される。

 追悼会の時に見たポラリスとは比べ物にならないくらいに、練度が上がっていて慄いた。もともと他のバンドでギタボをやっていたシノダさんのことだし適性はもとからあったのだろうが、手元と歌唱の忙しさが流石に人外レベルで、邦楽が産んだバケモンを垣間見てしまった気がした。そしてこれはこのライブ中幾度も思うことになる。

 そのまま怒涛の勢いでラスサビを終え、花の咲くようなアウトロを長く伸ばし、伸ばし、伸ばし、拍手も歓声もひと段落し、ただ残響音だけが広い広いZepp Fukuokaの空間に響き渡る中で、ゆっくりと口を開いたシノダさんが一言

 

シノダ「ヒトリエです。よろしくどうぞ」

 

 上がる歓声、間髪入れず聴きなれたセッション。前列の人たちの何人かは、もう次が何の曲かを察して飛び跳ねている。音源で、生で、映像作品で、脊髄に刷り込まれるほど聴いた9回のキメ、そこからなだれ込むセンスレス・ワンダー。血が沸騰して死に至ったが何とか致命傷で済んだ。

 ヒトリエを好きな人たちがヒトリエを好きな理由を誰かに説明する際に、口で10キロバイト分の文字をどんなに洗練された文章にして届けるよりも、これを流した音楽プレーヤーを相手の耳に突っ込んだ方が効果的、そんな曲。全部かっこいい。何回聴いてもカッコイイ。

 バカテク演奏、歌唱、ド頭のイントロも間奏もシャウト有りと出し惜しみのない連撃に酔いしれながらも、心のどこかでそんなに飛ばして大丈夫なのか、バテないのか、と心配になっている僕の内心を吹き飛ばす次の曲が

 

シノダ「ぶっ刺されZepp Fukuoka!! インパーフェクションフォー・ユー!!」

 

 間髪入れず4カウントからの、あのサレインみたいなイントロ!! 泣く子もくたばる俺たちのライブアンセムインパーフェクションのご来光である。まじで1年と半年ぶりくらいに生で聴いた。ツアーではやってたらしいけど、僕は3人体制になったヒトリエの初全国ツアーに行けてないので……

 出し惜しみ皆無、最初っからトップギア。ブレーキなんて製造工程で意図的にぶっ壊して市場に出てる、我らが誇るアジアトップの日本製バンド。熱すぎて3曲目からすでに最終回の気分。僕の人生が。

「分からないことばかりで ぐちゃぐちゃになりそうだ 情けないけど それでも歌 歌うだけだなぁ」のあたり、シノダさんの境遇とシンクロして本当に胸に来た。wowakaさんがこの曲を書いたあたりは確かスランプに陥ってて、その時の状況が色濃く反映された歌詞だと思うんだけど、巡り巡ってこの場でガッチリとハマるの、なんというか運命ってつくづく後天性だなと。

  3人で最後に楽器を打ち鳴らし、挨拶代わりの怒涛でとりあえず暗転。どよめきと歓声。たった3曲、されど3曲。たった10分程度のライブパフォーマンスが後々の人生を狂わせてしまうことを、僕らはハヌマーンCDJでのライブ映像ですでに学んでいる。主役を完全にぶっ飛ばしに来ていた。血走っている。

 

  ユニゾン呼んでくれてありがとう、からの福岡あちいな、からの自身の汗の量で客相手にマウントを取る、いつものシノダさんの自分勝手なMCを聞き、ちょっとだけ懐かしい、安心した気持ちになった。福岡来るたびに汗の話してる。俺より彼が源泉じゃないか。

 

 一呼吸おいてハンドマイクになるシノダさん。ピアノイントロとともに4曲目、SLEEPWALK。ゆったりと踊れるミドルナンバーをもってくるタイミングが大変マーベラス。客の心拍数を把握している人しか出来ない手管である。テクニシャン。ねえ神様視界はどうだいって、神様も多分最初から今まで何も見えねえよ、涙で。ほんとうに、一回でいいからこの曲を生のwowakaさんのボーカルで聴きたかったなって思ってしまうのは我儘だろうか。

「愛してみようぜ」のシンガロンがあったり、間奏中のイガラシさんにダルがらみするシノダさんを観れたりと美味しいとこばかりのパフォーマンス。歌も上手くなっててマジでたくさん練習したんだなって思ってしまう。なぜだか親の気持ち。オタクはすぐに母性を抱くからダメだ。軽率にママになる。

 最後もシンガロンで締めた後、少しの間を開けて披露されたのはまさかの(W)HERE。音源では比喩抜きでCDが擦り切れるまで聴いた曲だが、ライブで観たのは初めてだったので、幾度となく聴いたあの世界一カッコいい電話番号プッシュ音みたいなイントロが聞こえた瞬間意図せぬ力が両足に入ってしまった。24歳にもなってうれしくて飛び上がるとか恥ずかしい。でも超うれしい。最高。

 この世の「美しい」を暴力的までに詰め込んだ至高のミドルナンバー。純度100%の尊さと儚さで出来ている。目の前に宇宙が広がっている。他の観客は初体験する尊さに飲まれて消えてしまい、僕以外だれもいなくなってしまった。僕と、ヒトリエの二人きり なんという贅沢なライブ。音で僕の精神とヒトリエが融合していく。決して混じりあうはずのない存在が、音楽でひとつになっていく。これが乳化 emulsification

 世界一幸せな5分間だったと思う。すべてが消えてしまう気さえした。これが夢であったら覚めないでほしいとか思った。うつくしさに殴られた客の呆然が見て取れる。僕は何も成してないのに勝手に誇らしかった。

 

 やわらかい光がステージを照らし、短めのMC。前に東京で一緒に最高の対バンしたこと、ユニゾンめっちゃかっこいいってこと、けど今日は先輩だろうとぶっ飛ばしに来たんで、とシノダさんの宣戦布告。サクッと次の曲行きます、の言葉からすぐに暗転、聴きなれたキラーチューンのイントロが鳴り響く。炸裂するような三人のアンサンブル。ヒトリエのはじまりの曲、カラノワレモノである。SLEEPWALK→(W)HERE→カラノワレモノの流れ考えた人誰? 天才では? 

 いまからおおよそ五年くらい前、僕がヒトリエにほれ込んだ切っ掛けの曲である。ヒトリエだけでなく僕もすべてはこの曲から始まったと言っても過言ではない。間違いなく美しいのにどこか荒々しく、とても熱いのにどこか切ない。歌詞・曲調、どちらかが少しでも崩れたら成り立たないこの耽美さ。奇跡のバランス感覚。間違いなくwowakaさんの「渾身」の一曲だと思う。何世紀先でも評価されてほしい。

 エモーショナルな演奏と熱の入ったシャウトで演奏を終え、曲の余韻に浸っている僕らに、残響音を鳴らしたままマイクを握るシノダさんが鬼の形相で

 

シノダ「あのですね、ウイルスって熱に弱いんですよ、皆さんもしかしたら知らないかもしれませんけどね、ウイルスって熱に弱いんですよ!! コロナだかなんだかよく知らねえけどそんなもん、演奏で全員殺すのが俺らなんで! ……というわけでイガラシくんいつものお願い!」

 

 べーん、とたからかに鳴り響く重低音、間髪入れずにドラム。日本国民なら誰もがご存じパチスロヒトリエの確定演出である。脳汁が止まらない。意図してないのに全身に力が入ってしまう。むちゃくちゃ熱くなると同時に、もう後半戦なんだな、と少し寂しくなってしまう。油断してると、彼らのライブは本当に刹那で終わる。

 

シノダ「オーイェアZepp Fukuokaへお越しのお客様に一つ質問がございます、お客様の中で踊り足りてない人はいらっしゃいませんか!」

イエーイ!!!(俺)

シノダ「おきゃくさまのなかでェ!! おぉどぉりィ足りてない方はいらっしゃいませんかァ!!?」

イエエーーーイイ!!!(世界)

シノダ「燃え尽きろ福岡! ベースイガラシィ!!!」

 

 斬魄刀始解のような煽りから間髪入れず鬼のようなベースソロ。ぶっとい四弦にこれでもかと叩きこまれる鋼鉄の五指。スーパーベーシストの後ろに般若が宿って見える。気迫。これが真の気迫。素人はよだれを垂らして見守ることしかできない。ここが地獄、ここが理想郷、ここが魔界のダンスフロア。悪魔も僧侶も化け物も、今だけは踊るためだけに知能も敵愾心も投げ捨てる。語彙が中学生になってしまった。

 

シノダ「エビバディ1! 2!」

俺たち「1・2・3・4!」

 

 飛び跳ね炸裂するヒトリエ最恐のライブアンセム踊るマネキン、唄う阿呆ヒトリエのライブに来たらこれを聴かなければ。これですよ、結局これ。最高。いっっっちばんかっこいい。 何もかもすべてここに置いていくという気概を感じる。何もしなくても600円もするライブハウスのくっそ高え水が沸騰するこの熱気、ウイルスなんて生きてるわけがない。

 

 身体中の水分が全て空気中に発散されて干物になりかけたころに演奏が終わり、一瞬三人が身体を向き合わせて何度かキメを入れ、そのままシノダさんのソロに。これまた聞き覚えのあるエモーショナルなギター、からステージが鮮やかなブルーのスポットライトに染まり8曲目、。この緩急。枯れたはずの涙腺からとめどなく涙があふれてくる。これもなあ、一回でいいから、一回でいいからwowakaさんの声で聴きたかった

 ヒトリエ、もといwowakaさんの曲は架空の少女の目線で書かれた歌詞が多くて、一人称がかなりの打率で「あたし」なんだけど、いつもはそういう詞を書くwowakaさんがここぞという時に使ってくる「僕」の一人称は、来るよね、心に。ああ、全部ではなくとも、少なからず自分のこと書いてんだなって。並々ならぬ決意を感じる。

 多分ずっとこの曲には、というかポラリス以外のHOWLSの曲には、この先小さな棘が胸に刺さったような気持ちが残り続けるんだろうなって思う。本当の、いちばん格好良い姿で聴けなかったどうしようもなさが、ずっと。でもまあ後悔だろうが無情感だろうが、忘れてしまうよりはましなんだろうな。

 そんなセンチな気持ちになっているまま後奏、これまた間髪入れずゆーまお氏のドラム。あっ、これも死ぬ予感がするぞ、と思っていたら案の定、今日幾度目かのシノダさんの述べ口上。

 

シノダ「ヘーイZepp Fukuoka、まだまだ皆さん踊り足りないんじゃないですか?」

イエーーイ!!!!(宇宙)

シノダ「まだまだ踊れますか!!」

イエーーーイ!!!!!!(俺たち)

 

 ノリにノッての9曲目、ヒトリエの誇るキラーチューン、トーキーダンスのお時間である。圧倒的な中毒性と音圧とBPMによる蹂躙であり凱旋であり暴力。鼓膜から脳髄まですべて怒涛の「カッコいい」で吹き飛ばされる。 なによりもセトリの緩急がすごすぎる。セトリ作ったやつもしかしてうわさの妖怪緩急小僧か?

 あーこの音です、この音が欲しかったんです! をすべて満たしてくれるスーパー贅沢な曲。ギター、ベース、ドラム、どこを切っても聴きどころしかない。あまりにもカッコイイ。もうかっこいい以外の言葉はいらない。楽し過ぎてなにも分からない。俺の手足は今日この瞬間何もかも忘れてハッチャケて踊るためにあったのだ。

 体感気温60度、コロナウイルスもなにもかも、この世にこの瞬間に害成すやつは全員滅びるこの空間にて熱狂の渦が終わり、観客も何もかも汗だくの中で、その中でも多分一番汗かいてるシノダさんが、アウトロをかき鳴らしながら一言

 

シノダ「福岡ありがとうございました、最後の曲です! wowakaより愛をこめて!!」

 

 雄たけび交じりの歓声、少しの間を空けて4カウント、最後に炸裂するはアンノウン・マザーグース。余力なんて残さないと言わんばかりの怒涛の連撃を締めくくる一発。さすがに泣く。涙腺ガバガバおじさんである。がんばっているバンドに弱いのだ。

 文字通りいろんな意味で集大成の曲である。聴くだけでいろんな感情がこみ上げる。この曲が見せた新しい地平の果てに、もしかしたら僕らは生きているうちにもうたどり着けないのかもしれないけど、それでも今鳴り響く音楽は美しい。聴かれ続ける限り音楽は死なないのだ。月並みだけど、なんとなくそういうことを思った。

 もし今日のライブでアンノウン・マザーグースが披露されたら喉が枯れるほどにシンガロンをしようと心に決めていたので、恥ずかしがらずに大きな声をだした。喉から血が出たって本望だった。最後の一節を歌い切り、三人で向かい合って楽器を鳴らす。今までで一番大きな歓声。楽器をかき鳴らしながら最後に

 

シノダ「ベース、イガラシ! ドラムス、ゆーまお! ギターボーカル、シノダ! そして作詞作曲wowaka!! ヒトリエでした!!」

 

 と、シノダさんのコールにて演奏終了。音楽サイトのライブレポでは幾度となく文章で見てきたコールだけど、生で聴くとずしんと来た。

 いやもうマジで最高のライブだった。最初から最後までトップギア。むせ返るような、滾るような熱気を擁しながらも突き抜けるようなこの爽快感。余韻。本当に、このバンドを追っていてよかったと心から思った。ありがとうヒトリエ

 

 

【後攻:UNISON SQUARE GARDEN

 

 15分程度の準備のち、暗転。ヒトリエのときよりずっと大きな歓声。こればかりは仕方ない。主催だもんな。

 もはやおなじみのSE、イズミカワソラさんの「絵の具」が流れ、ステージは鮮やかな青に染まる。ピアノの音とともに鈴木、田淵、斎藤の順で登場。悠々と登場するドラムおじさん、ひょこひょこと登場するベースおじさん、にこにこと登場するギターおじさん。三者三様。

 SE途中で短い、けど身体が虚空にふっとぶほど強烈なドラムソロ、からのセッションにて開幕。びっくりするほど息ぴったりの三人のアンサンブル。からのなんだか聞き覚えのある前奏になだれ込み、あっこれは、これは、まさか、とすでに気を失いかけている僕、の内心を「分かってる」斉藤宏介の

 

 

斎藤「天国と地獄ゥ!」

 

 

 ギャッ、みたいな声が出てしまった。動揺しすぎて。音で秘孔を突くのをやめろ

 

 ヒトリエの圧巻のパフォーマンスからの満を持しての後攻一発目、天国と地獄。圧倒的かつ暴力的なまでのサウンドの奔流。颶風も瀑布もこの曲の前ではそよ風と水遊びに過ぎない。人間も神も悪魔も等しく波乱万丈のルーレットに吹き飛ばす聴くジェットコースターである。ド頭一発目これはダメです。脳に血が上りすぎて猿になります。脳に血が上りすぎると猿になるんですか?

