愛の座敷牢

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licalの話

君の伝説に敵わなくても

奴が恋した彼女になれなくても 

ただ誰にも口出しされたくなかった

 

lical――跋文

 

 先月14日、大好きなバンドが無期限活動休止を発表した。

 

 ファミレスでTwitterをぼんやりと眺めながらパスタを待っていた僕は、そのバンドの新譜の発表ツイートを呑気にコーラなんか飲みながらリツイートしていた。配信ライブ告知と新譜の発表、これだけでよかったのに無期限の活動休止の発表も一緒にくっつけてきた。情報を出す順番が悪質すぎる。マジでいらねえと思った。コーラの甘さもパスタのしょっぱさも全部消えた。舌の上には虚無感しかなかった。

 公開された活動休止の理由は方向性の違いの亜種みたいなやつ。もうぶっちゃけて言うならありがちなものだった。人間関係とか金銭の問題とか、将来の展望とか不安とかいろいろあっただろうが、極めて抽象的かつ曖昧な言葉で包み隠された休止理由は正直煽りに近い気休めでしかなく、ただもう僕の好きなバンドがこれから先、余程のことがない限り新たな音源を作ることも、ライブで全国を回ることもしなくなるという、純然たる事実が横たわっているだけだった。

 

 社会に守られることのないバンドというのは極めて脆い生き物である。 

 極論言えば生きることにさして必要のない概念である「音楽」に希望を見出して、同じ志を持った人間と共にただひたすらに先の見えない闇の如き未来を見据えるこの生き物は、音楽に悩み、金に苦しみ、内外の人間関係にのたうち回り、同業に辛酸を舐め、新たな才能に絶望する。どれだけそれに苦悩しようとも世間は享楽に溺れるだけとしか認識せず、才能と根性と運のないものから次第にそぎ落とされていく。1リスナーたる僕がどれだけそのバンドを愛そうと関係ない。無常に過ぎる時間と繰り返される変わり映えのない生活の波は容赦なく全てを蝕み、やがて呑み込んでいく。

 今メインストリートにて音を鳴らすバンドは一つ残らず、おびただしい数のバンドの死骸の上にアンプを置いて、死臭の立ち込めるステージで音を鳴らしている。これまでも、そしてこれからもきっとそうだ。僕が一度でも作った音源を聴けるバンドなんて、砂漠の中の砂粒一つにすらならない。僕が知り得ずに息を引き取っていく、僕が好きになれる音を鳴らすバンドもたくさんいるのだろうが、その全てに気付けるほど僕は視野が広くないし、気付けてもお金をかけて追いかけられるほど財に自信があるわけではない。静かに死んでいくバンドを横目に見ながら、何もできない自分をあまりに情けなく、歯がゆく思ったことなんていくらでもある。こうやって嘆いている今回もそうだ。僕はきっと何もできない。

 

 だから何もできないなりに、何も出来ない僕と、そんな僕が大好きなバンドに向けて、拙いながらも文章を送ろうと思う。ただの1ファンだった僕が何もできなくとも、バンドの心臓が止まってしまっても、バンドの残した曲はこれからもずっと、色褪せることなく残り続けると信じて。

 

 

 licalというバンドについて語ろうと思う。

 

 

 衝撃的な音楽体験はトラウマに似ている。それはまさに、呼吸の仕方も忘れるような夜だった。

 

 福岡県小倉市に小倉FUSEという小さなライブハウスがある。泣く子も黙る仁義なき北九州の中心地である小倉駅近くに位置するこのライブハウスは、一本道路を跨いだら風俗街、跨がずとも近くにストリップ劇場がある、世紀末のような環境にひっそりと佇んでいる。趣と捉えるか地味と捉えるかはその人次第だが、この日初めて訪れた僕は見つけるのに割と手間取った。地下にある喫茶店のような外観をしており、本当に目立たないのだ。中まで入ると普通のライブハウスなんだけど。

 おおよそ2年前の2018年8月、愛してやまない平成の阿久悠こと山田亮一率いるバズマザーズのライブを観にここへ訪れた僕は、まったくマークしてなかった対バン相手の名も知らぬバンドにぶっ飛ばされることになる。

 

 

 山田亮一に会える。その一心だけで北九州という修羅の国にはるばる上陸した僕は、他の出演バンドについて全く予習をしていなかった。予習をしてなかったが故に、始まって数分で心を奪われた。ソリッドな轟音に全てを呑まれた。まぎれもなくヤバいバンドがいた。

 対バンにおける相手のバンドの予習とはワクチンのようなものである。摂取しなくとも罹らないかもしれないが、罹ったら、地獄を見る。バンドの放つ音楽というものははるか昔、恐竜がいたころから往々にしてそういうパワーを有している。面倒くさいの一言で予習を怠ると即死するのだ。まさしくそうだ。僕はlicalの鳴らす音楽に吹き飛ばされた。

