愛の座敷牢

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世界の解像度が上がる音楽-THE PINBALLSの書く歌詞の魅力

 

  耳を澄ますときに目を閉じるように、物をよく見るときに片目を閉じるように、人は何かを求めるときにそれ以外の情報を無駄なものとして、出来る限り排斥する性質があるように思う。

 
 子供の頃は廻る世界に対して、自分にとって無駄な情報なんて一切なく全てが新鮮であるが故に、何にでも興味を示し知ろうとする。あれは何、これは何、どういう意味。そういう子供時代を越して世界の仕組みが少し分かった気がして、シニカルに振る舞うことがかっこいいと思ったりして、この世界はクソだなんて言ったりして、そのうち日常の全てを知り尽くしたような気になって、毎日行き来する通学路、あるいは通勤ルートを往復し続ける毎日の中、必要なもの以外の情報をどんどん、どんどん排他していく。視野が狭くなる。知り得る情報が既存のものの焼き増しであることが多くなる。新しい知識を仕入れることに対する体力消費を煩わしく感じるようになり、知り得たものだけを周りに置いて井の中に、枠の中に引きこもる。1日24時間が加速する。途方もなかったはずの人生の果てが、体力の衰えとともに現実味を帯びていく。そうやっていつの間にか年老いていく。

 無意識に必要な情報以外を切り捨てて生きていくことによる、視野の狭窄。毎日の単純化。退屈な日常は無意識の自分が引き起こしていることに気づくのはとても難しく、気付いたとしても行動を起こす体力がない。今晩の食事を考えることで精一杯のアタマのキャパシティを、そんな不確定なものに割く余裕がない。余力もない。それでもしびれるような非現実を、退屈を吹き飛ばすファンタジーをもとめている自分がいる。

 壮大なスケールの空想や、緻密にデザインされた箱庭のような世界観を創り出すクリエイターたちは、観るものを圧倒するファンタジーを考え構築することと同じくらいに、現実世界にひっそりと、欠片のように散らばる小さな、小さな幸せの気付きを拾い集めることに長けていると思っている。今の季節で言うならまだ陽の昇りきらない明け方の空、白い吐息、寒風に揺れるマフラー、凍てつくフロントガラスから覗くもやついた世界すらも、彼らにとってはささやかな幸福を見つけるための手立てとなっているような、そんな気がする。この世に不必要な事柄なんて一つもないと、心から信じているような。まるで、僕とは違うレイヤーで、もっと光り輝く世界を見ているかのような。

 
 この記事でこれから紹介するバンド、THE PINBALLSも、そんな世界の見方をしているミュージシャンだと僕は考えている。

 

 

 THE PINBALLS。埼玉県発の四人組バンドである。何々をルーツにしたガレージロックで云々、vo.古川貴之の紡ぐ歌詞から見られる幻想的な世界観が云々、みたいなことをつらつら書いても退屈だし彼らの魅力を1ミリたりとも表現できないと思うのでとりあえず一曲聴いて欲しい。


 

 6年前から知りたかった? 同感です


 彼らの代表曲でありライブでも(少なくとも僕が行ったライブでは)ほとんど毎回演奏される定番曲、「片目のウィリー」である。

 聴けばわかるが百点満点のカッコ良さ。あまりに良すぎて何を語ればいいか分からない。普通の楽器を持って、普通に演奏して普通に歌ってるだけのはずなのに、このカッコ良さ、この哀愁、立ち姿のスマートさ。黒シャツが似合うバンドはいいバンド。どこからどう切っても破茶滅茶にカッコいい。音楽業界のえらい人たち全員「結局ロックンロールはこういうのでいいんだよ」とか言いながら彼らをもっとプッシュしてほしい。

 僕自身が音楽的知識に乏しいので彼らが具体的にどう凄いのか、他のバンドとどう違うのかを上手く語れないのがもどかしいところだけど、個人的にはGt.中屋の弾く癖の強い独特なギターフレーズと、古川貴之の声にあると思う。