 

斎藤「who is normal in this shoォォォォォォォォゥ?(長め)」

 

 やだァかっこいい(大蛇丸)

 がなる斉藤氏、超笑顔の鈴木氏、そして十分な身体のウォームアップを感じさせるキレのある動きの田淵氏。この人だけ競ってるフィールドが違うんだよなあ。人類滅亡してもこの人だけはなんか生きてそう。見てて超楽しい。壊れたラジコン、もとい怒り状態のドスファンゴ。ステージに見どころが多すぎて目が二個じゃ全然足りない。

 fakestなビートもcleverなショットもOK people one more time?も全部余すことなく堪能出来て僕はもうこの世に未練がなくなってしまった。これから何を糧に生きていけばいいんだろう。この数分間で全てを失ってしまった。楽しさ通り越してちょっとムカついてきた。おいコラ35歳てめえこの野郎、僕らのこの先をどうしてくれるんだ

 

斎藤「よーこそォ!」

 

 そんな人生に絶望している僕に、アウトロの余韻を掻き消しながらヨウコソォする斉藤先生のギターからこれまた聞き覚えのある音が。真っ暗になってしまった人生に光が差す。そうだ……ユニゾンには天国と地獄以外にもいい曲なんていくらでもあるんだ……なんでこんな当たり前のことを忘れていたんだろう

 ステージ上の三人に後光が差している。歓声すらも遠い。Zepp Fukuokaのステージが途方もなくだだっ広く見える。ユニゾンと言う名のデカい虎を、動物園の檻の前で、いやアフリカを横断する観光バスの中で眺めているかのような、そんな一方的かつ美しい邂逅。「こんばんは福岡!」からの2曲目、アトラクションがはじまる (they call it “NO.6”)。もうここで分かった、揺さぶることしか考えていないタイプのセトリである。

 良い曲だったのは知ってたけどこんなにいい曲だったっけ、と変な驚き方をしながら聴いていた。我らがCITSもだけど、Dr.izzyの曲はライブ化けする曲が多すぎる。最後のキメもばっちり決めて、「UNISON SQUARE GARDEN、です!」……か、ら、の、不意打ち「1234!!」

 この日一番の歓声がここだった。若干モッシュっぽくなる周りに、そこそこ良い立ち位置にある我が肉体をなるべく流されないように足に力を入れながらも、浮足立つのであまり意味もない。これまたライブド定番、場違いハミングバード。去年は一回も聴けなかったから素直に超うれしい。嬉しいの雨霰。

 かの有名なDr.izzy tourを彷彿とさせるこの流れ、僕がizzyの民だったら死んでたけどCITSの民だったからなんとか致命傷で済んだ。AだろうがBだろうがサビだろうが常時上がる歓声と人差し指。湿気を孕んだ熱気、観客ごと踊る会場、もう何がなんだか分からないけど楽しい俺、アクロバティックな田淵智也。音楽で夜が揺れている。ア――――――

 もはや楽しいを通り越して、彼らは音楽ではなくて聴覚から摂取するモルヒネを各々の楽器から僕らの脳髄に提供しているのでは? とちょっと犯罪を疑ってしまうほどの多幸感。どうでもいいけど多幸感って言葉、ユニゾン知らなかったら多分こんなに使ってない。聴きどころしかなくて大変良かったです

 

 アウトロを短く切り、「ありがとー」と軽くお辞儀をする斎藤氏。とりあえず暗転。薄暗い空間にひっきりなしに三人の名前を呼ぶ声が響いた。僕は恥ずいのでやらなかった。

 うっすらとライトが灯り、汗のせいか心なしかいつもよりきらめいて見える斉藤氏が髪(イヤモニ?)を弄りながら口を開く。

 

斎藤「福岡の皆さんこんばんは! いやーまだ4月だってのに暑いね! 会場もヒトリエも! ここ(足元を指さす)もうシノダくんの汗でびっちゃびちゃ(笑) スタッフさん大変だったろうな……大丈夫? 脱水症状とかなってないですか? もう遠慮なく休憩とかしてもらっていいんで、無理なく、最後まで自由に楽しんでいってください! よろしくお願いします!」

 

 からの4カウントスタートで炸裂する4曲目、プロトラクト・カウントダウン。今日のセトリでは多分一番レアめ。獣の咆哮のような遺言がそこかしこから聞こえる。僕もちょっとそわそわしてしまった。対バンとかでこういうアルバム曲をぽーんとやってくれるの嬉しいよね……

 初期のヒリヒリするような焦燥感と、今の余裕のあるテクニカルさ、どっちのいいとこもそれぞれ丁度良く取ったような良さみハイブリッドな曲だとは思ってたけど、生で聴くとゴリゴリ感がすごかった。スマートタイプだと思ってたらとんだ隠れマッチョだった。ていうか「limit!」のシンガロンの声がデカくてビビった。もっとこう、知る人ぞ知るみたいな印象だったのにな。まあカッコいいからね。

 いやあ良いもの聴けた、とかほくほくとした気持ちになりながらアウトロを呑気に堪能していたら、間髪入れずに次の曲のイントロに。ユニゾンのライブは曲間の繋ぎに無駄がなくてスマートで大変良k……

 

 

 

 

 

 寒気

 

 

 

 

 

 

 

 その出会いは余りにも唐突で、一瞬理解できなかった。近辺の客が皆飛び跳ねている。でも遠い。その黄色い歓声がとても遠い。幾度となく聴いたはずなのに、生で聴くとここまで言葉を失うものなのか。脳が情報を処理しきれてない。感情を声帯に伝達できない。聴覚以外の五感が全て麻痺している。ここで出会えると思っていなかった。完全なる不意打ち。覚悟の不足。今までの人生はこの瞬間までの壮大なる前座だったのか? それほどまでの衝撃。

 

 5曲目、シューゲイザースピーカー。世界最強のアルバムのリード曲、つまり世界最強の曲である。

 

 ここでこのカードを切れるのか。この曲を披露できるのか。田淵智也さんもしかして僕の知らない間にリサーチとかしました? 「Catcher in the spy」でTwitter検索とかしました? 卑怯ですよエゴサーチとか。そういう軽率な行動がオタクの唐突な死を呼ぶのです。もう東京に足を向けて寝れない。

 シューゲイザースピーカー、実のところいうとライブCDや映像作品での収録は比較的恵まれている方で(僕は初めて生で聴いた)それこそCITStourだったりOrOrtourだったりで披露されてるんだけど、最近の披露になればなるほどクオリティが目に見えて上がってて(特に音源に対するギターの音の再現度とか)、それを踏まえた上でいうけどこの日演奏されたシューゲイザースピーカーが今までで一番よかった。ここだけ切り取って録音したCDを1万円で売ってくれ、資金に関しては腎臓も肺も皮膚も血管も全部残ってるから安心してほしい。

 俺の人生がスタンプラリーもしくはビンゴゲームだったら、この出会いは間違いなくそのスタンプシートなりビンゴカードなりを全部埋めてしまう、相当にヤバいものなんですよ。もうゲーム終了で良い。人生の節目節目の画面に表示される数字に一喜一憂してちまちまと手元のちっぽけなビンゴカードと向き合っている凡夫が憐れで仕方ない。生でシューゲイザースピーカーを聴く。それだけで上がりなんですよ、人生。分かりますか? この世にはシューゲイザースピーカーを生で聴いたことがある人間と聴いたことがない人間しか存在しない。

 とにかく全部カッコよかった。それしか言えない。でももうそれだけでいいんですよ。グルメリポーターの美味い肉食った時のリアクションとして、「肉本来の味がしますね」とか「脂身の甘さが違う」とかそういう分かったようなこと言うより、「うまい!!!!!」と美味しさで小便を漏らしながら大気圏まで飛んでいく方が信用できるんですよ、それと同じです 僕はカッコよさのあまりZepp Fukuokaの天井をぶち破って星になりました。これは秘書が書いています、なんて冗談もつかの間

 

斎藤「I'm sane, but it's trick or treat……」

 

 大盤振る舞いだなぁ(白目)

 スリリングでデンジャラスな空気(ここの表現音楽ニュースサイトっぽい)をそのまま受け継ぎながらの6曲目、fake town baby。頭は大興奮なのに展開があまりにも怒涛過ぎて身体が追いつかない。これ以上の過剰摂取は身体が持たない。身体が許可してないのに気持ちは勝手に3倍界王拳

 みんな大好き、僕も大好き、キラーチューン祭りアルバムとして名高いもむも(僕が使ってるMODE MOOD MODEの略称)の中でもとりわけ攻撃力がパネエ曲として大変有名ですね。教科書にも載ってる。しかしプロトラクト~からずっと水も飲まずによくもまあこんな難しい曲をガツガツ歌いながらギターが弾けますね斎藤さん。声帯がチタン。

 シューゲイザースピーカーからのこの曲、マジでずっとスポットライトがずっと原色バリバリの点滅マシマシで目がちかちかしてた。意図せずオノマトペ大好きな人になってしまった。

「勝算万全、おまたせ」でバチッと終了&暗転。暗がりから「ありがとー」の声。これよね~このメリハリがいい。メンバー間だけでなくてスタッフともめちゃめちゃ息が合ってないと出来ないこのキメ。曲と曲の間とか、一旦演奏を切るところとか、締めるところは締めるってのを徹底してるから、こういうとこに無駄な空白が出来ないの超かっこいい。

 

 ここでMC。ヒトリエとの馴れ初めとか、メンバー全員馬鹿みたいに楽器が上手いこととか、なんだかんだヒトリエのことをめっちゃ褒めた後、

斎藤「……そういえばね、さっきのヒトリエのライブ前ね、シノダくんめっちゃトイレに行きたいって言ってたんだけど、終わって戻ってきても別になんてことなくピンピンしてんの。俺終わったらすぐにトイレにダッシュすんのかなと思ってたんだけど。訊いたら「なんか尿意が消えた」って。もしかしてここ(向かって正面の宙をぐるぐる指さし)らへんに……」

  褒めて褒めてずどんと落とすのほんと、何? にやにやしながら言うことか? と思いながらもめっちゃ笑った。田淵もデカい声で笑ってた。

 

 そんなわけで次の曲いきまーす、と軽い気持ちでシノダさんを空中におしっこ飛散おじさんに仕立て上げたあと、これまた聴き馴染みのあるイントロ。7曲目、春が来てぼくら。軽快かつ柔らかなサウンドが耳にしみる。ついさっきまでここにいる全員ぶっ飛ばすかのような、こん棒のような音楽を振り回していたとは思えないほどのやさしさ。ふり幅が広い。時期的にもぴったりで良い。

 先ほどまで飛び跳ねて楽しんでいた観客も僕含めてみんなゆらゆらと思い思いに音と揺れていた。戯れていた。本当にいろんな表情を見せるバンドだと思う。内外関係なく、今までの音楽活動をすべて血肉にしてここまで来てる。おそろしい平衡感覚。

 

 後奏を終えてほとんど間髪入れず8曲目、桜のあと(all quartets lead to the )

 ボーカルイントロの瞬間の田淵智也のしてやったり! みたいなドヤ顔、忘れるまで忘れない。ゆるやかな幸福、からのはじけるようなハイテンション。頭もうからっぽ、からっぽです 何もわからない 知能指数が著しく低下してしまった

 春が来てぼくら、からのこの曲はちょっとせこくないですか? レギュレーション違反では? 嬉し過ぎて杉になってしまった(美味すぎて馬になる的な) というか今回のセトリは俺得すぎるんだけどちょっとマジで考案者出てきてほしい。金一封を贈呈したい そろそろ書いてて虚しくなってきた

 

 めっちゃたのしく身体を揺らしながらも、対バンで8曲目にこの曲、流石に終盤かな……とちょっと寂しく思っていたら案の定斎藤さんから「オンドラムス、タカオスズキ!!」のコールが。ユニゾンのライブの名物、鈴木貴雄御大によるドラムソロの時間である。

 いくらイカを極めようと彼の本業はこのスーパードンキーコングなドラミング! ドラムの専門的な事が一切合切分からないのでフィーリングで伝えるが、なんかもう全体的にドッカアアア~ン・ショァァァワァ~ンって感じだった。音が、じゃなくて僕の頭が。舞洲の時とかと比べるとわりかし時間は短めだったかな。すぐにセッションが始まった。

 田淵氏にピンスポが当たる。彼のベースは自称下手らしいが、素人なので聴くたびに「どこが?」と思ってしまう。これが下手だって言える人は多分ベースで飯食ってる人だけなんじゃないか。どぅるどぅるしててスッゲーカッコよかった。

 そして斎藤氏のソロ。ここで会ったがけもの道のソロのように、楽しげでかっこいいフレーズを、短いプレイタイムの中にこれでもかと詰め込んだ非常に贅沢なソロパートだった。斉藤宏介スターターキット的な。よくもまあ笑顔で弾けるね。僕も今年からアコギをちょいちょい触り始めたんだけど、どれだけ化け物かが前よりずっとわかったよ。指に鉄とか溶接してるとしか思えない。

 

 そのあと3人向かい合ってのバキバキのセッション、からのなだれ込むように9曲目、最新曲Phantom Joke。もちろん初対面。セッションからのPhantom Jokeとか、もし実現したらめちゃくちゃカッコいいだろうな~と思ってたんだけど、まあ案の定カッコよかったよね。知ってんだよなそんなことはな。知ってたんだけど超カッコいいんですよ。身構えてても倒れてしまうカッコよさ。

 僕これ一回だけカラオケで歌ったことがあるんですけどマジで難しくて、なんでこんな舌がたくさんある人用の歌を、声帯とリズム感がオリハルコンの人用の歌を、あまつさえ「みんな歌ってね!」とか言わんばかりのアニメタイアップ曲としてシングルで出しちゃうんだろうなって思ったんですけど、この世に歌える人いるんですよ。おかしくないですか? なんかの間違いで、アーティストによるボーカロイドカバーアルバムとかが出たら消失でもANTI THE∞HOLiCでも何でもいいから、ニコニコのタグに「歌ってみろ」ってついてる曲を歌ってほしい。その滑舌に用がある。

 そしてとにかくドラムがやば過ぎた。手も足もぐっちゃぐちゃ。おそろしく早いドラム捌き、オレでなきゃ見逃しちゃうね、とかマジで言ってられない。見逃したのでもう一回お願いしたい。すげ~とか言ってる間に終わったわ。まさに幻影(うまい) ほんとにPhantom Jokeやったのか? 僕の都合のいい妄想じゃないのか?

 

貴雄「3・4、1234!!」

ニゾン「東の空から夜な夜なドライブ!!!」

 

 泣き叫ぶほどヒート。怒涛なんて言葉では足りない。ここでぶちかましにやって来た最強のキラーチューン、徹頭徹尾夜な夜なドライブ。ギャグみたいなシンセサイザーと、赤と青のスポットライト点滅が超マブシイ。

 Aメロを歌う斎藤さんのがなり具合が最高によかった。超チャラかった。同系統のゴリゴリ曲Phantom Jokeの流れから続けて、こんなヤンキーみたいな粘っこい感じで歌われたら男でもギャップで排卵してしまう。エロすぎた。顔を見ながらのあの声はダメだった。

 全体的にヒートアップした田淵氏がやりたい放題。ステージ横幅目一杯に動き回るわドラムセットは一周するわ足はガンガン上げるわ。身体能力激高妖怪にしか思えない。これじゃなくて他の曲だけど、年々どんどんヒートアップしていくように思える斎藤さんとも曲間での絡みもエグかった。需要があるのかな、あるんだろうな。少なくとも僕は観てて超面白かった。今度のライブで唐突に斎藤さんと組体操とかしても笑う自信がある。

 なんだかんだシンガロンも楽しかったけど、テンションが上がりすぎて逆に頭が冷静になっていた時間帯だったので口パクで済ませた。なるべくライブ中はね、自分以外の声を聴きたいからね。

 夜な夜なドライブ夜な夜な! でパキッと演奏を切って拍手と大歓声、ちょっと間を開けて斎藤さんが一言

 

斎藤「福岡最高でしたありがとう! ラスト!」

 

 体感10分もなかった。本当に早かった。もう終わってしまった。これ書くのは1週間以上かかってるのにな……これも相対性理論かな

 もう何千と聴いてきたであろうこなれたドラムの入り、からのピンスポが当たる斉藤氏の弾くちょっと音源より上ずった音のギター、なだれ込むように幸せ満点のイントロに。ラストはご存じ、シュガーソングとビターステップ。結局これなんですよねえ最高。

 やっぱりこの曲なんですよ。持ち曲がどこを切っても4番打者ぞろいのこのUNISON SQUARE GARDENとかいうスーパーロックバンドの代表曲ですよ。圧倒的高打率。抜きんでたパワーヒッター。一聴だけでもう分かってしまう「良さ」。これよ。これなんですよ。この即効性。やはり唯一無二。そんじょそこらの素人が考えたグッドスタッフでは、、生演奏のこの一曲で全てを蹴散らされる。

 やはり相当場数を踏んできただけあって演奏に一切迷いがない。余裕どころか風格すら感じる。相当難しい曲らしいのにいとも簡単そうに捌きこなす。自分の身体を使いこなし過ぎでは? 廃人。廃人です。舌を巻きすぎてロール状のまま出てこなくなってしまった。