 複雑に絡み合うツインギター、うねり踊るベース、キレッキレのドラム、儚くも芯のある女性ボーカル、そして何より冗談のように息の合ったタイトでテクニカルな演奏と、そのヒリつくような鋭角のサウンド。何から何まで全て衝撃的だった。衝撃的過ぎて、彼女らのライブが終わった後の、次のバンドへの転換中もずっと呆然としていた。

 本命であったバズマザーズのライブも遜色なく最高だったのだけど、licalの方が圧倒的にノーマークだった分、執拗なまでに脳裏に焼き付いていた。その日は新幹線の時間の関係で物販に顔を出せなかったのだけど、今になってそれを死ぬほど後悔している。神の悪戯で北九州から二度と出れなくなったとしても、物販でその日の感想を伝えるべきだった。結局僕はこの日の約30分間だけしか、licalのライブを観ることが出来なかった。それ以降はどうしても予定が合わず、後々に行われたlical主催の全国ツアーも、同じ小倉市まで来てくれたのに結局行けなかったのだ。

 衝撃と、歓喜と、未練が綯い交ぜになった、今でも忘れられない、忘れることが出来ない一夜になった。自身を切り裂かんばかりに鋭利な、薄くしなやかな刃のような音楽に刺されたまま帰路につく僕は、新幹線の中でひたすらにlicalのことを調べていた。僕がlicalと出会った夜はそんな感じだった。

 

 

 licalはその音楽性だけでなく、ビジュアル面からアートワーク、詩の世界観まで、使えるものは全部使って客を引きこめる魅力と、欺き通せる胆力のあるバンドだった。

 客を欺く。言い方は極めて悪いが、要はリスナーをバンドに没頭させる力のことである。

 ライブハウスに来る人間、もとい人よりも選んで音楽を聴いている人間は、大なり小なり非日常を求めてチケットを片手に自身の夜をささげている。日常ではおおよそ味わえない、狂った快楽じみた体験の渇望を好きな音楽に委ねて、日夜音楽を探し、ライブハウスに通っている。その根源となるのは単なる好奇心かもしれないし、日常に対する不満や退屈かもしれない。その思惑は人の数あれど、結局はどこまでも未知の快を求めている。圧倒的に壮大で、緻密で、重厚なフィクションを求めている。

 自身が心酔するアーティストが鳴らす生の音楽を至近距離で聴くことは、心に傷を残すほどに強烈で替えの利かない体験であると同時に、須らく非日常である。非日常であるからこそ、アーティストは観客を欺きとおす覚悟と胆力が不可欠となってくる。licalはそれが極めて優れていた。その音楽で奪った心や視線を落胆させることなく、バンドの出せるもの全てを使って欺き、繋ぎとめることが出来る稀有なバンドだった。

 

 

 儚げなボーカルをきちんと立たせながらも、リズム隊含めて卓越した演奏技術。その中でもひときわ目立つ、硬質で突き刺すような、責め立てるようなトリッキーなギター。そして特筆すべきは冗談みたいなキメの多さ。どれだけ息が合ってたら出来るんだ、と音源を聴くたびに思う。

 そしてこれだけ複雑なことをしながらもきちんと歌メロはキャッチ―に出来ており、耳馴染みがとてもいい。変拍子も転調もバリバリで、複雑なフレーズもこれでもかと盛り込んでいるのに、歌メロが良いから歌としてちゃんと聴けてしまう。こういう演奏バカテクバンドにありがちなとっつきにくさが殆どない。このバランス感覚。凹むから年下だと思いたくない。芸術点が高すぎる。

 この申し分なくテクニカルでありながらもきちんと歌として聴ける、という音楽性で射止めたファンをそのまま魅了してやまないのが、ビジュアル面やアートワークなどのバンドの外殻である。これらをバンドと切り離して考えることなく、バンドのイメージを損なわないようにきちんと構築しているからこそ、僕らリスナーは非日常から醒めてしまう心配もせず、安心してlicalの音楽にのめり込むことが出来る。好き勝手やっているように見えて、というか音楽性であったりといったそういう大事な芯の部分はきちんと持ち得ながらも、第三者からどう見られているかを考えるのが非常に巧みな印象がある。客観性に長けているのだ。

 歌詞にしてもそうだ。ボーカルで作詞を担っている璃菜氏はわりと偏った語彙を持っているらしく、どこから知ったのか分からない英単語や熟語を歌詞や曲のタイトルに用いることが多い。どの歌詞もどことなく退廃的で陰鬱な雰囲気を纏っており、文の構成はきちんとしているのに、前述の語彙も相まって一読程度では輪郭を成してくれない。おそらく恋愛詞が多いのだと思うが、さすが詩人を自称するだけあって一筋縄ではいかない詞を書いている。

 

狂悖を恕するミルクポット 嘘と秘密で高まる感度

転んだ傷にキスをして どんな痛みも平気になるから

 

lical――デルタ/劇薬

 

 「狂悖」なんて熟語を使う人、この人以外には中島敦くらいしか知らない。

 バンドの持つミステリアスさを増強させているのが、この独特な「詞」である。荒廃としていて陰鬱なのにどこか艶めかしい歌詞はどうにも癖が強く、好む人を選ぶと思うが、バンドの音楽性とはばっちりとかみ合っている。ハマる人がきちんとハマれる強度のある歌詞である。