 他の方のブログで「輪郭のないギター」と表現されていたのを拝見したが、実に的を射ていると感じる。カッティングを多用した、どこかつかみどころのない、責め立てるようなギター。ライブを見るたびに思うが本当に手の動きが意味不明。脳みそが何個かあるとしか思えない。ここまで動くギターなのに悪目立ちせず、ちゃんとボーカルを引き立たせているのもよくわからない。主張が強すぎたが故に瓦解、なんてこともなく楽曲をまとめ上げている。変幻自在という言葉は中屋のギターを評するために産まれたと聞いてる

 そしてそんなギターをバックに歌う古川貴之の声もまた素晴らしい。真の意味での「良い声」だと思う。THE PINBALLSが好きな人の殆どはこの古川の声がとっかかりで聴き始めたのではないだろうか。いや僕がそうなだけなんだけども。

 いろんな世代、いろんな嗜好の人が音楽の世界にはいるけど、その誰もに「届く」声をしているように思う。とっつきにくい悪い癖が無い、程よくハスキーな、しかししっかりロックで色気のある声。THE PINBALLSの曲をTHE PINBALLS足らしめている最大の要因が、この古川のボーカルだと思う。本当にポリープを乗り越えて帰ってきてくれてよかった。

 他にもBa.森下の主張の強いベースとコーラスとライブでの立ち位置とか、個性あふれる面々を陰で支えるDr.石原の骨のあるドラムとか、語りたいことはいっぱいあるんだけど、今回はブログタイトルの通り、このバンドの歌詞に着目した記事を書くことに決めているのだ。ここまでで2300文字。5分以上ある曲がカラオケで敬遠されるように、話の長い男も嫌われる。THE PINBALLSのように切れ味よく生きようぜ2020年(なおこの記事を書き始めたのは去年の11月下旬である)(本当は去年の内に出す予定だった)

 というわけでここからが本題である。THE PINBALLSの書く歌詞についての話をしよう。

 

 

 その歌詞の魅力について

 

 

 

 良い歌詞にもそれぞれいろいろある。

 例えば前回の記事でアホほど書いたユニゾンの、ひいては田淵の書く歌詞が僕は相当に好きなのだが、彼の歌詞は「良い歌詞」の中でも「痛快」な部類に入るものだと考えている。語りにくいことを回りくどく、決してストレートには伝えず、しかし分かる人には意外とわかるように。その塩梅と使う単語の選び方や彼特有の独特な言い回しがメロディのキャッチ―さと相まって、ガツンと心に来る。あの感覚が好きだ。

 他に好きな作詞家でいくと、元ハヌマーン、現バズマザーズ山田亮一やGRAPEVINE田中和将syrup16g五十嵐隆等がいる。最近ではヨルシカとかで活動してるn-bunaも好き。「好きな作詞家」で言うならダントツに一番好きなのは山田亮一でこれは多分生涯変わらないと思う。山田亮一についてもこのブログでいつかガッツリ書くと思うから今回は割愛する。

 上に書いた作詞家たちはそれぞれ個性がばらばらで一概にこういう傾向がある、とはなかなか言えないが、しいて共通点を上げるとするなら「なすがまま」を肯定していることかなと。運命なんてくそくらえ、と坂道に逆らうような真似はせず、まあ人生大体そんなもんだと、ころころ下り坂を転がってることを否定しないような歌詞を書く気がする。地に足に付いた現実は厳しいものである、というのを「当たり前」として、その上で自分の思想や感情をそれぞれの言葉で紡いでいるような。平たく言うのであれば逃げずに現実を書いている人たちだと思う。

  じゃあTHE PINBALLS、ひいてはそのフロントマンで作詞をやっている古川貴之(以下便宜上古川とする)は一体どんな歌詞を書いてるかと言うと、

 

暗い森の向こう 這い回って

かぎ回って 足跡は ぞろ ぞろ ぞろ

振り乱して 踏み均して 暗闇に紛れ込んでいよう 

THE PINBALLS――冬のハンター

 

 