  アウトロのデンデンデーデッデッデッデーンのとこを伸ばしに伸ばし、最後にキメを入れて本編終了。

 

斎藤「福岡ありがとうございましたー! また会いましょう! バイバイ!」

 

 いやーもう超楽しかった。ヒトリエ最高にカッコよかったからなあ~大丈夫かなあ~とか思ってたけど杞憂も杞憂、超絶カッコよかった。ユニゾンのライブに行くたびに好きでよかった~と思うんだけど今回もそういうライブだった。最高。行ってないけど

 

 

 さて。超楽しかったんだけど、まだこっから最後の〆が残ってるんですよ。証拠にみんな手を叩いてる。アンコールの拍手の時に時に「アーイ!」とか言って仕切る寒いやつがあんまりいないからいいよね、ユニゾンのライブ。ああいう方向に心臓強くなったらマジでダメだと思うよ

 何も考えず手を叩いていたらステージに光が差し、着替えた3人が登場。斎藤さんは今回のツアーグッズのオシャレでかわいいTシャツを着ていた。僕が買ったのじゃなかった。「アンコールありがとうございます」からの短めのMC。ヒトリエめっちゃよかったね、また一緒にやりたいって話をしていた。

 

斎藤「ヒトリエ、本当に厄介なスリーピースバンドが出てきてしまったな、やべえな、と思っておりますが、僕らも負けませんので。またツアーで会いましょう。今日はありがとうございました」

 

 4カウント、からギターイントロ。えっ、の言葉を口が勝手に漏らした後、すべての思考が停止してしまった。そんなバカな、そんな、あれだけ僕を贔屓したセトリを本編で組んでいたくせに、アンコールでそんなことして、いいよ、いい、いいに決まってる、もっとくれ、この先どうなったっていい、いいか、今この瞬間の快楽が全て、音楽とは快楽を求めるための媒体であり手段の一種、いやそんなのどうでもいいマジで俺は前世でどんな徳を如何ほど積んだんだ? なんでそんな

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 箱庭ロック・ショーなんてきいてない

 

 

 

 

 

 ユニゾンの曲の中で一番生で聴きたい曲は何ですか、って質問に答えるとするならこの曲だったのに、まさかそんな聴けてしまったとか そんな、棚から牡丹餅どころじゃない 棚から徳川埋蔵金 これで人生勝ち組が確定してしまった……あああ、シューゲイザースピーカーといい箱庭ロック・ショーといい、曲の采配に神の意志すら感じる。Oh my god…………vain 

  当たり前だけど全編カッコよかった。特にギターソロ。僕はDUGOUT ACCIDENTの限定版についてるCITStourのライブDVDをそれはもうベイブレードのごとくぶん回してきた男ですからね、斎藤さんの手の動きは目に焼き付いて取れなくなってたんですけど、この日に上書きされてしまった。引くほどカッコよかった。ほんとに10何年前の曲ですか? 

 演奏中に幾度となく思った。これでもういい、もう終わっていい、これ以上は何が来たってもう蛇足なんだからもういい、楽しかった、4半世紀近くの人生で一番楽しいライブだった。もういい、何もいらない、また明日から頑張ります……そう思いながら僕のこの最高の一日は幕を閉じ

 

 

斎藤「福岡最高でした! またね!」

 

 

 なかった あああ~~~最高 要りますその足、いや髭 蛇が竜になる

 

 

 これまたもう、そんな、サービス精神旺盛すぎやしませんか。もしかしてUNICITYへの納税に対する見返りですか? これが噂のふるさと納税ってやつですか? そんなもう、君の瞳に恋してないまでやってくれるなんてなんてまじで、おまけにしてはちょっとデカすぎる 情緒が破裂して安らかなる最期を迎えそう。

 ABサビ間奏アウトロまで余すとこなく幸せ、これはもはやもう「幸せ」のイデアをこちらの世界に持ってきてそのまま超技術で加工して楽曲に仕上げたのような、そういう人間の理解の範疇を超えた幸福感を有する曲へと進化していた。今ならアムウェイだろうがエホバだろうが薦めてきた人間全員返り討ちにしてロックバンドに落とせそうな気さえする。これが真理 これが解脱 今日から俺が涅槃仏

 

 

  アウトロを伸ばしに伸ばしながらかき鳴らして演奏が終わる。鳴りやまない歓声と拍手。もう一回またね! を繰り返して三人はステージから去っていった。客電の点灯と共に、急に現実に戻された気がして寂しくなってしまった。いつもはどんなに良いライブを観ても、ああ~楽しかった、で終わるのに。鮮明に残った記憶と、いまだ残る会場の熱気と耳鳴りだけが、ほんの数分前まで行われていた夢の光景の証左だった。

 

 人混みに流されながらZepp Fukuokaを抜けた。とっぷりと日の暮れた空が視界を埋めた。まだ少し冷たい、四月の夜の風が汗だくになった身体をそっと撫ぜる。じわじわと蘇ってくるあの素晴らしきライブでのハイライトの数々。これを思い出すだけで当分は生きていけるな、としばらく口のゆるみが収まらなかった。

 2018年の1月、赤坂BLITZに行けず悔しさで唇を噛み締めたあの頃の僕が、ようやく救われた気がする。本当に今までいろいろあったけど、今日のこの一日だけでなんかいろいろ報われた。最高の連続、どこをどう取っても見どころしかない、今までで一番幸せなライブでした。ユニゾンを、ヒトリエを信じて追っててよかった。

 遠慮することなくいつでもどこでも交わってほしい、いややっぱりまた近場で交わってくれたらうれしい、でもこの二組の対バンがまた観れるのであれば、月でも城崎でもどこへでも行く所存である。本当に良いライブでした。ありがとうございました。

 

 

UNISON SQUARE GARDEN-fun time HOLIDAY 8(w/ヒトリエ) 妄想セットリスト

 

ヒトリエ

01.ポラリス

02.センスレス・ワンダー

03.インパーフェクション

04.SLEEPWALK

05.W(HERE)

06.カラノワレモノ

07.踊るマネキン、唄う阿呆

08.青

09.トーキーダンス

10.アンノウン・マザーグース

 

UNISON SQUARE GARDEN

01.天国と地獄

02.アトラクションがはじまる (they call it “NO.6”)

03.場違いハミングバード

04.プロトラクト・カウントダウン

05.シューゲイザースピーカー

06.fake town baby

07.春が来てぼくら

08.桜のあと(all quartets lead to the?)

09.(ドラムソロ~セッション)Phantom Joke

10.徹頭徹尾夜な夜なドライブ

11.シュガーソングとビターステップ

en

01.箱庭ロック・ショー

02.君の瞳に恋してない

 

 

 

 

 

 以上、ぜーんぶライブをコロナに台無しにされた僕の妄想でした。今死ぬほと虚しいからほんと良い死に方しないでくれコロナウイルス わりと早い段階でくたばれ

 

 

なんかダメな日にSyrup16g

 

 なんかダメな日の話

 

 出勤前に小雨が降っている日は、大体いいことが起きない。僕の悪いジンクスの一つである。なまぬるく、まとわりつくような湿度と曇天とともに、なんかダメな日がやってくる。

 


 なんか、ダメな日。

 財布を忘れたり、教科書を無くしたり、恥ずかしい失敗をしたり、細やかだけど面倒なミスをしたり、職場の鏡を見て初めて顔の湿疹に気付いたり、よくしてくれる人に負担をかけさせてしまったり、言葉選びを間違えてしまったことを、言葉を発した後で気付いてしまったり。ぬるい湿気が遊び半分で足をからめ取ってしまうような、そんなギリ致命的ではないけども確かな痛みを伴う失敗を、凹む程度には繰り返してしまう、そんな日。どれだけ気を付けていても、そんな日がたまにやってくる。あくまで、たまに。

 たまに、とは言ってもそういう日はとても記憶に残りやすい。羞恥心や罪悪感のしつこさといったら凄まじく、ふとした瞬間に、ふとしたきっかけで、迷惑なほど鮮明な記憶がフラッシュバックを起こす。些細な選択ミス、誤った行動、言葉選びの間違い。そういったものが産んだ、衛星とかから俯瞰してみれば大層ちっぽけな絶望が、これでもかと自分に突き刺さる。その場に蹲って呻いてしまいたいほどに苦しいそれは、どれだけ忘れようと頑張っても頭の片隅にへばりついて取れない。

 年を重ねるごとにそういう記憶は増えていく。不揮発性の負の記憶が増えていく。次第に新しいものを取り込む部分ですらも踏み潰して根付いてしまいそうなほどの勢いで増えていく嫌な記憶も、いつかは開き直ってしまうものかもしれないけど、その境地に至れるまではとにかく重く、邪魔っけで、煩わしい。

 無数のなんかダメな日が重なり続けて人格も価値観も歪め、次第に朝が、夏が、衆人環境が人間関係が嫌いになっていく。理由もないけど死にたくなってしまう。社会不適合者だなぁ、とか自嘲気味に呟いたところで、それを変えるための行動の一つも起こせない。とにかくなんだか体がだるい。世界なんてどうでもいいから寝てたい。自分以外の人類なんて唐突に滅んでしまえばいい。

 死にたいのに死ねない、死なないのに死にたい。そんな傍から見れば己一人の禅問答のようなことを考えている時間が、この世で1番無意味だと思ったところでやめられない。身体に蔓が絡まる。足も思考も止まる。上手な呼吸の呼吸の仕方すらも最早分からない。見えずとも満ちた空気が淀んだ瘴気にすら感じる。暗転、暗転、暗転……

 
 なんかダメな日が積み重なってなんかダメな人になって、憂鬱を身体に纏わり付かせ、こころを蝕ませないと生きている実感すらも湧いてこない。明確な欲求すらも掠れ消えていくような気がする。そういう時に人間が、頑張れ、負けるななんて励ましを素直に受け入れて立ち直れるようであれば、たぶんこの世に鬱の概念なんて存在していないのだろう。

 そんな慢性的な閉塞感と憂鬱に苛まれ、目の前にそびえる高い、高い壁、もしくは先の見えない下り坂しかない絶望的な視界に歩みを止めてしまった時に、それを助けてくれるのは、何でも話せる親しい人でも、筋肉モリモリのヒーローでもなんでもなくて、ただそんな自分の隣に、姿に何も言わずに、ただ突っ立ってるだけ、いてくれるだけの存在なのではないか。

 

 

 この記事では僕にとってのそんな存在、syrup16gについて書こうと思う。

 

 

 誰にでも当てはまること

 

 

 syrup16gはよくメンヘラバンドとか鬱バンドとか救いがないとか、そういうちょっとひねくれた紹介をされる。事実その評価はまあ間違っては無いと思う。

 実際歌詞は前向きとは程遠い。フロントマンで詩曲を担っている五十嵐隆は、格好悪い自分や狭量な世界を嘲笑するような、諦めるような、そんな歌詞を書く。辞書を引かないと意味が分からないような難しい熟語も、唸ってしまうほどに凝った言い回しもそこまでない。ほんとうにありのまま、着飾らなければ背伸びもしない、等身大の詞。自分の中から出た澱みを、さして隠したり脚色したりすることもなく、そのまま曲にしている。

 

 上向く予兆もなく日が落ちて 今夜もまた飲み疲れて眠っちまうだけ

 syrup16g――生きているよりマシさ

 

 

 自分も他人も世界も生まれた時点で死んだも同然。のはずなのに気張って肩肘張って空気読んで、自分の居場所を滑稽なほどに注意深く守って、いつだって死にたいくせに生きるのに一生懸命で。そんな人間が、社会が死ぬほど嫌いだしバカらしい。馬鹿らしいけど、そこに紛れてないと生きていけない自分が、なんだかんだ一番愚かに感じてしまう。そんなやりきれない憂鬱と厭世観をベースに紡がれた言葉を、ポップでローファイなメロディに乗せて歌う彼らは、どこからどの観点から見ても明るいバンドとは言えないだろう。

 

 しかしだ。

 単に鬱な歌詞を紡ぎ共感を得ることを生業とするバンドなら、彼らに限らずとも他にいくらでもいる。そういう世界観を売りにしてるバンドはどの世代でも一定の支持を得ており、メインストリートで光を浴びることはなくも今日も誰かの命を救っていたりする。それが戦略であれ本心であれ、そういうアーティストに救われる人がいる事実は変わりない。歌詞の強烈さ、鬱度具合だけでいうならsyrup16gよりえぐいこと書いてるバンドもそれなりにいるだろう。有名どころで例を挙げるならamazarashiの一部楽曲とか。

 にも関わらず、今年で結成して(解散していた時期含めて)24年になるバンドが、新鋭の同系統のバンドに駆逐されることなく今に至るまで支持を集めていることを考えると、単に「鬱バンド」のくくりとしてまとめてしまうのも違う気がする。幾度となく彼らから離れて、いろんなアーティストを聴いてそれに一度はハマっても、結局彼らの音楽に回帰してしまう不思議な魅力が、彼らには確かにあるのだ。

 

 その「不思議な魅力」とはなんだろう。

 あれこれ考えながら彼らの曲を聴いた中でなんとなく思ったのは、五十嵐の書く歌詞の、陰鬱さのなかに擁された共感性の高さが、その魅力の一端を担ってるのではないか、ということ。

 例えば、

 

道だって答えます

親切な人間です

でも遠くで人が死んでも気にしないです

syrup16g――ex.人間

 

 みんな大好きお蕎麦屋さんソング「ex.人間」から一節。一応YouTubeにPVがあるんだけど、公式の奴じゃないからここでは載せない。サブスクなり借りてくるなりで聴いてほしい。

 当たり前のように暗い歌詞。人間そんなにきれいなものではない、ということを端的に、詩的に表すその表現の精度の高さに舌を巻く思いである。あらためて聴いても色あせることなのないめっちゃいい曲。HELL-SEEほんと良いアルバムだよね。

 前述のとおり確かに暗い歌詞なのだが、それはそれとして「そうだよな」と思える歌詞である。他人には出来るだけ嫌われたくない(というか無駄な敵を作りたくない)ので損にならない範囲で親切にはするけど、知らない人が死んだ・殺されたって報道があってもあんまり気にしない。見ず知らずの人の生き死にとやかく反応するほどの暇も余裕もないのが現実だと思う。

 

 ひたむきに頑張るとか、一生懸命努力するとか、前を向いて生きるとか、そういうのが大事だっていうのは今日日小学生でも分かっている至極当たり前のことであって、そういうことが簡単には出来ないから人は悩み苦しむわけで。

 当たり前のことが当たり前に出来ない、ただそれだけのことで躓いて立ち上がれなくなっている中でふと周りを見渡すと、誰も彼も皆、さも真っ当に、まるで何の失敗も不安もないかのように、明日に希望と活力を見出して日々を生きているかのように見えてしまう。まるで悩みを抱えているのは世界に自分だけかのように、この世の不幸のベクトルが全て自分に向いているかのように思ってしまう。感じてしまうのだ。

 おそらくそういう悩みは普遍的なものであり、誰もがそういうものを少なからず抱えていて、SNS等にはそういう悩みを隠した上澄みの綺麗な部分だけを晒して、さも幸せに生きているかのようにふるまっていることだって、ぜんぜん分かってはいるんだけど、どうしても上手く言語化出来ない苛立ちが募ってしまう。

 助けてほしいわけではない。救ってほしいわけでもない。ただこの度し難いもやもやとイラつきを、かりそめでも何でもいいから言葉にしてほしい。自分を苛み続けているものが一体何なのかを教えてほしいのだ。見えず触れず暗闇の中でただ自身を蝕み続けるそれを、自分が納得できる言葉と形で咀嚼させてほしいだけだ。