 歌詞と同じく、ビジュアル面やCDの歌詞カードやアートワーク、MVの構成などに関してもきちんと自分たちなりの見せ方、こだわりを持っており、どれもバンドの雰囲気を損なわないように丁寧に構成されている。ステージングやライブパフォーマンスも何というか強烈で、華奢なボーカルが逆に映えて異様に思えるほど、音圧と立ち振る舞いからくる「どぎつさ」のようなものが物凄かった記憶がある。

 総じて狂っていながらも根は丁寧で、自分たちの持っているセンスや技量をその音楽だけではなく、バンドを取り巻くもの全てに捧ぐ事の出来る、そんな魅力を持ったバンドだった。これからもっと、大きなステージで彼女らの音楽が鳴り響く姿をみたかった。そう自分が心から悔やんでしまうくらいには、本当にかけがえのないバンドだった。

 

 

 僕はハヌマーンというもう解散してしまったバンドが今でもものすごく好きなのだが、僕はハヌマーンと出会っていなかったら、ここまで邦楽ロックに固執することはなかったのかもしれないと思っている。

 山田亮一の掻き鳴らす、世の雑多な喧騒を切り裂くようなテレキャスターに胸穿たれた数年前のあの瞬間のような、あの世界をちゃぶ台ごとひっくり返すような衝撃と、脳髄に焦げ付くような聴覚由来の快楽が忘れられず、彼らで知ってしまった音楽体験を探し求めて、今でも新たな音楽を探している。それと同時に、ハヌマーン以上の興奮を擁した音楽体験も今後ないだろうな、とある種の諦念を覚えている自分もいる。僕にとってハヌマーンとの出会いは天啓であり、またある意味ではトラウマにも似ていた。

 

 僕はlicalの音楽でハヌマーン以上の衝撃を受けたわけではないけれど、ある種同じような感動を覚えた。こういう音楽と出会うために、こういう音楽を鳴らすバンドと出会うために、僕は音楽を聴くんだなあと強く思った。そしてそれは、これから邦楽ロックという途方もないジャンルにハマるのであろう、名もなきリスナーにも言える。licalの音楽には、ひとりのリスナーのその後の嗜好を定め、これからそのリスナーが聴きこむ指針となり得る魅力と、その期待に耐えうる強度がある。僕にとってのハヌマーンがそうであったように、licalに全てを壊されて、このジャンルの虜になってしまうリスナーは、これから先もきっと出てくる。

 だからこそ続けてほしかったと、無期限活動休止が発表された今となって強く思う。音源に関しては買えるものは買っていたし、新曲も出すたびに追い続けてはいたけど、とにかくほとんどライブに行けなかった。ワンマンライブはおろか、彼女らが主催のライブにも。復活したバズマザーズとまた対バンしてほしかったし、vivid undressともまた2マンしてほしかった。本当に悔しい。彼女らのライブを惜しみなく楽しめる空間で身体を揺らしたかった。物販でも何でもいいから、面と向かって2018年の一方的な出会いを伝えたかった。僕がここで悔やんだって活動休止の未来が変わるわけではないけど、それでも書かずにはいられない。

 

 

 活動休止前ラストライブとなる配信ライブは、7月11日に行われる。一応言っておくが土曜日の夜だ。こんなブログを読んでいる物好きがどれだけ忙しいかは知らないが、ぼんやりとなんとなくYouTubeを眺めているよりはずっと良い体験が出来ると僕が断言する。一緒にlicalの晴れ舞台を見届けようぜ。

 

 

 記事を書き終わって推敲をしている途中に、新しいMVが公開された。「モータルトロンメルフェル」という曲だ。バンドが最後に書き下ろした曲らしい。先行配信にてすでに聴いていたが、MVとなったことでより生々しさと、どぎつさと、鮮烈さが増したように思う。改めて、失うには惜しいセンスだと強く感じた。

 上に挙げた数々の曲がそうであるように、いつもはテクニックと音圧で容赦なく殴ってくるバンドだけど、こういうどうしようもなく感傷的なメロディもまた、このバンドの持ち味である。音で耳に、言葉で心に、甘く鋭く傷をつけるように語り掛ける声音が、あまりにも優しくてまた凹んでしまった。なんで活動休止するんだよ。もっと聴かせてくれよ。そう願っても無駄なんだろうな。

 

 licalに出会えて本当にうれしく思う。それと同じくらい活動休止は残念だ。

 けれどもう、決めてしまったことは仕方がない。4人のこれからの行く末を、陰ながらひっそりと応援したい。そしていつかまた、4人の道筋が交わるような奇跡があったら、その時はこころから祝福したい。バンドマンは身体を壊しやすい生き物だから、無理のない範囲で息災で、いつまでも音楽を続けていてほしい。

 

 

 もっと貴方達の音楽が聴きたかったです。お疲れさまでした。

 願わくば、これが貴方達に向ける跋文となりませんように。