 真逆。

 逃げずに空想を描いているのがTHE PINBALLSである。

 

 

 猫の目のような

 

 猫の目の話をしようと思う。

 話が長いうえによくわからない横道にまで逸れるとは何事だとお怒りの気持ちは至極当然だが、彼の書く詩について上手い例えが出てこないまま2019年を終えて、ようやくそれっぽいものを考え付いたのだから少しばかり付き合ってほしい。

 暗所にて、猫の目が光るのはなぜか。

 最近読んだ本で知ったのだが、猫の目には輝板(もしくはタペタム)と呼ばれる構造があるそうな。この輝板は網膜の後ろについており、視神経を刺激しながら入ってきた光を反射して網膜に返すことによって光の明るさを2倍にすることが出来る。この輝板を使って猫は人間にはわからない微かな光を集めて目を光らせ、暗いところでも不自由なく活動しているらしい。

 実はこれ、別のことを調べていた際に偶然知ったことなのだが、この猫の輝板の話を知った時に思い浮かんだのが、THE PINBALLS古川のことだった。なんか嘘っぽいけどほんとだよ

 何が言いたいかと言うと、彼は例の輝板のような、僕らには感じ取れない微かな光を発する「カッコいい」を集められるようなものを持っているのでは? と思うのだ。それほどまでに、素敵なものを見つける力に長けているように思う。視点とか、気付きとか、そういうのも重要だろうが、何より感性が図抜けて素晴らしい。

 例えばこの『Lightning strikes』

 

 

 

 メジャー1stシングルからせめせめのアッパーチューン。こういう曲が、ひいてはこういう曲をやるバンドが正当に評価される世の中になってほしいとはTHE PINBALLSリスナーの常套句である。YouTubeのコメント欄でそればっかり言ってる。

 この曲は古川自身の「音楽を聴いているときの滾る気持ち」を表現したものらしいが、もう一つ大きなテーマがある。以下、発売当初のインタビューから引用する。

 

 今回、曲を書きながらTHE PINBALLSが一番初めにライヴをした時のMCを思い出していたんです。「Lightning strikes」では、それを書きたかったんですよ。雷に7回打たれながら死ななかったロイ・サリバンという男性がいたんですけど、僕が生まれる1年前に振られたことが悲しすぎて自殺しちゃったんです。その話が大好きで。恋するってそんなにすごいことなんだ、雷に打たれて7回生き伸びるよりも失恋するほうが致命的なんだって。

―――2018年4月21日 OKMUSiCインタビューにて

 

 

 僕がこの話を聞いたところで、この雷に七回打たれた男性への想いなんてせいぜい「めちゃ運がいい」か「よくわからないけどすごい」くらいしかないと思う。小学生か? 

 そんな廃れた僕の感性をよそに、古川はこれにいたく感動し、初めてのライブのMCにこの話を盛り込んで、あまつさえメジャーで出す初めてのシングルにこの要素を盛り込んでいる。この話を「大好き」と言えるのは、その上で「感動・わくわく」の象徴として作品にまで昇華できるのは、良い意味で変だなって思う。

「カッコいい」「美しい」といった事柄に敏感で、自分の中に確たる美学があって、それをきちんと表現できるセンスがあるうえで、目立たずも世界に溢れているそれをきちんと見つけることが出来る目、及び感受性を持っている。そんな彼の目とバンドによって増幅された「カッコいい」や「美しい」を観ているような、分けてもらっているかのような。古川の書いた詞を読んだり、音楽と共に聴いたりすると、そんな気分になる。

 確固たる「カッコいい」を持つからこその感情移入であり、没入感をもたらしてくれる、唯一無二の歌詞。だけど古川の書く歌詞の魅力はこれだけでは終わらない。彼の書く歌詞の真髄は、それを現実と言うフィールドではなく、空想に昇華しているところだと思う。

 例として一曲挙げると、メジャーデビューミニアルバム『NUMBER SEVEN』から一曲『蝙蝠と聖レオンハルト

 

 

 