 五十嵐は、そういう誰しもが抱えている漠然としたもやもや・苛立ち・先行きの不安といった、上手く言語化できない負の感情を的確に表現することに非常に長けている。

 彼の詞の乗った歌を聴いた時の、目を背けていた世界と自分の不和を深々と突き刺してくるかのような、無力に俯いている自分を俯瞰で見せられたような、無味無臭のまま摂取し続けていた名も知らない毒の微かな甘さを認識できるようになったかのような、ほんの少しだけ視界が晴れる感覚。持て余していた鬱屈が決して軽くはならないけど、こういうもんかとすとんと腑に落ちて落ち着いてしまう感覚はおそらくそこから来ている。

 

誰もお前など気にしていない 

身代わりなら腐るほどいる 

だから心配すんな

syrup16g――手首

 

 さっきも書いた通り、彼らのような言葉をメロディに乗せて歌うバンドは別に少なくない。探さなくても見つかるくらいにはいる。特にバンドなんて活動形態はよほどの売れっ子でもない限り一寸先は闇がずっと続くもんだと思うので、ダウナーな方向に傾いてしまうのは想像に難くない。

 ただそういう鬱屈を表現し、共感を得るための言葉のチョイスは、簡単そうに見えて結構難しい。個人がムカついていることをどれだけ上手く書いたところで、その「ムカつくこと」の枠が狭ければそれだけ届く人も少なくなる。

 心配や恐怖と言った不安を煽る感情というのは自身の奥深くの、いろいろな思想を表現するためのベースとなる感情であるため、本来そういった「枠」はない。これは本当に当たり前のことなのだが、その枠のない鬱屈の感情を形のないまま言葉で表現するのが難しいため、世のそういうアーティストたちは皆、例えば失恋したとか、親が憎いとか、いじめに遭ってるとか、そういう明確な苛立ちややるせなさ、希死の根源となりうる題材を媒体にして詞を作ることで、間接的にそういうものを表現しているのだと思う。

 五十嵐の書く詞のダークさ、ダウナーさにはそういった明確な形がない。誰しもが抱えている、誰にでも当てはまる、けれども極めて言語化しづらい、言うなれば不定愁訴のようなものを的確に詞にして歌にしてくれる。詞として可視化してくれる。

 

夢は叶えるもの 人は信じあうもの 

愛は素晴らしいもの 

もういいって

syrup16g――もういいって

 

 根暗なことを語る他のアーティストと比べて、素朴で、ちょっと味気なくて、元気がない。肩の力を入れずに、飄々としながら真意を突いている。でも本当はこれくらいでちょうどいいのだ。自身の鬱屈を表現するのに、リスナーの共感を得るために死を語るのに、大げさなパワーはいらない。ささやかな-1を掛け算してくれる程度の、生ぬるい鬱さ。単純だけど難しいそれを、さも当然のようにやる五十嵐の感覚はほんっとにすごいなと思う。

 

 

 ギルティ、家電のCM

 

 僕家電のCMが嫌いなんですよ。

 

 何をいきなり、とお思いの気持ちは分かるんですけど、ちょっと三菱でも東芝でもエアコンでも掃除機でも何でもいいから知ってる家電のCM思い浮かべてもらっていいですか? 家電のCMに出てくる人ってなんであんなに幸せそうなんでしょうね。腹立ちません?

「幸せ」と言うのは、綺麗な奥さんと利発的で愛嬌のある子供を持って、綺麗で大きな一軒家に住んで、なんかいい感じの犬でも飼って、そして弊社の家電を持つことなんです、それが幸せなんです。さあ幸せになりましょう、みたいな。マーケティング担当の張り付いた笑みが透けて見える。

 ぶっちゃけこれはずっと前に読んだ本の受け売りなんだけど、家電のCMでも何でもそうであるように、この国には「幸せ」という曖昧な概念に対する最大公約数的なものが、集合的無意識のように蔓延しているような気がするのだ。安定した収入、恵まれた容姿、広い交友関係、明るい老後。幸せのかたちはひとそれぞれ、と綺麗ごとのように宣いながらも、結局幸不幸には明確なラインが存在している。だれが何と言おうと金なんて多い方がいい。

 この国にうつ病の人が多いのってそういう、ある種強迫観念のようにすら感じられる「こうでないと幸せになれない」「幸せの形はこう」「こうでない奴は不幸」みたいな、そういう押し付けがましい幸福論が重く、つらくのしかかることにあるのではないか。一度の躓き、一度の失敗、一度の過ちで人生が終わってしまう、みたいな共通認識が、価値観の淵底に強く根付いているからではないか。

 

君と同じように生きていきたいけど 

君と同じように生きていくのはとても大変で

syrup16g――stop brain

 

 人間生きてさえいれば何とかなる。でもそれは決して幸せに生きていけるというわけではない。失敗したら尊厳であれ地位であれ友人であれ、かけがえのない何かを捨てなければならない。それが自分が思っていたより大したものでもなければ、めちゃくちゃに重い一撃となる可能性だってある。

 でも、大抵は死なないし生きていける。知らないかもしれないけど人間は重要な臓器とかを刃物で刺されたりとかしない限り意外と死なないのだ。良くも悪くも。

 でも世の中はたった一回の失敗を許してくれない。失敗は成功の基とか教えながらも、著名であればあるほど、責任が問われる立場になるほど、たった一度の躓きは重く、重くのしかかる。時には本人の命を本当に奪ってしまうほどに。

 失敗は成功の基とか、努力は必ず報われるとか、そういうのはほんとのことなんだけど、成功が来る前に、努力が報われる前に、いやその後でも、心が折れたらもうどうしようもないわけで。その折れてしまった人を救うことに対して、世界はあまりにも関心が薄い。それどころじゃない、と言わんばかりに置き去りにして、今日も世は廻る。

 そんな共通認識の幸せから置き去りにされてしまった人にも、道を外れてしまった人でも、あるいは間もなくそうなりそうな人にも、等しく寄り添ってくれるのがsyrup16gの音楽なのかなと思う。

 

頭ダメにするまでがんばったりする必要ない 

それを早く言ってくれよ

syrup16g――負け犬

 

 失敗したって元気がなくたって、何かを失ったって、呼吸が止まらない限り人は生きていける。死にたいって呻いても、生きるのがつらくても、ちゃんとご飯を食べて寝れば生きていける。便利で多機能な家電が買えなくたって、デカい家に住んでなくたって、共通認識の幸福に至れなくたって、出来る範囲でどうにかすれば意外となんとかなるもんだと思う。それに気づいたときに、どういう方向にでも一歩を踏み出した人のそばに、syrup16gの音楽が傍にあってほしいと思う。

 

 

「なんかダメな人」の逃げた先に

 

 小学生のころ、なんとなく思いたって、いつも一緒に帰ってる知り合いたちの集団からそっと逃げ出して、いつもとは違う下校路を通って帰ったことがあった。少し渇いた夏風に紛れる日暮の鳴き声、微かに傾いた程度の夕暮れ、自分の運動靴が砂利を踏む音、風に揺れる街路樹、やけに遠く響く野球部の声出し。いつもは喧騒に掻き消されてしまう世界の呼吸のようなものを、耳で、目で、皮膚で感じれたあの瞬間に、ひとりでいることの心地よさに気付いてしまった気がする。次の日から微妙な距離感が生まれて、ほどなくして僕は毎日一人で家に帰るようになった。

 自分を出すと煙たがられるのを理解してから本音を曝け出した人間関係から逃げた。先生や両親から怒られるのが怖くてやりたかったことから逃げた。才能を言い訳にして夢から逃げた。日差しと猥雑と人の目に嫌気がさして世界から逃げた。

 自分はなんてダメな奴なんだろうって独り言ちたところで自分には逃げることしか出来ず、逃げることでさらに逃げ続けなければいけない状況に陥る悪循環、さらに逃げて逃げて、ふと気が付いたらもう取り返しがつかなくなっている。取り返しがつかないことを嘆いても、結局何かのせいにしようとして、現実からまた逃げようとしている自分がいる。そして多分、そういう人は身の回りに意外とたくさんいる。

 

無力を嘆いては 

誰に言い訳したいんだろう

卑怯な奴だな

syrup16g――汚れたいだけ

 

 別にsyrup16gは、そういうなんかダメな人のための音楽ではない。とっても上手いポップソングを作るバンドなので、歌詞はまあさておき、聴くきっかけさえあれば誰だっていいバンドだって言うと思う。ミスチル桜井和寿レミオロメン藤巻亮太アジカンのゴッチといった錚々たるメンツが認めた才能は決して伊達ではない。

 

 ただ、そういうなんかダメな人が逃げた先で、ひっそりと鳴っている音楽であってほしいな、と思う。

 

 

(公式がアップロードしてるPVが少なすぎる問題)

 

 思うに何かにめちゃくちゃ悩んで立ち止まっている人に向ける言葉として一番適切なものは、哀れみでも𠮟咤激励でも共感でもなく、ただ悩んでいる現状そのものに対する肯定ではないか。「苦しいね」でも「頑張れ」でも「分かる」でもなく、「間違ってない」の一言ではないか。たとえ悩んでいる事柄自体が間違いだとしても、悩むこと自体が間違ってないと伝えることが重要なのではないか。精神医学とかうつ病を専門で学んできたとかそういうことは微塵もないので、ほんっとに個人の感覚だけれども。

 彼らは別に背中を押してはくれないし、生きる希望をくれるわけでもない。ただそこにいて音を鳴らすだけ。言葉を紡ぐだけ。ただその紡がれる一見陰鬱で後ろ向きな言葉は、そこにうずくまっている自分へのこれ以上ない肯定へと成りうる言葉なのだ。現実逃避も希死念慮も言葉に出来ないもやもやも、自分だけが立ち止まっているように思える現状すらも、まるっとすべて肯定してくれる。その姿にまるで、ヒーローのようだと子供の様に胸打たれてしまう。僕の聴き始めたきっかけはまさにそれだった。

 

つらい事ばかりで 心も枯れて あきらめることにも慣れて

したいこともなくて する気もないなら 

無理して生きてることもない

syrup16g――明日を落としても

 

 積み重なったなんかダメな日がダメな自分を作ったとして。

 ゆるやかにいつまでも続く日々の絶望に、身も精神も石臼に挽かれる穀物の様に粉になっていって。

 それでも死ねない、死ぬ勇気もない人たちが不安におびえる明日を、どこにでもありふれた翌日にするための、些細なきっかけとなるようなバンドだと思う。

 

 悩みがあるとかないとか、死にたいとか死にたくないとか、とりあえずそんなことは置いといて。ちょっと凹んでしまうくらいダメな日だった帰り道に、上手くいかない、がずっと続く日々の合間に、何かを諦めてしまった日に、テレビの電源を点けるくらいの気軽さで、とりあえず聴けばいいと思う。

 決して手放しでお勧めできるバンドではないけど、きっと今日も誰かが心の底から求めてるバンドです。このバンドの鳴らす音楽が、この記事を読んでくださった誰かの心を揺らしますように。

 

「おもに」解散したバンドを通じて音楽遍歴を語る記事

 

 数年前、高等教育を終えてから邦楽ロックという曖昧かつ途方もなくだだっ広い界隈にのめり込んでいった身なので、今の邦楽ロックシーンの第一線で活躍しているバンドを知ったのは、もう流行りの波が来てからというのがとても多い。

 

 例えば去年嫌というほど一枚のアルバムに関して語ったUNISON SQUARE GARDENにしてもそうだ。僕が彼らにハマった年が結成10周年だったのだから、僕は彼らの過去を音源でしか知らない。どんなライブをして、どんな苦悩葛藤があって、どんな言葉をどんな思想でどんな形で自身の音を放っていたのか、過去の映像記録や当時のファンや彼らの回想での語りでしか知らない。それ故に俯瞰の形で当時を探り、ルーツを紐解いていく楽しみもあるにはあるが、やはりその当時の空気感や成長、ライブ感を目の当たりに出来なかったもやもやが一切ないと言ったら嘘になる。過ぎてしまった時間はどうしようもないので諦めはつくのだが。

 

 そのバンドのことを好きになればなるほど、その中身を、ルーツを、辿った道筋を知りたくなる。紐解きたくなる。そして紐解いた先に浮かび上がる感情はいつも「もっと早く知ってればな」なのだ。単に無知だったのかそっぽを向いていたのか、そもそもその趣味に至る前のバンドだったのか、それとも本当にどうしようもなかったのか。知らずにいた理由はそれぞれあるけども、虚しいことに変わりはない。過去そのバンドが輝いていた時期の「熱」ほど、焦がれるものも少ないのだ。

 その中でも解散してしまったバンドを好きになってしまった時のどうしようもなさといったらもう言葉にならない。なんてったってもう生で観れないのだ。そのバンドの織り成す歴史に一切立ち入れないのだ。再結成でもしない限り。少し昔の映画で見た俳優が気になって調べたらすでに故人だったとか、そういう耐え難い切なさを抱えながらも、音源は色褪せず素晴らしいので聴き漁り、また無情感だけを募らせてしまう。また好きの気持ちが強くなってしまう。バンドを追っていると、そういう切なさに殴られることがわりとよくある。

 

 ただ解散してもなおリスナーを引き付けるバンドと言うのはやはり相応の魅力があるわけで。バンドを追い始めて数年、そういう歩みを止めてしまったバンドに魅了され刺激され触発され、僕自身の人生の舵取りすら彼らのなすがままに成ってしまった部分も少なからずある。新しい音源が出ないと分かっていても絶えない、止まない、むしろ増し続ける輝き。星の数ほどあるバンドというジャンルの中で鎬を削り、多くの亡骸の募った山を駆け上がり、やがて歩みを辞めてその山の一部となってもなお道を指ししめ続ける彼らに、僕は随分救われてきた気がする。何言ってるか分からなくなってきた。

 というわけでこの記事は今までに僕が触れてきたもうすでに解散しているバンドを紹介するものである。ユニゾン、THE PINBALLS、ともに個別の記事、そして10000字を超えるスーパーなボリュームで紹介してきた当ブログが、いくつかのバンドを一つの記事に纏めて、アツく、エネルギッシュに紹介する。まさに豪気。歩く大盤振舞とは僕のことである。歩く大盤振舞って字面だけみると超ダサい

 ただふつうにバンド名を挙げて「こういうばんどで~す」って紹介するのなんてマジでそんなの素人のブログ読む意味がないので、Wikipediaの「解散したバンドの一覧」みたいなページ見たほうがいいので、というか書いてて面白くないので、どうせならということで今までの人生の音楽遍歴みたいなものを語っていこうと思う。「幼少期編」「小学生編」「中学生編」「高校生編」「短大生編」「社会人編」みたいな感じで。ああそうだとも自分語りだよ。

 20代を折り返すか返さないかくらいの、オタクにもパリピにもいまいちなり切れずやりたいことは多いくせに才能と継続力と行動力はなくて理想とプライドばっかり高くて顔面偏差値が平均以下の「自称邦楽ロック好き」というところにしか自分の属性を見いだせない男の琴線にフェザータッチするような記事になると思う。書いてて死にたくなってきたな

 

 というわけで前置きはここまで。以下本文

 

 

【幼少期編】

 

 母親の長い産道を抜けるとそこはジャパメタだった。

 

 いきなり何の話かというと僕の母はX JAPANのファンだったのだ。そのなかでも、いやX JAPANというかそのギタリスト、HIDEこと松本秀人の熱狂的ファンだった。後々に聞いたことだがブランキーとかも好きだったらしい。母の友人にはベンジーのセフレがいたそうだ。詳しい真偽は知らないがもしほんとなら嫌だなそれ。

 物心ついたときには狭苦しいアパートの中で、ビデオデッキから重ためのギターとバチバチのドラムがせっせとセッションをしていた。意味の分からない言葉を羅列した歌を咀嚼もせずに呑み込んでいた。車の中でもどこでもHIDE,HIDE,HIDEのHIDE祭り。母から「おまえはHIDEの生まれ変わりだ」と半ば洗脳じみた言葉を受けながらおもちゃのギターをかき鳴らす僕は、順当に育てば米津玄師すらも超えるスーパー天才ミュージシャンとして世を席巻していたと思うのだけど、どこで間違えたのだろうかと今でも考えている。ピアノでも習えばよかったのにね

 残念なことに僕が2歳か3歳のころにHIDEはこの世を去ってしまったんだけど、僕の音楽遍歴を語るうえで絶対に外せない存在になるのがこのHIDEである。X JAPANよりも彼のソロ名義での曲を聴いていた時間の方が圧倒的に長い。おそらくだけど僕が生まれて初めて「カッコいい」と認識したアーティストは彼だと思うし、20年経った今でも色褪せることなくカッコいいと思ってる。彼が今まで生きてたらロックシーンはどうなってたんだろうな、と考えると悔しい気持ちでいっぱいになる。いきなりバンドでも解散でもなんでもなくソロの紹介で申し訳ないけど許して

 

 

 今よりずっと水分含有量も多くて世間様から向けられる目も優しく希望しか詰まっていない、果てしなく清らかな、清らかだった僕が、みんなのうたより流行りの歌より、スーパー戦隊より仮面ライダーより夢中になったのが彼だったのだ。血液が、本能が求めていたかのように、食らいつくように聴いていたらしい。今でもHIDEの曲に関しては母より僕のが詳しいのでその熱意は相当だったのだと思う。余談も余談だけどこの「spread beaver」はエッチなスラングらしい。生まれたての赤んぼうに聴かせるようなアーティストか? 

 ちなみに父は矢沢永吉の大ファン。音楽的影響は蚊ほども受けてない。

 

 

【小学生編】

 

 まあバンドなんてほとんど聴いてなかったね。じゃあいるのか? ここの項目

 というかこの時期は、自分の時間を音楽に割くということがあまりなかったように思う。音楽をあまり聴かないということは友達とよく遊ぶということである(?)この時期は音楽よりデュエマ、ロックンロールよりポケモンだった。今でもポケモンは好きだけど。この時期は友達多くてたのしかったな、親の金盗んでカード買ってボコボコにされるクソガキでした。

 ただまぁまったく聴いてなかったかと言えばそれは違って、流行りの曲やMステで気になったアーティストはちまちまと聴いていたような気がする。

 代表的なのがORANGE RANGERIP SLYMEである。この頃から早くてノリのいい曲を好む傾向というのはなんとなく出来ていたように思う。とにかくバラードが暇で聴けなかった。じれったかった。今でもバラードは歌メロに惹かれないとなかなか通して聴けなかったりする。BPM100以下は田舎道で法定速度を遵守するおばあちゃんくらいのじれったさ。

 他に聴いてたアーティストといえばKAT-TUNとか嵐といったあの辺のジャニーズと、ファンキーモンキーな人たちと、あとは湘南乃風とかも聴いてたかな。ここらへんの嗜好をブレさせずに順当に育っておけば今でもLINEの友達が100人とか超えてたんじゃないか。腹筋とか1000個くらいに割れて誕生日にホールケーキに頭突っ込んでみんなで大爆笑、みたいなパリピな人間になれたんじゃないか。誕生日に来るLINEが従兄弟だけとかいう悲しすぎる現状をぶち壊せていたのではないか。せつねえ〜

 

 まぁでも小学生時代によく聴いてて解散した人達っていうのは思い当たらないのでこの項目はいらなかったかもね 

 

 

【中学生編】

 

 バンドはおろか日本の音楽はダサいと突っぱねる期に突入していた。

 

 いやあの冗談ではないんですよ。

 僕が中学生の時、2008年から2010年あたりの日本の音楽シーンってどんなだったかって、AKBとジャニーズでオリコンランキングが埋まってた時期で。握手券商法、ランダム写真封入、投票券商法、同一シングルの複数バージョン販売商法エトセトラエトセトラ、とにかく音楽を音楽以外の部分で売りつけるのが正義だったこの時代はもうほんとに、ほんっとに音楽番組が面白くなくて。特にAKB。今はどうか知らないけど、僕はこの人たちへの苦手意識が未だにあります

 YouTubeで新しい音楽を探すとかそういうテクニックにも疎かったもんだから、テレビには出すとも活躍するかっこいいアーティストを探す、みたいなことは微塵もなく、ただ日本の音楽は終わった、みたいな言論をろくに調べもせず鵜呑みにしてクソだクソだと管を巻く中学生だったんですよ 殴りたい

 じゃあそんな僕はどんな音楽を聴いてたかというとですね

 

 

 ほぼK-POPでした。

 中学一年生のころはまだ湘南乃風とかGReeeeNとか聴いてたんだけど、湘南乃風はふつうになんかめっちゃダサく感じるようになって、ていうかマジでクラスのヤンキーとおんなじの聴いてるって事実が嫌すぎて聴かなくなって、GReeeeNは3rdの塩、コショウが当時の僕にとってめちゃ微妙で聴かなくなって、ここあたりから加速度的に「日本の音楽はクソ」期に突入していったように思う。もったいね~

 ただこの時期から聴き始めたSOUL'D OUTなる天才集団は今でも聴いている。ふしぎ。彼らも解散してしまったね。

 

 そしてこのころ、東方神起とかを皮切りにK-POPブームが巻き起こるようになって、僕は自然とそっちに流れていった。母が韓流ブームにどっぷりつかり、家のテレビが韓国一色になったのも影響としては大きかったように思う。

 東方神起、KARA、superjunior、超新星(現SUPERNOVA)、2PMなどといった、ルックスとスタイルとキレキレのダンスを兼ね備えた彼らに僕はかなり夢中になり、当時は相当聴きこんでいた。曲もカッコいいしね、今聴いても。

 当時の地上波で流れていた、愛の恋のぐんずほぐれつ、好きな人からメールが来ないイエーイ、一生一緒にいようぜMy Cinderellaみたいな、ちょっと賢いチンパンジーがタイプライターで鼻くそほじりながら打ち込んだような低俗な歌詞に脳をやられつつあった僕は、とにかくもう恋愛詞だせえ、というか日本語がだせえ、なにがあはれだ憐れだよお前は、と耳をふさぐようになったのだ。たかが10年と少ししか生きてない分際で何を言ってるんだろう。

 だからK-POPに関しても、アーティストがダサい日本語詞で歌ってるのはあんまり好まず、YouTubeに上がっている韓国語詞のものばかり聴いてた。とにかくどのグループもルックスもファッションもダンスも超カッコよくてほれぼれした。その中でもひときわのめり込んで聴いていたのが

 

 

 BIGBANGと2NE1の二組である。

 この二組はYGエンターテインメントという韓国の芸能事務所発のグループで、そのなかでも突出して知名度のあるグループである。YGから出た他の有名な人と言えばかの有名な江南スタイルのPSYがいるけど、まあ、あれは、ジャンルが違うので……

 2NE1もめちゃかっこいいけど快感覚えた猿のごとく聴きこんでたのはBIGBANGの方。癖のある声とラップ、息の合ったダンス、強めのサビとお洒落なビート。何言ってるか分からない韓国語の歌詞を覚えてしまうほどに聴きこんだ。初めてライブと言うものに参加したのも彼らである。1年だけファンクラブにも入っていた。

 そのなかでもとくに好きな一曲が、厳密に言えばBIGBANGじゃないんだけど

 

 

 今聴いてもバッチバチにかっこいい。10年前の曲だぜこれ。信じられない。

 これはBIGBANGのリーダーG-DRAGONのソロ曲なんだけどもうほんとにマジで余すとこなく全部かっこいい。天才の曲。こんなもん今初めて聴いたってのめりこむ自信があるね。この曲が入ってるHeartbreakerってアルバムは捨て曲一切なしの超名盤なのでぜひ聴いてほしい。CDは多分TSUTAYAにいけばあるよ。サブスクもある

 

 韓国のアイドルグループは昨今のKARAの子の自殺の問題とか、ちょっと前のBIGBANGのVI脱退のいざこざとか、わりといろいろ荒れることも多い。僕が懇意にしてた2NE1も麻薬がらみで一度騒動が起きたし、うえで書いたG-DRAGONにしてもそう。すぐに新しいグループがぽこぽこ出てくるので流行りのサイクルも滅茶苦茶に早い。とくに男性グループは兵役の関係で、一定の年齢を過ぎると活動休止を余儀なくされる。僕が良く聴いてたグループで当時のメンバー、原型を保っているグループなんて一つもない。

 それでも彼らの音楽に掛ける熱意は本物だし、そのクオリティはどの時代も圧倒的というのは嘘じゃない。今聴いても間違いなくカッコいいもん。

 日本の音楽に幻滅してた時期、彼らがいなかったら今まで聴き続けるなんてことも恐らくなかったのを考えると、彼らは僕の音楽を救ってくれた恩人でもあるし、間違いなく青春を共にしたかけがえのない大切なもののひとつである。ここだけ切り取ると凡庸なJ-POPぽくて虫唾がはしるね。かけがえのない(笑) 大切なもの(笑)

 

 

 で、僕の中学時代はほとんどこのK-POPにどっぷりつかって幕を閉じ……る前に、二つ変革が起きる。他でもなく、音楽の変革が二つ。一つでも十分なのにふたつ。ご精が出ますなあ

 

 一つはニコニコ動画にてその時期とても話題になっていた「ハイポーション作ってみた。」なる動画。本家が消えてるので紹介が出来ないのがちょっと残念だが、YouTubeに怪しい転載動画がたくさん上がってるので観ることは出来る(観ろとは言わない) 内容をかいつまんで言うと、EDに悩む馬が最強の精力剤を作るためにドラッグストアの精力剤を全部混ぜて飲んでゲロを吐く動画である。

 「ニコニコ馬鹿四天王」「クッキングバカ」「嘔吐魔法」などといった散々なあだ名で呼ばれている我等が(?)馬犬氏の動画である。僕らが中学生のころアホみたいに大流行りした。おもしろフラッシュ、からのニコニコ動画のコンボでパソコンに中途半端に興味を持ったせいで僕は人生を棒に振ったので憎んでる。

 近年ははじめちゃちょーあたりがいろんなラーメンやジュースを混ぜて食べて飲んで微妙なリアクションする動画を上げて人気を博しているようだが元祖は(たぶん)この人。調べたら今Vtuberやってるんだって。時代や

 で、なんでそんな時代を風靡したイロモノうp主(この表記なつかしい)の名前を挙げたのかと言うと、この人のハイポーションシリーズの2作目だが3作目だがにこんな曲が使われていたのだけど

 

 

  12年前……? 何かの冗談だと言ってほしい

 はいきました。ここからですどっぷりと邦楽にのめり込むのは。

 泣く子も踊る俺たちのボーカロイドとの初めての邂逅は、よくわからない馬がゲテモノ料理をする動画だったのは正しい出会いかって言われれば絶対違うけど、当時の友達が「ボカロってやべえやつがあってね……」と薬物か何かを勧めるようにきったねえウォークマンを差し出してくるたびに「いや日本の音楽はクソだから」と聴かずに突っぱねていた僕が正しい出会いなんて出来るわけないのでまあ。聴かず嫌いの上に強情張りだったからね、そりゃもう駄目だね。

 なんだこの曲結構いいな、と思ってコメント欄を頼りに調べて即座に気に入り、そこからいろいろ聴き漁り始め、歌い手にも手を出し始めたが運の尽き、そこから転がり落ちるようにバンドの方に聴覚が傾いていく。

 そしてこのロックンロールに引きずり込む魔の手その2が

 

 

 友達がブログにライブに行ったことを書いてたのが切っ掛けだったかな。

 そうご存じRADWIMPS。同級生が細々と聴いてたバンプアジカンエルレもそこまでのめり込まなかった僕だが、ラッドだけはなぜかハマってしまった。ここからだ、ここまでは前座である。K-POP? 日本版の歌詞が許容できないレベルでダサいから飽きたね!! なんだよ僕ちゃんはPERFECTって!! 俺のGDにクソみたいな歌詞を提供すんな歌詞カード尻に詰まらせて腸閉塞で死ね三流

 中学卒業直前の2つの変革によって僕の音楽嗜好はごりごりと変わっていき、ここから邦楽にのめり込んでいくわけです。タイトルで言えばここまでが前座なのですが、あまりに長くなったのでタイトルに「おもに」をつけました。これで嘘はついてない。「おもに」だからセーフ。

 

 

 【高校生編】

 

 というわけで長かった、ここから僕が邦楽ロックを少しずつ聴き始めることになる。解散したバンドの紹介もここからですほんとすいません。

 

 とはいっても高校時代にメインに聴いてたのはあくまでボカロとアニソンであり、邦楽ロックは二の次だった。友達の影響でラッドとワンオクは聴いてたけど、かなり長い間そればかり聴いてた気がする。卍ラッド卍ワンオク卍最高卍みたいなことを、モバゲーとかのプロフに恥ずかしげもなく記す系の高校生だった。日本の音楽はクソだと言ってた中学時代からこの変貌ぶり。手のひらの回転が速過ぎて発電できそう。

 あとこのころから東京事変及び椎名林檎も聴き始めた。iTunesになんでか知らないけど「教育」が入ってたのがきっかけだった。友達の影響もあってacid black cherryとかも聴いてたけどあれはまあ、若さゆえのあれみたいなものですぐに冷めた。いやかっこいいけど、聴く資格が要る音楽なので……

 基本ボカロ、あとはラッドとワンオク、気が向いたらその他みたいな嗜好がわりと長い期間続いて、その中でなんかラッドのYouTubeのコメント欄がキモくて嫌になったりとかしてボカロ一辺倒になってきて、ここから歌い手にも手を出し始める。で、そんな歌い手がカバーしている曲を聴いて知ったバンドが2つ。一つ目はこれ、椿屋四重奏

 

 

 いうことがない。かっこよすぎて。

 妖艶、凄絶、艶美、そういうアダルトな単語をすべて結集しても形容しきれないほどの、説明できないカッコよさ。未だにこの、俗的な表現をするなら「エロカッコよさ」とでもいうべきか、そういう方向性でここまでの佇まいクオリティを維持しているバンドは他にない。歌い手のカバーで知って、興味本位で本家を聴いた時の衝撃は今でも色褪せずに残っている。

 何もかも異質すぎるのでわざわざその独自性を特筆する必要もないのではとおもうのだが、とにかく僕は中田裕二の声が好き。綺麗なのにねちっこい、圧がすごいのにどこか儚くて危なっかしい、そんな歪さ、二律背反を擁しながらもしっかりロックバンドのボーカルにふさわしい声。カリスマと言うほかない。

 げえーカッコイイなにこれ!! と初聴から鼓膜を吹き飛ばされて近所のレンタルショップにて「深紅なる肖像」をレンタルし、あれよあれよと椿屋にハマっていくことになった。

 当時もだが、僕は未だに椿屋時代の中田裕二を邦楽ロック界隈史上最高のイケメンだと思っている。髪型を真似してあまりの差に心を折られた経験がある。出身県が同じとは思えない。パーツ分けてほしい。

 知った瞬間にはすでに解散していたバンドでまあむせび泣いた。現在の中田裕二ソロでの曲も当たり前に好きだけど、やはり椿屋時代の曲への思い入れの方が強い。今でもめちゃくちゃ聴いてるバンドです。おすすめ。手放しでおすすめ。聴き込んでもうライブが見れないことに絶望してくれ

 

 

  そんでもう一つ。FACT

 

 

 某オオカミバンドとか、前のパスピエとか、顔隠してる(してた)バンドって今でも一定数いるけど、僕の中での元祖お顔隠しバンドはこれだった。ぶっちゃけ上記の椿屋ほどのめり込んで聴いてたバンドかと言われるとちょっと劣るけど、それでも当時の僕にとっては、めちゃくちゃ革新的でカッコいい音楽だったのは一切間違いない。

 英歌詞、やたらめったら速いテンポ、仮面、なんかいろいろ混じっているのにまとまった音楽性。人気絶頂の時に解散したと噂のロックバンドである。あまりにも説明が出来ないのでWikipedia先生に頼ろうと思って検索したらもっと余計に分からなくなった。日本語でしゃべってほしい。とにかくもう激しめでいろいろ混じってる音楽性の覆面バンドだと思ってもらえれば。