蝙蝠の眠る屋根の下
レオンハルトの絵が揺れだした
ゆらゆら彼は踊りながら
地獄にも眠る場所があると
地獄にも唄う唄があると
ゆらゆら彼は笑い出した

 THE PINBALLS――蝙蝠と聖レオンハルト

 

 楽曲全体から広がるダークな世界観、おどろおどろしい雰囲気、そして何より描写は細かいのに捉えどころの難しい独特な歌詞。ライブ定番曲であるこの曲の、一見しただけでは状況の理解すらも難しいこの異様な歌詞こそ、THE PINBALLSらしさの極致と言える。それはそうとして超かっこいいから1日10回は聴こうね。

 細かくは語るが多くは語られない世界観。自身の生み出す広く深い空想を、あえて一部分だけ切り取って見せたような、断片的な歌詞。どことなく仄暗い雰囲気も相まって、長い年月が経って色褪せ、ページも切れ切れになり文字も掠れてしまった古い書籍をどきどきしながら読んでいるかのような、そんな感覚を抱いてしまう。

「分からない」「語られない」といった空白や謎を大事にし、聴いたものを思考に浸らせる、引き込ませる歌詞。ダークな雰囲気のみならず、時には叙情的に、時には文学的に、多様なメロディを彩る様はまさに千変万化の言葉が似合う。「空想」であるが故の自由度を最大限に利用した、聴きごたえ、考えがい満載の歌詞である。

 

  歌詞における空想を貫くことの難しさは多々あると思うが、その一つに「共感が得られにくい」ことが挙げられる。年代別に考えても日本の音楽シーンにおいて、歌詞と言うのはどうも「共感性」を重視される傾向にある気がする。美しい、カッコいい、よりも「分かる」「自身を代弁してくれる」詞。いつの時代も恋愛詞を書く女性シンガーソングライターが一定の支持を集めているのは、彼女らが書く詞が恋愛に傾倒する若年層にウケるからというのはまず間違いなくあるだろうし、巷の音楽シーンに名を連ねるバンドやシンガーも「共感できる歌詞」というのを売り文句にしているのは珍しくない。

 別にそれが良い悪いという話ではない。胸がキュンとする恋愛詞も、人生辛いけど頑張ろうぜみたいな歌詞も、世界に呪詛を撒くような陰鬱な歌詞も、ターゲット層が違うだけで総じて全部「共感を呼ぶ歌詞」だと思う。自分の確たる世界観を持って、それを自分の言葉で表現してメロディに乗せるアーティストでも、根っこを辿れば何かしらの感情に関する共感に行きつくなんてわりとよくある話だ。このジャンルの優劣はもう各人の好みと、その共感をあおる題材を「どう書くか」による。

 空想の世界の歌詞を書くことは、そういう共感に安易に逃げることが出来ないがゆえに、「意味が分からない」というレッテルを貼られがちな傾向にある。時には本当にメロディに合わせててきとうに言葉を羅列しました、みたいな歌詞もあるからなおさらだ。

 THE PINBALLSは「わかりみ」で大抵の日常会話を成り立たせる人に響くような歌詞を書いていない。出典も分からないような単語をひょいひょい持ってくることなんて日常茶飯事だし、そもそも人間を書いているのかどうかも不明瞭なこともある。「共感性」なんて一番程遠い言葉なのではないか、と思うほどに独自を行くワードセンス。言ってしまえば頑固とも取れるほどに徹底したそれも、自身の美学を大事にしているが故のものだ。以下過去のインタビューから、印象的だった部分を引用する。

 

 僕、例えば歌詞に「少年ジャンプ」というフレーズが出てくる曲がすごく嫌いなんです。わかるんですよ、子供の頃からジャンプを読んで育ってきてるし。だけど僕は絶対にイヤ。ヒリヒリした現実感があってカッコいいと思うけど、絶対にやりたくないんです。僕はそういった現実感を忘れさせるために嘘をつきたいというか……本当はゲスな人間だろうが、音楽の中だけでも夢とか希望とかファンタジーとか、そういった世界を精一杯提供したいんです。不良やチンピラが車に乗って迫ってくるんじゃなくて、モンスターが空から飛んできてほしい。そういう歌詞にすごく惹かれるし、僕自身もそんな歌詞を提供していきたいんです。

――――2014年9月16日 音楽ナタリーインタビューにて

 

 

  僕は彼らの作り出す音に惚れている部分も大きいので、例え彼らが「少年ジャンプ」という単語を用いてたとしてもハマっていたとは思うけど、ここまで彼の歌詞の世界観にのめり込むようなこともなかったと思う。自分を貫くって簡単にみんないうけどマジで難しいぜ。僕はこの世で一番と言っていいくらい苦手。ぶれぶれに生きてるからなあ。

 

 空想は現実と乖離した概念でありながらも、現実の延長線上に存在するものであると考えている。現実ではありえないことは現実を知らないと想像できないし、空想として頭の中に生み出される事象や生物もあくまで現実に存在する何かを基盤にしている。空想とは現実に存在しないが故であり、全ての空想は確固たる現実を礎に成り立っている。万人に夢を見せるファンタジーを作り出すためには、より一層現実を知ることが不可欠であると、僕は考えている。

 猫の目の話で述べた「僕らには感じ取れない微かな光を発する「カッコいい」を集められるようなもの」とはこれに通じる話だ。

 現実にちらばるそれらを見つけ、受け止め、思考し、見定め、何らかの感情と共に取り込み、自身の世界に昇華する。ファンタジーを描くために自分が今二本足で立っている世界をきちんと見据え、自身の視点や価値観を大切にしながらも、異なる解釈や未知を尊重し、引き受ける度量を持ち、考えることを止めない。その繰り返しだけが、書かれる世界に鮮やかさを増させるのだと思う。真っ暗にしか見えない世界も、彼に取って見れば小さくも確たる光に溢れており、僕はそんな彼の詞によってその光を認識できる。

 そうして感じ取れた光を辿りながら彼の詞について自身も思考を繰り返す中で、ある日ふと、日常の中で見えるものが増えているような、そんな気持ちになったことがある。ああ、彼の見ている世界はもしかしてこんな感じなのかな、といった淡い妄想に浸った瞬間が、たしかにあった。

 シンクロニシティ、という言葉がある。ユングという昔のスイスの心理学者(よく知らん)が提唱した、「意味ある偶然の一致」を指す概念である。要はおおよそ日常では使わない単語をよく聞いたり、ふと欲しいと思ったものが半額になってたりプレゼントされたり、思っていたことが目の前で起こったりと言った、そういうなんか偶然とは思えない偶然みたいなやつ。結構解釈の幅が広い概念ではあるが、この例として「最近知った言葉やモノを日常でたびたび見かけるようになる」というものがある。

 これに関しては、本当にその言葉を知ったその日から世界にそのものがあふれるようになった、という偶然は無いこともないだろうが、今まで「そこにあった」けど自分がただ気が付かなかっただけ、という方が解釈としてはしっくりくると思う。

 

 

 

here come the wiz
世界は架空の鼓動に湧くだろう
偉大なる幻想が目を開くだろう
苦悩を極彩のドレスに変える魔法
here come the wiz

THE PINBALLS――WIZARD

 

 世界は光に満ちている。思ってるより優しく出来ている。気が付かないだけで。幾度となくこの記事で繰り返したことだけど、この記事で語りたいのはここである。THE PINBALLSの歌詞の持つ魅力とはとどのつまり、今まで気が付かなかった世界の放つ光に気付けるようになることだと、自身の目から見る世界の解像度が上がることだと考えている。彼らの信じるカッコよさは気高く、荒々しくも、優しい。

 

 

 最後に

 

「THE PINBALLSの曲の中で一番好きな曲は何? 」というめちゃくちゃに難しい質問にあえて僕が答えるとするなら、悩んだ末『ワンダーソング』を選ぶ。THE PINBALLSはミニアルバム・フルアルバムのラストの曲には外すことなく必殺の一曲を持ってくるとはファンの間では有名な話であるが(例:沈んだ塔、あなたが眠る惑星、ニューイングランドの王たちなど)その中でも僕はこの曲を推したい。メジャーデビューミニアルバム『NUMBER SEVEN』を締めくくる一曲である。