 こんなバンドが売れる土壌もちゃんとあるんだ、と感動した記憶がある。バンド名を冠したアルバム「FACT」は当時結構ヘビロテしていた。

 僕が高校の時はまだ現役で、いつかライブに行きたいなーとか漠然と思ってたんだけど、ライブに自由に行けるお金を得るころには解散していた。さみしいなーと思いつつも、そのころにはすでに違うバンドにお熱だったのでそこまで残念にも思わなかったのが薄情なとこである。

 根っこから大好き! ってバンドでは無かったけど、自分の音楽の聴く幅をがっつり広げてくれたバンドではあるから、そういう点でも思い入れは結構あった。

 

 歌い手きっかけと言う正しいのか正しくないのか分からんルートで知ってしまったこの二組のバンドをきっかけに、僕は邦楽ロックというものを見直し始めることになる。ただなぜか、YouTubeで知らないバンドを掘り起こそうという気分にはならず、手の届く範囲の音楽を繰り返し聴いている時期が、これまた結構長く続いた。

 

 しかしまあそんな感じで保守的に音楽を聴いている僕にも届いてしまう音楽というのがやっぱりちょいちょい出てくるわけで、次はこんなのにハマることになる。

 

 

 さすがに時代を感じる。

 YouTubeとにらめっこしつつ、記憶をたどりながら書いているのだが懐かし過ぎて泣けてきてしまった。知る人ぞ知るバンド……ではなく正確には男性二人による音楽ユニットSURFACEである。これは友達経由で知った。ていうか今調べたら再結成してるんだって。許可なく再結成とかやめてくれ。しょうがないからここでは解散したとして話させてほしい。

 正統派にカッコイイギターと、男らしさも色気もありつつ聴き心地も100点満点のハイトーンボイスが特徴である。アニソンをいくつか手掛けていたこともあってか曲調の耳馴染みが良く、Bで落としてサビで盛り上げるお得意パターンがメチャメチャ上手くてとっつきやすかった。メリハリがはっきりしてて歌っててとても楽しい曲が多く、今でも「さぁ」とか「それじゃあバイバイ」はカラオケでよく歌う。

 歌詞はまあ割と直情的でそこまでひねりもない恋愛詞が多いけど、時折ぶっすりと刺してくるようなフレーズも持ってくるからなかなかに侮りがたい。上で挙げた「なにしてんの」は合宿免許を取っているとき、マニュアル車の運転に絶望しながら合宿寮にてよく聴いていたのだがとてもお世話になった。

 ボーカル椎名のソロ名義の曲はあまり馴染まずそこまで聴かなかったのだけど、SURFACE自体は相当に聴きこんだ。今現在までに聴いたアルバムで10枚個人的名盤を選ぶとすれば、間違いなく彼らの1st「Phase」は入る。捨て曲無し、会心の1枚である。聴いて合わなかったらTwitterのDMにて苦情を受け付けてます。

 

 そんなこんなで邦楽ロックと言う界隈に片足突っ込みながらも基本的にはニコニコ発アーティスト一辺倒、米津玄師も頭角を示し始めたのだからなおさらのこと。高校時代を通じて新しいものを知る中で次第にラッドもワンオクもあまり聴かなくなり、ワンオクに関しては「前のが良かった」と古参ぶる始末である。君はTAKAの何を知ってるんだ。でも今でもワンオクに関しては「残響リファレンス」が一番好き。

 ちなみにラッドは「絶体絶命」が一番好き。億万笑者は名曲。

 

 

【短大生編】

 

 そんなこんなで高校を卒業、短大に入学。めちゃくちゃな難易度の数学と専門科目に四苦八苦する中でやはり音楽は何だかんだ聴き続けるもクラスでは孤立しぼっちになり、割と毎日死にたいなあとぼやぼや思う毎日を過ごす中で、ふとフレデリックのオドループを聴いた日から加速度的に邦楽ロック界隈に身を沈めていくことになる。僕が毎年何万も音楽に費やす羽目になった元凶はフレデリックです。

 

 

 なんで一億再生超えてないの?

 ダンスビート全盛の時代、KANA-BOONを筆頭にとにかく速いBPMとダンスビート、耳に残るフレーズと繰り返す歌詞が特徴の、中毒性に特化した曲が良くも悪くも乱造されていた時代に僕はこの界隈にのめり込み、コロッとその類にコロリとやられて二十歳前にして痛々しいことに「ライブキッズ」のような人種になっていた。今思い出すだけであの一時期の熱を殺したくなる。でも今でも四つ打ちに弱い……四つ打ちはいい文化…… 

 ただSNSや各種音楽サイトを眺めているうちに、なんだろうな、友達がたーくさんいて彼女だっているくせに「ぼっちですw」とか言ってやたらと誰かとつながりたがるあの独特なコミュニティに違和感を覚えたというか、初めて地元のサーキットに行った時もなんか、なんかあの一体感というか空気が合わず、終いにはブルエンのライブ中にダイブしてきた人に思いっきり側頭部を蹴られたりして、冷めて離れてしまった。あの人種になれたら今頃インスタグラムでハッシュタグ山盛りの投稿とかしてたんだろうな。

 ちなみにフレデリックはいまだにめっちゃ好き。それとこれは別。

 

「掘り方を間違えたんだな」と考えて、YouTubeの関連動画からいろいろ聴いてみるのではなく、その当時好きになったバンドの「ルーツ」、つまり自分の好きなバンドが影響を受けたバンドを掘り出すことにしたのだ。改めて考えると自分からすでに解散してるバンドを掘りに行ってだからドМとしか思えない。

 そんなわけでついに彼らとの邂逅を果たすわけだ

 

 

 好きすぎて何を語ればいいか分からん。

 踊る文系男子である俺たちのすべて、ハヌマーンである。本当はハヌマーンに行きつく前にナンバーガールとの出会いがあったんだけど、ナンバガは再結成してしまったので説明を省く。僕がスリーピースバンド信者になった切っ掛けのバンドであり、テレキャスター大正義マンになった切っ掛けのバンドであり、これから聴くべき音楽の方向性をガッツリと定められた、つまるところ僕の嗜好の塊のようなバンドである。

 語るとこ語っているとそれだけで記事が量産できてしまうので良い感じに省くが、超の付く鋭角サウンド、タイトな演奏、鬼のような歌メロの良さと曲構成の秀逸さ、文学的かつ厭世的なセンス抜群の歌詞、パフォーマンスのカッコよさ。何もかも100点では足りない。最強のバンドである。この世にはハヌマーンハヌマーン以外の2種類のバンドしかいない。山田亮一のせいで僕は一時期馬鹿みたいに前髪を伸ばしていたし、山田亮一のせいで中島らもを読み始めた。

 バンドをたたえる言葉は世の中にいくらでもあるが、これほど「最強」が似合うバンドもない。オタクは弱いので最強とか神とか強い言葉を軽率に使いがちだが、これから「最強」という文言を使う際は、語尾に「ただしハヌマーンを除く」の一文を付けることを義務にすべきである。

 どれを聴けばいいって、出てる曲全部いいから全部マストヒア、マストリッスンマストバイ(五・七・五)だが、しいて言うなら、本当にしいて言うなら、僕の独断と偏見でRE:DISTORTIONをおすすめしたい。7曲(ボーナス含めて8?)一切捨て無し。これ1枚だけでご飯は5リットルは食える。記事三本は書ける(書かない)。邦楽ロック史に燦然と輝き続ける至高の1枚である。義務教育は国語算数理科社会英語、RE:DISTORTION

 これから先どんなバンドを知ろうともこのバンドを超える衝撃はおそらくほとんどないと思うし、同時にこのバンドほど解散した後に知ったことを悔やむバンドもないと思う。解散理由はまあ、調べればそれらしいのが出てくるから見ればいいよ

 ハヌマーン解散後の現在、3人はそれぞれ違うバンドに属しており、変わらずカッコイイ音楽を鳴らしている。ただ、もしも奇蹟があれば、再結成した彼らの演奏を生で観たいなあ、と思うのは我儘だろうか。

 

 そんなわけでハヌマーンにドはまりしてそればっか聞きながら、これは生涯付き合えるバンドを見つけてしまったな、これ以外にもう何もいらないな、やってしまったな……と思っていたら今度はこういうバンドを知ることになる。世界は広いが日本も想像以上に広い。

 

 

 なんで解散したんだ教えてくれ小山田

 ご存じandymoriである。これまたやべえスリーピースバンド。ハヌマーンandymoriの音源を全部揃えたら聴覚に関しては一生退屈しないのでとりあえず出てる音源全部買おう。ハヌマーンはプレミアついてめっちゃ高いけど。

 突き詰め突き抜けたシンプルさとその裏に擁する技巧、ポップでクリーンな曲調と小山田のとっつきやすく聴きやすい声。とにかく聴きやすく曲が良くノリがいい。小山田壮平もめちゃくちゃいいギターボーカルなんですよ。ほんっとにカッコイイ。さっきからカッコイイしか言ってない。鳴き声かな?

 素人耳にも分かるくらいドラムが暴れていて超かっこいい。特に初期の音源は顕著である。とにかく手数が多くてオソロシイ。andymoriのドラムに生まれ変わったら早死にしそう。

 TSUTAYAで当時4枚借りると1000円になるサービスをやってて、3枚までは決めたけど後一枚が決まらないって時に、NEVERまとめかなんかの「おすすめアーティスト」みたいな記事から見つけてCDを借りたのが出会いのきっかけだった。検索妨害サイトと名高いあいつもたまには役に立つ。その節はありがとう、もう要は無いから深層webに引っ越してどうぞ。

 解散した翌年に知るという悲劇な出会いだった。思い出しても泣きたくなる。解散当時は小山田がドラッグをやったり飛び降りたりといろいろやったらしいが、今からそれを詮索してもなんにもならないからここでは語らないでおく。

 これまた出てるアルバム全部いいけど、僕はやっぱり「ファンファーレと熱狂」が好き。これまた随分聞き込んだアルバムである。今andymoriの元メンバーは新しいバンドである「AL」を結成して不定期に活動している。これまためっちゃいいのでこっちもぜひ。最近音沙汰ないけど。

 余談だが今をきらめくシンガーソングライターあいみょんandymoriのファンだというのだからこの際あいみょんファンは全員聴くべき。僕はもともとあいみょんそんなに真面目に聴いてなかったけど、andymoriのファンってだけでいい人ってのが分かる。andymoriを好んで聴いているって公言するだけで人間的魅力がめっちゃ増すので就活とかにおすすめ。

 

 こうしてやべえバンドを二つも知ってしまった僕は、これとその当時から好きになったGRAPEVINEやらsyrup16gやら、ちょっと前世代のバンドをよく聴くようになる。改めて考えるとこの時期に出会ったバンドが今の僕を形成してると言っても過言ではない。これプラス米津玄師にヒトリエやらアルカラやらフレデリックやら、そしてユニゾンやらを聴いて盤石な布陣が完成しつつあった。みてこのラインナップ。センスのかたまりかな? 

 この鉄壁の布陣に切り込んでくるバンドなんてもういないだろう、ましてや前世代のバンドなんてもう聴きつくしたようなもの――――

 

 

 伏兵なんていくらでもいるのだ。何をどう思って聴きつくしたとか言ってんだ

 この記事では初めての女性ボーカルバンドの紹介となる。school food punishment。センスとお洒落の塊にバンドスタイルとエレクトロニカをぶち込んだ、いわゆるオタクのすきな奴である。僕? めっちゃ好き。今でいうとlicalとかvivid undressとかも、すき。

 聴けばわかるけどとにかく一曲の情報量が多い。ロックを漁る若人も、ボカロ畑の味の濃い音楽に慣れ親しんだ学生諸君もニッコリの音楽である。今は米津玄師やら須田景凪やらヨルシカやら、ボカロとともに青春を歩んだ人をそのまま邦楽沼に叩き落すエスカレーターががっつりと建設されているが、今も続いていればschool food punishmentはその道しるべ、とっかかり、ニコ厨を邦楽ロック沼に落とす装置になる音楽だったのではと思う。そういう意味では早すぎたバンドだったのかな。

 バンドだけどギターの主張が弱いのが特徴。代わりに主軸のメロディはピアノが担っている。ゆえにバンド特有の焦燥感、滾る感じはそこまで強くないが、その分洗練され、かっちりとハマっている印象がある。ピアノの主張が強かろうと細めの女性ボーカルだろうと芯の通ったバンドだというのが分かる。しっかりしてる

 とにかくベースが上手い。マジで上手い。派手なことをしてないのに素人でもヤバいのがわかるベース。イヤホンでもなんでもいいから一回聞いてほしい。山崎英明は本当にすごいベーシストである。

 この時期はあまりストリングスとかピアノとか好きではなく、バンドは愚直であるべきだと信じてやまない自分がいたので、今でいうミセスとか、セカオワとか、そういうギターベースドラム以外の楽器が入ったバンドをなんとなく軽んじていたのだが(GRAPEVINEは例外)、こういうバンドとの出会いがそれを氷解していったようなきがする、みたいな話をユニゾンの記事の時にもしてたな

 ハヌマーンandymoriほど聴きこんだバンドではないにせよ、これまた自分の思慮の浅さと世界の広さを痛感させられた革新的な音楽であることは間違いない。これまたマストバイ

 

 そしてこのころ出会ったバンドがもう一つ。KEYTALKから知ったことを古参ファンは怒るのだろうかと戦々恐々としているがここは正直に書こうと思う。これまたやべえバンドである。さっきからヤバいだのカッコいいだのそういうことしか言ってない。

 

 

 the cabs。説明不要、多くの狂信者を産んだ魔性のロックバンドである。

 この人たちがまだこの形態で音を鳴らしてたら、新しい音源を出していたら、ファンの規模を拡大していたら、今の邦楽シーンはどうなってたんだろうと考えると、背筋にひんやりとしたものが走る。そうなってほしかったような、そうならなくてよかったような。雑多なメインシーンで鳴り響くにはあまりに美しく、そして同じくらいおそろしい音楽である。

 KEYTALKに興味を持ったころ、KEYTALKwikipediaを見て知った。初めて聴いた曲はキェルツェの螺旋だったように思う。2分ちょっとのプレイタイムですべてをぶっ壊されたような気さえした。こんなバンドがそこまで遠くない過去にて実際に音を鳴らし、存在していたことが、にわかには信じがたかった。同時に支持を得ていたことも。

  どこでノればいいのかもいまいちわからない無茶苦茶なリズムとそれを成立させる各々のスキル、のなかで異質に響く首藤のハイトーンボイス。それらが精巧な歯車の様にかみ合っている。とにかく鳴る音と音の隙間に酔いしれる。音楽はなんでもかんでも詰め込みまくることが正義ではないと教わったバンドである。

 頭がいい奴が脳味噌のねじを自ら投げ捨てて狂気と並走しようとアイデアを捻り出しているような、不完全なまま脳から漏出した解析できない情報を言語と音楽という名のフィルターを通してギリギリ具象化しているかのような、ほんとうに「やりたいからやっている」ような音楽である。気持ちよさに型はなく、美しさに決まりはなく、狂気に理屈は無い。考えてみれば当たり前のことをこれでもかと痛感させられる。

 出している音源全てをとりあえず聞いてはいるが、未だにその全てを知った気になれない。たまに思い出したように彼らのアルバムを聴くたびに新しい発見と衝撃がある。初聴時の理不尽なまでのインパクトに紛れ込んでしまう、執拗にまで裏付けされた、脳髄に焼けつくような美学。聴けば聴くほど深みにはまってしまう音楽である。

 今は三人が三人とも別々の道を歩み、それぞれが活躍している。このバンドもいつか再結成とか、無いかなとか思ってしまう。100人中100人が「カッコいい」という音楽はこの世に溢れてるかもしれないけど、100人のうち2,3人が、これを聴くために今まで生きてきたのかと思えるほど、偏執なまでに美しい音楽は少ないと思うのだ。the cabsはこれからさきもずっとそんなバンドであり続ける気がする。これはすっごくどうでもいい話なんだけど、凛として時雨、the cabs、9㎜あたりで青春を過ごした人、マジで人格形成に深刻な影響を受けてそうで笑える。笑えない。残響系は怖い

 

 と言うわけで以上短大生編でした。濃い。濃すぎる。

 二年間でどんだけ濃い音楽体験と悲壮を味わっているんだと自分で書いてて眩暈がしてくる。だれともほぼ話さず関わらず一人でただひたすら知らない音楽と向き合って、目を覚ましている時間ほぼすべてを音楽を聴くことに費やしていたのだから無理もない。2年生に上がったらちょっとは友達が出来たので安心してほしい。

 この時期に有名どころは一通り聴いた気でいるし、ここでは紹介してない解散したバンドもそこそこあるけど、その中でも特に聴きこんだものを紹介している。何度もいうけどこの時期に聴いた音楽がマジで強い。ほんっとに強い。嗜好がここでガッチガチに固まった。今好きな音楽の大半は短大生のころに聴き始めた音楽である。

 お陰で人生楽しいです。聴覚に関しては。

 

 

【社会人編】

 

 ブラック企業に入って心を折られました。

 

 月間残業時間100時間超えなんて序の口、徹夜上等、残業代未払い常連、機能しない社内メンタルケア、過剰なまでのトップダウン体制に田舎特有の縦社会、クソ客先の異常なまでの短納期。すべてがクソオブクソ。社食もマズかった。あの会社の社長はなるべく苦しんで死んでほしい。当時の上司も割りばしが綺麗に割れなかったり座ってる椅子が予兆なく壊れたり仕事のミスが頻発したり奥さんが浮気したり子供が非行に走ったり事故ったり詐欺に遭ったりEDになったりして心身ともぼろっぼろに疲れ果てた末に贖罪として僕の口座に全財産振り込んで死んでほしい。

 ためにならないアドバイスを一つ。来年から地方の中小に努める学生諸君に一個教えときたい。タバコは吸っとけ。喫煙所をうまく使え。百害あっても一利がわりとデカい。人間関係がグッと楽になる(もちろんこれは皮肉です) あとヤバいと思ったらさっさと辞めろ。今時社員に強気な会社は流行らない。

 

 そんなだから救いを求めるために必然的に音楽への依存度が高くなるわけで。このころはSNSもやってなかったので(小説を書くサイトに入り浸ってはいた)、今みたいに誰かとネット上で音楽の話が出来る、なんてこともなく、ただひたすらに自分の趣味を煮詰めていた。だから短大の頃と比べて、新たに好きになったみたいなバンドは少ない。ハヌマーン「幸福のしっぽ」、UNISON SQUARE GARDEN「黄昏インザスパイ」、バズマザーズ「吃音症」「ナイトクライヌードルベンダー」あたりが無かったら僕はおそらく首を吊ってた。その説はどうもお世話になりました。でも君らを聴くと前の職場思い出して死にたくなるんだよな……

 だからぶっちゃけ社会人編はなあなあで流してもよかったかな、と思ったんだけど、どうしても紹介したいバンドがいるのでもう一組だけ紹介して終わることにする。ここで紹介するバンドの中で唯一、解散にリアルタイムで対面し、初めてその絶望を味わったバンドである。

 

 

 フィッシュライフ。知る人ぞ知る大阪発のスリーピースバンドである。

 知る人ぞ知るって言っても、あの超激戦区と(僕の中で)有名な閃光ライオット2013にてグランプリを獲得したスーパーバンドなのでまあほとんど義務教育。聴いてないなら今すぐ聴け、な

 フロントマンのハヤシングがハヌマーン好きを公言してるだけあってサウンドが素人耳にもハヌマーンのそれ。でも完全に同一ってわけではなく、その当時の流行りや独自性を盛り込んで自分たちのものにしている。そして俺たちの山田亮一に比べて歌詞が超青臭い。でもそこがいい。

 上で挙げたフライングレッドのイントロのカッティングとか嫌いな人類いないだろって思っちゃうくらい好きなんですよ。とにかくギターの無敵感が半端ない。空間切り裂き系。あと渋谷レプリカントのAメロの裏で鳴ってるやつとか。

 フライングレッドとか、彼らの代表曲であるニュースキャスターとかサイレントオベーションとかそういうめちゃくちゃアガる曲ももちろんいいのだが、バラードもちょっと肩の力が抜けたテイストの曲も変わらないクオリティでやってのける平衡感覚の高いバンドで、とにかく出す音源出す音源「うーん……」と思ってしまう曲がほとんどなく、これはなんかあればすぐに人気に火が付くに違いないと僕は確信していた。

 三人ともプレイヤーとして上手いのでめちゃめちゃバンドとしての完成度が高くて、音源もよくて、話聴くとこによればライブもめちゃよかったらしいのになかなか売れず、そのうち同期のWOMCADOLEとか緑黄色社会とかIvyとかがメキメキ頭角表してきて、気が付いたら1stフルアルバムのツアー終了後まもなく解散のお知らせが来て、大阪で最後のワンマンをやって解散してしまった。奇しくも、閃光グランプリ獲得者は売れないという謎のジンクスが的中してしまった形になる。

 彼らの最後のアルバムである「未来世紀エキスポ」が出た際のツアーに僕は参加するつもりだったんだけど、どうしても仕事の都合がつかずに見送ってしまい、結果的に僕は彼らを二度と生で観ることがなかった。ホームページに掲載された「フィッシュライフから皆様へ大切なお知らせ」を見た時の、あの「やってしまった」とでも言わんばかりの絶望を未だに覚えている。その当時は本当に凹んだ。「推しは推せるときに推せ」とか俺の前で二度と言わないでほしい。推せるときに推してる方が悲しいんだよ。

 そのツアーには超能力戦士ドリアンとかドラマストアとか、後々にドカッと名を馳せることになるバンドが一緒に参加していたりして、なんでフィッシュライフはそこに一緒に名を連ねなかったんだろうなって今でも思う。

 本当に後悔の念ばかり募るバンドだけど、残された音源は今でも変わらずめちゃくちゃいい。バンドがいなくなったって音楽は変わらずそこで鳴り続けるのだ。このブログを読んで聴いてくれる人が一人でもいればいいなと純粋に思う。

 

 

 そんなわけで今に至る。今でも僕はここで挙げた以外にもいろんなバンドに現を抜かし、音源を漁り、チケットの当落に一喜一憂し、各所にひとりでふらふらと赴いて爆音を浴びてほくほくして帰宅する。そんな毎日が続いている。

 でもまあバンドって生ものでありつつ一寸先は闇の音楽業界と言う魔境で呼吸している存在で、音楽としての耐用年数、要はリスナーがそれを長く聴けるって部分には強いけど、わりと時代遅れでニッチな産業のくせに競争率が高いせいで流行り廃りが激しいので、5年もすればシーンが綺麗に入れ替わる。5年前には武道館やってたのに今は地方の箱も満足に埋めれないバンドなんてザラにいる。

 僕が好きなバンドも1年後、5年後はどうなってるか分からない。音楽性の違いとかそういう理由で解散するかもしれないし、不慮の事故や病気とかで唐突過ぎる別れを迎えるかもしれないし、信じられない不祥事を起こして評価が駄々下がりになる可能性だってある。そもそも僕が新譜を聴くうちに幻滅したり好みが変わったりする可能性すらあって、今当たり前にCDを買ってるバンドのライブに5年後行きますかって言われたらそれは本当に分からない。何にでも終わりは来る。忘れがちだけど変わることない事実。

 

 まあそんなこと思っても今のバンドがかっけえからしょうがないんだよな。そんな栓のないことを考えたって明日もバンドはかっこいいし解散したって永劫カッコイイ。この記事に挙げた歩みを止めたバンドだって、それをリアルタイムで追ってた人は解散のことなんて欠片も考えずがむしゃらに追ってたのだろうし、バンドもそれにこたえてたのだろう。一体感なんて言葉は嫌いだけど、確かにそういう空気がバンドとリスナーの間で共有されて、そういうものの織り重ねで市場やら業界やらは出来ているんだと思う。

 そういう積み重ねで孕んだ熱はくすぶることなくそこに在り続け、僕みたいな何かを間違えてしまったようなやつがそれを掘り起こし、感動したり打ちひしがれたり絶望したりする。そういう繰り返しで各々のルーツや嗜好は成り立ち、構成されているのだろう。これもまた立派な音楽の歴史である。

 あくまで他人、一般人である僕らは、自分たちがお金を貢ぐ対象であるコンテンツがなるべく長く、のびのびと活動と発展を続けられるように支援をすることだけ。自身でそれに対する愛を伝えることが少しでもその助けになるならば、これからも出来る限り、どんな形でも好きだーって気持ちを伝えられたらなって思う。

 

 長くなったがここまで。願わくば僕の好きなバンド・アーティスト全員が、一生お金に困らず、健やかにのびのびと好きなものに打ち込めますように。

 

 

世界の解像度が上がる音楽-THE PINBALLSの書く歌詞の魅力

 

  耳を澄ますときに目を閉じるように、物をよく見るときに片目を閉じるように、人は何かを求めるときにそれ以外の情報を無駄なものとして、出来る限り排斥する性質があるように思う。

 
 子供の頃は廻る世界に対して、自分にとって無駄な情報なんて一切なく全てが新鮮であるが故に、何にでも興味を示し知ろうとする。あれは何、これは何、どういう意味。そういう子供時代を越して世界の仕組みが少し分かった気がして、シニカルに振る舞うことがかっこいいと思ったりして、この世界はクソだなんて言ったりして、そのうち日常の全てを知り尽くしたような気になって、毎日行き来する通学路、あるいは通勤ルートを往復し続ける毎日の中、必要なもの以外の情報をどんどん、どんどん排他していく。視野が狭くなる。知り得る情報が既存のものの焼き増しであることが多くなる。新しい知識を仕入れることに対する体力消費を煩わしく感じるようになり、知り得たものだけを周りに置いて井の中に、枠の中に引きこもる。1日24時間が加速する。途方もなかったはずの人生の果てが、体力の衰えとともに現実味を帯びていく。そうやっていつの間にか年老いていく。

 無意識に必要な情報以外を切り捨てて生きていくことによる、視野の狭窄。毎日の単純化。退屈な日常は無意識の自分が引き起こしていることに気づくのはとても難しく、気付いたとしても行動を起こす体力がない。今晩の食事を考えることで精一杯のアタマのキャパシティを、そんな不確定なものに割く余裕がない。余力もない。それでもしびれるような非現実を、退屈を吹き飛ばすファンタジーをもとめている自分がいる。

 壮大なスケールの空想や、緻密にデザインされた箱庭のような世界観を創り出すクリエイターたちは、観るものを圧倒するファンタジーを考え構築することと同じくらいに、現実世界にひっそりと、欠片のように散らばる小さな、小さな幸せの気付きを拾い集めることに長けていると思っている。今の季節で言うならまだ陽の昇りきらない明け方の空、白い吐息、寒風に揺れるマフラー、凍てつくフロントガラスから覗くもやついた世界すらも、彼らにとってはささやかな幸福を見つけるための手立てとなっているような、そんな気がする。この世に不必要な事柄なんて一つもないと、心から信じているような。まるで、僕とは違うレイヤーで、もっと光り輝く世界を見ているかのような。

 
 この記事でこれから紹介するバンド、THE PINBALLSも、そんな世界の見方をしているミュージシャンだと僕は考えている。

 

 

 THE PINBALLS。埼玉県発の四人組バンドである。何々をルーツにしたガレージロックで云々、vo.古川貴之の紡ぐ歌詞から見られる幻想的な世界観が云々、みたいなことをつらつら書いても退屈だし彼らの魅力を1ミリたりとも表現できないと思うのでとりあえず一曲聴いて欲しい。


 

 6年前から知りたかった? 同感です


 彼らの代表曲でありライブでも(少なくとも僕が行ったライブでは)ほとんど毎回演奏される定番曲、「片目のウィリー」である。

 聴けばわかるが百点満点のカッコ良さ。あまりに良すぎて何を語ればいいか分からない。普通の楽器を持って、普通に演奏して普通に歌ってるだけのはずなのに、このカッコ良さ、この哀愁、立ち姿のスマートさ。黒シャツが似合うバンドはいいバンド。どこからどう切っても破茶滅茶にカッコいい。音楽業界のえらい人たち全員「結局ロックンロールはこういうのでいいんだよ」とか言いながら彼らをもっとプッシュしてほしい。

 僕自身が音楽的知識に乏しいので彼らが具体的にどう凄いのか、他のバンドとどう違うのかを上手く語れないのがもどかしいところだけど、個人的にはGt.中屋の弾く癖の強い独特なギターフレーズと、古川貴之の声にあると思う。

 他の方のブログで「輪郭のないギター」と表現されていたのを拝見したが、実に的を射ていると感じる。カッティングを多用した、どこかつかみどころのない、責め立てるようなギター。ライブを見るたびに思うが本当に手の動きが意味不明。脳みそが何個かあるとしか思えない。ここまで動くギターなのに悪目立ちせず、ちゃんとボーカルを引き立たせているのもよくわからない。主張が強すぎたが故に瓦解、なんてこともなく楽曲をまとめ上げている。変幻自在という言葉は中屋のギターを評するために産まれたと聞いてる

 そしてそんなギターをバックに歌う古川貴之の声もまた素晴らしい。真の意味での「良い声」だと思う。THE PINBALLSが好きな人の殆どはこの古川の声がとっかかりで聴き始めたのではないだろうか。いや僕がそうなだけなんだけども。

 いろんな世代、いろんな嗜好の人が音楽の世界にはいるけど、その誰もに「届く」声をしているように思う。とっつきにくい悪い癖が無い、程よくハスキーな、しかししっかりロックで色気のある声。THE PINBALLSの曲をTHE PINBALLS足らしめている最大の要因が、この古川のボーカルだと思う。本当にポリープを乗り越えて帰ってきてくれてよかった。

 他にもBa.森下の主張の強いベースとコーラスとライブでの立ち位置とか、個性あふれる面々を陰で支えるDr.石原の骨のあるドラムとか、語りたいことはいっぱいあるんだけど、今回はブログタイトルの通り、このバンドの歌詞に着目した記事を書くことに決めているのだ。ここまでで2300文字。5分以上ある曲がカラオケで敬遠されるように、話の長い男も嫌われる。THE PINBALLSのように切れ味よく生きようぜ2020年(なおこの記事を書き始めたのは去年の11月下旬である)(本当は去年の内に出す予定だった)

 というわけでここからが本題である。THE PINBALLSの書く歌詞についての話をしよう。

 

 

 その歌詞の魅力について

 

 

 

 良い歌詞にもそれぞれいろいろある。

 例えば前回の記事でアホほど書いたユニゾンの、ひいては田淵の書く歌詞が僕は相当に好きなのだが、彼の歌詞は「良い歌詞」の中でも「痛快」な部類に入るものだと考えている。語りにくいことを回りくどく、決してストレートには伝えず、しかし分かる人には意外とわかるように。その塩梅と使う単語の選び方や彼特有の独特な言い回しがメロディのキャッチ―さと相まって、ガツンと心に来る。あの感覚が好きだ。

 他に好きな作詞家でいくと、元ハヌマーン、現バズマザーズ山田亮一やGRAPEVINE田中和将syrup16g五十嵐隆等がいる。最近ではヨルシカとかで活動してるn-bunaも好き。「好きな作詞家」で言うならダントツに一番好きなのは山田亮一でこれは多分生涯変わらないと思う。山田亮一についてもこのブログでいつかガッツリ書くと思うから今回は割愛する。

 上に書いた作詞家たちはそれぞれ個性がばらばらで一概にこういう傾向がある、とはなかなか言えないが、しいて共通点を上げるとするなら「なすがまま」を肯定していることかなと。運命なんてくそくらえ、と坂道に逆らうような真似はせず、まあ人生大体そんなもんだと、ころころ下り坂を転がってることを否定しないような歌詞を書く気がする。地に足に付いた現実は厳しいものである、というのを「当たり前」として、その上で自分の思想や感情をそれぞれの言葉で紡いでいるような。平たく言うのであれば逃げずに現実を書いている人たちだと思う。