 上で紹介した『蝙蝠と聖レオンハルト』から本格的なファンとなったが故に『NUMBER SEVEN』というミニアルバムが、思い出補正を含めて現在彼らの出したアルバムの中で一番好きな作品である。そんな作品のラストのこの曲は、THE PINBALLSには珍しく、等身大の「自分」を描いた曲だと解釈している。

 THE PINBALLSの歌詞において「僕」や「君」と言った人称は、必ずしも人間に対して使われるものではない。時には人以外に当てはめたほうが解釈としてしっくりくる場合すらある。そして例え人間だとしても、その多くは僕らには思い至らない架空の世界に立つ人であったりする。二人称を放っている存在が、人間だとかそういうものを飛び越えた概念であることだってある。例えばこの曲。

 

 

 

回り回る この引力が
回り回る この引力が 叫びだす
永遠よりも この瞬間を今
おまえは生きるがいい adam's rib

THE PINBALLS――アダムの肋骨

 

 メジャー1stアルバム『時の肋骨』から『アダムの肋骨』

 この曲の「おまえ」と語る存在は、人間と言うよりは「神」と解釈した方が筋が通る。神の作った箱庭にて、神が箱庭に立つ誰かに語り掛けている。他に歌詞に「おまえ」が出てくる曲と言えば『毒蛇のロックンロール』もそうだが、高次元の存在を想像させるような、そういう人称の使い方をしている。

 歌詞にどことなく文学的というか、抽象的というか、そういう彼ららしい「つかみどころのなさ」を生み出している要因がこの人称の使い方だと思うのだが、そう考えるとワンダーソングは分かりやすく「僕」の、ひいては「自分」の歌だな、と感じる。比喩に用いる言葉のセンスはまあ例に漏れずすごいセンスだけども。

 

もしももう一度
夜を駆け抜けられるなら風のように
もしももう一度
唄を唄うなら夕暮れに舞う町のように
うまくはやれなかったけど
虚しく砕け散ってきた日々を
風のように 町のように ずっと

THE PINBALLS――ワンダーソング

 

「歌う」ということへの夢と希望を、ありったけに詰め込んだ曲だと思う。そう思わせる要因は、幾分ストレートに書かれた歌詞もそうだが、個人的にはこないだ出たシングル『WIZARD』の、初回盤特典についてきた新宿LOFTでのライブCDにて聴ける、この曲に入る前のMCである。ポリープによる活動休止から無事回復して、歌えることの大切さに改めて気付けた古川の語りが、そう思わせているのかなと思う。

 沢山素敵なことを知ってて、それを見つけることにも長けていて、自分なんかよりずっといろいろなことが見えている彼のライブでのMCはわりとぎこちなく、たどたどしく感じる。単に喋るのが苦手と言うよりは、伝えたいことがたくさんありすぎて、頭の中に浮かんだものをちゃんと言葉に変換しないまま話しているかのような、そんな印象を受ける。緻密で鮮やかな世界を作る彼の、人間らしい不器用さ。『ワンダーソング』はそれを曲で垣間見ることが出来て、とても愛おしい。

 

 彼らの知名度が相応か不相応かなんてのは世間が決めることであって、僕や他のファンが決めることではないというのは百も承知で言うが、こんなに良い歌詞といい音楽を鳴らすバンドがいるのだ、ということを、もう少しいろんな人に知ってもらえたらな、と思う。もしこのブログを読んで興味を持ってもらえたらぜひ音源を聴いて、彼らがあなたの住む町の近くに来た際には、ぜひライブに行ってほしい。きっとこのブログで感じたことなんてぶっ飛ぶような衝撃を受けると思う。本当に良いバンドです。

 2020年が彼らにとって飛躍の一年になりますように。