  じゃあTHE PINBALLS、ひいてはそのフロントマンで作詞をやっている古川貴之(以下便宜上古川とする)は一体どんな歌詞を書いてるかと言うと、

 

暗い森の向こう 這い回って

かぎ回って 足跡は ぞろ ぞろ ぞろ

振り乱して 踏み均して 暗闇に紛れ込んでいよう 

THE PINBALLS――冬のハンター

 

 

 真逆。

 逃げずに空想を描いているのがTHE PINBALLSである。

 

 

 猫の目のような

 

 猫の目の話をしようと思う。

 話が長いうえによくわからない横道にまで逸れるとは何事だとお怒りの気持ちは至極当然だが、彼の書く詩について上手い例えが出てこないまま2019年を終えて、ようやくそれっぽいものを考え付いたのだから少しばかり付き合ってほしい。

 暗所にて、猫の目が光るのはなぜか。

 最近読んだ本で知ったのだが、猫の目には輝板(もしくはタペタム)と呼ばれる構造があるそうな。この輝板は網膜の後ろについており、視神経を刺激しながら入ってきた光を反射して網膜に返すことによって光の明るさを2倍にすることが出来る。この輝板を使って猫は人間にはわからない微かな光を集めて目を光らせ、暗いところでも不自由なく活動しているらしい。

 実はこれ、別のことを調べていた際に偶然知ったことなのだが、この猫の輝板の話を知った時に思い浮かんだのが、THE PINBALLS古川のことだった。なんか嘘っぽいけどほんとだよ

 何が言いたいかと言うと、彼は例の輝板のような、僕らには感じ取れない微かな光を発する「カッコいい」を集められるようなものを持っているのでは? と思うのだ。それほどまでに、素敵なものを見つける力に長けているように思う。視点とか、気付きとか、そういうのも重要だろうが、何より感性が図抜けて素晴らしい。

 例えばこの『Lightning strikes』

 

 

 

 メジャー1stシングルからせめせめのアッパーチューン。こういう曲が、ひいてはこういう曲をやるバンドが正当に評価される世の中になってほしいとはTHE PINBALLSリスナーの常套句である。YouTubeのコメント欄でそればっかり言ってる。

 この曲は古川自身の「音楽を聴いているときの滾る気持ち」を表現したものらしいが、もう一つ大きなテーマがある。以下、発売当初のインタビューから引用する。

 

 今回、曲を書きながらTHE PINBALLSが一番初めにライヴをした時のMCを思い出していたんです。「Lightning strikes」では、それを書きたかったんですよ。雷に7回打たれながら死ななかったロイ・サリバンという男性がいたんですけど、僕が生まれる1年前に振られたことが悲しすぎて自殺しちゃったんです。その話が大好きで。恋するってそんなにすごいことなんだ、雷に打たれて7回生き伸びるよりも失恋するほうが致命的なんだって。

―――2018年4月21日 OKMUSiCインタビューにて

 

 

 僕がこの話を聞いたところで、この雷に七回打たれた男性への想いなんてせいぜい「めちゃ運がいい」か「よくわからないけどすごい」くらいしかないと思う。小学生か? 

 そんな廃れた僕の感性をよそに、古川はこれにいたく感動し、初めてのライブのMCにこの話を盛り込んで、あまつさえメジャーで出す初めてのシングルにこの要素を盛り込んでいる。この話を「大好き」と言えるのは、その上で「感動・わくわく」の象徴として作品にまで昇華できるのは、良い意味で変だなって思う。

「カッコいい」「美しい」といった事柄に敏感で、自分の中に確たる美学があって、それをきちんと表現できるセンスがあるうえで、目立たずも世界に溢れているそれをきちんと見つけることが出来る目、及び感受性を持っている。そんな彼の目とバンドによって増幅された「カッコいい」や「美しい」を観ているような、分けてもらっているかのような。古川の書いた詞を読んだり、音楽と共に聴いたりすると、そんな気分になる。

 確固たる「カッコいい」を持つからこその感情移入であり、没入感をもたらしてくれる、唯一無二の歌詞。だけど古川の書く歌詞の魅力はこれだけでは終わらない。彼の書く歌詞の真髄は、それを現実と言うフィールドではなく、空想に昇華しているところだと思う。

 例として一曲挙げると、メジャーデビューミニアルバム『NUMBER SEVEN』から一曲『蝙蝠と聖レオンハルト

 

 

 

蝙蝠の眠る屋根の下
レオンハルトの絵が揺れだした
ゆらゆら彼は踊りながら
地獄にも眠る場所があると
地獄にも唄う唄があると
ゆらゆら彼は笑い出した

 THE PINBALLS――蝙蝠と聖レオンハルト

 

 楽曲全体から広がるダークな世界観、おどろおどろしい雰囲気、そして何より描写は細かいのに捉えどころの難しい独特な歌詞。ライブ定番曲であるこの曲の、一見しただけでは状況の理解すらも難しいこの異様な歌詞こそ、THE PINBALLSらしさの極致と言える。それはそうとして超かっこいいから1日10回は聴こうね。

 細かくは語るが多くは語られない世界観。自身の生み出す広く深い空想を、あえて一部分だけ切り取って見せたような、断片的な歌詞。どことなく仄暗い雰囲気も相まって、長い年月が経って色褪せ、ページも切れ切れになり文字も掠れてしまった古い書籍をどきどきしながら読んでいるかのような、そんな感覚を抱いてしまう。

「分からない」「語られない」といった空白や謎を大事にし、聴いたものを思考に浸らせる、引き込ませる歌詞。ダークな雰囲気のみならず、時には叙情的に、時には文学的に、多様なメロディを彩る様はまさに千変万化の言葉が似合う。「空想」であるが故の自由度を最大限に利用した、聴きごたえ、考えがい満載の歌詞である。

 

  歌詞における空想を貫くことの難しさは多々あると思うが、その一つに「共感が得られにくい」ことが挙げられる。年代別に考えても日本の音楽シーンにおいて、歌詞と言うのはどうも「共感性」を重視される傾向にある気がする。美しい、カッコいい、よりも「分かる」「自身を代弁してくれる」詞。いつの時代も恋愛詞を書く女性シンガーソングライターが一定の支持を集めているのは、彼女らが書く詞が恋愛に傾倒する若年層にウケるからというのはまず間違いなくあるだろうし、巷の音楽シーンに名を連ねるバンドやシンガーも「共感できる歌詞」というのを売り文句にしているのは珍しくない。

 別にそれが良い悪いという話ではない。胸がキュンとする恋愛詞も、人生辛いけど頑張ろうぜみたいな歌詞も、世界に呪詛を撒くような陰鬱な歌詞も、ターゲット層が違うだけで総じて全部「共感を呼ぶ歌詞」だと思う。自分の確たる世界観を持って、それを自分の言葉で表現してメロディに乗せるアーティストでも、根っこを辿れば何かしらの感情に関する共感に行きつくなんてわりとよくある話だ。このジャンルの優劣はもう各人の好みと、その共感をあおる題材を「どう書くか」による。

 空想の世界の歌詞を書くことは、そういう共感に安易に逃げることが出来ないがゆえに、「意味が分からない」というレッテルを貼られがちな傾向にある。時には本当にメロディに合わせててきとうに言葉を羅列しました、みたいな歌詞もあるからなおさらだ。

 THE PINBALLSは「わかりみ」で大抵の日常会話を成り立たせる人に響くような歌詞を書いていない。出典も分からないような単語をひょいひょい持ってくることなんて日常茶飯事だし、そもそも人間を書いているのかどうかも不明瞭なこともある。「共感性」なんて一番程遠い言葉なのではないか、と思うほどに独自を行くワードセンス。言ってしまえば頑固とも取れるほどに徹底したそれも、自身の美学を大事にしているが故のものだ。以下過去のインタビューから、印象的だった部分を引用する。

 

 僕、例えば歌詞に「少年ジャンプ」というフレーズが出てくる曲がすごく嫌いなんです。わかるんですよ、子供の頃からジャンプを読んで育ってきてるし。だけど僕は絶対にイヤ。ヒリヒリした現実感があってカッコいいと思うけど、絶対にやりたくないんです。僕はそういった現実感を忘れさせるために嘘をつきたいというか……本当はゲスな人間だろうが、音楽の中だけでも夢とか希望とかファンタジーとか、そういった世界を精一杯提供したいんです。不良やチンピラが車に乗って迫ってくるんじゃなくて、モンスターが空から飛んできてほしい。そういう歌詞にすごく惹かれるし、僕自身もそんな歌詞を提供していきたいんです。

――――2014年9月16日 音楽ナタリーインタビューにて

 

 

  僕は彼らの作り出す音に惚れている部分も大きいので、例え彼らが「少年ジャンプ」という単語を用いてたとしてもハマっていたとは思うけど、ここまで彼の歌詞の世界観にのめり込むようなこともなかったと思う。自分を貫くって簡単にみんないうけどマジで難しいぜ。僕はこの世で一番と言っていいくらい苦手。ぶれぶれに生きてるからなあ。

 

 空想は現実と乖離した概念でありながらも、現実の延長線上に存在するものであると考えている。現実ではありえないことは現実を知らないと想像できないし、空想として頭の中に生み出される事象や生物もあくまで現実に存在する何かを基盤にしている。空想とは現実に存在しないが故であり、全ての空想は確固たる現実を礎に成り立っている。万人に夢を見せるファンタジーを作り出すためには、より一層現実を知ることが不可欠であると、僕は考えている。

 猫の目の話で述べた「僕らには感じ取れない微かな光を発する「カッコいい」を集められるようなもの」とはこれに通じる話だ。

 現実にちらばるそれらを見つけ、受け止め、思考し、見定め、何らかの感情と共に取り込み、自身の世界に昇華する。ファンタジーを描くために自分が今二本足で立っている世界をきちんと見据え、自身の視点や価値観を大切にしながらも、異なる解釈や未知を尊重し、引き受ける度量を持ち、考えることを止めない。その繰り返しだけが、書かれる世界に鮮やかさを増させるのだと思う。真っ暗にしか見えない世界も、彼に取って見れば小さくも確たる光に溢れており、僕はそんな彼の詞によってその光を認識できる。

 そうして感じ取れた光を辿りながら彼の詞について自身も思考を繰り返す中で、ある日ふと、日常の中で見えるものが増えているような、そんな気持ちになったことがある。ああ、彼の見ている世界はもしかしてこんな感じなのかな、といった淡い妄想に浸った瞬間が、たしかにあった。

 シンクロニシティ、という言葉がある。ユングという昔のスイスの心理学者(よく知らん)が提唱した、「意味ある偶然の一致」を指す概念である。要はおおよそ日常では使わない単語をよく聞いたり、ふと欲しいと思ったものが半額になってたりプレゼントされたり、思っていたことが目の前で起こったりと言った、そういうなんか偶然とは思えない偶然みたいなやつ。結構解釈の幅が広い概念ではあるが、この例として「最近知った言葉やモノを日常でたびたび見かけるようになる」というものがある。

 これに関しては、本当にその言葉を知ったその日から世界にそのものがあふれるようになった、という偶然は無いこともないだろうが、今まで「そこにあった」けど自分がただ気が付かなかっただけ、という方が解釈としてはしっくりくると思う。

 

 

 

here come the wiz
世界は架空の鼓動に湧くだろう
偉大なる幻想が目を開くだろう
苦悩を極彩のドレスに変える魔法
here come the wiz

THE PINBALLS――WIZARD

 

 世界は光に満ちている。思ってるより優しく出来ている。気が付かないだけで。幾度となくこの記事で繰り返したことだけど、この記事で語りたいのはここである。THE PINBALLSの歌詞の持つ魅力とはとどのつまり、今まで気が付かなかった世界の放つ光に気付けるようになることだと、自身の目から見る世界の解像度が上がることだと考えている。彼らの信じるカッコよさは気高く、荒々しくも、優しい。

 

 

 最後に

 

「THE PINBALLSの曲の中で一番好きな曲は何? 」というめちゃくちゃに難しい質問にあえて僕が答えるとするなら、悩んだ末『ワンダーソング』を選ぶ。THE PINBALLSはミニアルバム・フルアルバムのラストの曲には外すことなく必殺の一曲を持ってくるとはファンの間では有名な話であるが(例:沈んだ塔、あなたが眠る惑星、ニューイングランドの王たちなど)その中でも僕はこの曲を推したい。メジャーデビューミニアルバム『NUMBER SEVEN』を締めくくる一曲である。

 上で紹介した『蝙蝠と聖レオンハルト』から本格的なファンとなったが故に『NUMBER SEVEN』というミニアルバムが、思い出補正を含めて現在彼らの出したアルバムの中で一番好きな作品である。そんな作品のラストのこの曲は、THE PINBALLSには珍しく、等身大の「自分」を描いた曲だと解釈している。

 THE PINBALLSの歌詞において「僕」や「君」と言った人称は、必ずしも人間に対して使われるものではない。時には人以外に当てはめたほうが解釈としてしっくりくる場合すらある。そして例え人間だとしても、その多くは僕らには思い至らない架空の世界に立つ人であったりする。二人称を放っている存在が、人間だとかそういうものを飛び越えた概念であることだってある。例えばこの曲。

 

 

 

回り回る この引力が
回り回る この引力が 叫びだす
永遠よりも この瞬間を今
おまえは生きるがいい adam's rib

THE PINBALLS――アダムの肋骨

 

 メジャー1stアルバム『時の肋骨』から『アダムの肋骨』

 この曲の「おまえ」と語る存在は、人間と言うよりは「神」と解釈した方が筋が通る。神の作った箱庭にて、神が箱庭に立つ誰かに語り掛けている。他に歌詞に「おまえ」が出てくる曲と言えば『毒蛇のロックンロール』もそうだが、高次元の存在を想像させるような、そういう人称の使い方をしている。

 歌詞にどことなく文学的というか、抽象的というか、そういう彼ららしい「つかみどころのなさ」を生み出している要因がこの人称の使い方だと思うのだが、そう考えるとワンダーソングは分かりやすく「僕」の、ひいては「自分」の歌だな、と感じる。比喩に用いる言葉のセンスはまあ例に漏れずすごいセンスだけども。

 

もしももう一度
夜を駆け抜けられるなら風のように
もしももう一度
唄を唄うなら夕暮れに舞う町のように
うまくはやれなかったけど
虚しく砕け散ってきた日々を
風のように 町のように ずっと

THE PINBALLS――ワンダーソング

 

「歌う」ということへの夢と希望を、ありったけに詰め込んだ曲だと思う。そう思わせる要因は、幾分ストレートに書かれた歌詞もそうだが、個人的にはこないだ出たシングル『WIZARD』の、初回盤特典についてきた新宿LOFTでのライブCDにて聴ける、この曲に入る前のMCである。ポリープによる活動休止から無事回復して、歌えることの大切さに改めて気付けた古川の語りが、そう思わせているのかなと思う。

 沢山素敵なことを知ってて、それを見つけることにも長けていて、自分なんかよりずっといろいろなことが見えている彼のライブでのMCはわりとぎこちなく、たどたどしく感じる。単に喋るのが苦手と言うよりは、伝えたいことがたくさんありすぎて、頭の中に浮かんだものをちゃんと言葉に変換しないまま話しているかのような、そんな印象を受ける。緻密で鮮やかな世界を作る彼の、人間らしい不器用さ。『ワンダーソング』はそれを曲で垣間見ることが出来て、とても愛おしい。

 

 彼らの知名度が相応か不相応かなんてのは世間が決めることであって、僕や他のファンが決めることではないというのは百も承知で言うが、こんなに良い歌詞といい音楽を鳴らすバンドがいるのだ、ということを、もう少しいろんな人に知ってもらえたらな、と思う。もしこのブログを読んで興味を持ってもらえたらぜひ音源を聴いて、彼らがあなたの住む町の近くに来た際には、ぜひライブに行ってほしい。きっとこのブログで感じたことなんてぶっ飛ぶような衝撃を受けると思う。本当に良いバンドです。

 2020年が彼らにとって飛躍の一年になりますように。