愛の座敷牢

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中田裕二になりたかっただけなのに指名手配された

 ビンゴ記事である。前回はこちら

 

 

 今回取り上げるお題は「ベストオブ顔がいいボーカリスト」である。

 

 ロックバンドが売れるために、バンドマン、特にフロントマンに一番必要なものは何だろうか。

 歌唱力? 演奏スキル? 人間性? カリスマ性? 魅力あるMC? Twitterで面白いこと言う力? そりゃどれもあって困るものではないが、売れる素質として一番手っ取り早いものは間違いなく優れた容姿であろう。

 この世がルッキズムに支配されている以上、一定以上の容姿はその音楽の出来に関わらず、バンドの知名度や人気を向上させる。早い話、100万円使って機材揃えて音源のクオリティにこだわるより、その100万でボーカルを整形外科に放り込んだ方がバンドは売れるのだ。

 だって考えてもみてほしい。もしも斎藤宏介氏が清潔感の欠片も無いブ男だったらUNISON SQUARE GARDENは間違いなく今のような売れ方をしていないし、川上洋平氏のお顔の右半分が機械むき出しの改造人間だったら[Alexandros]のファン層は間違いなくSF研究会の集まりになっている。

 メンバーお三方共にもう30代後半にもなるユニゾンが未だにティーンエージャーに人気なのは彼らが身だしなみに気を使って清潔感のある容姿を維持し続けているからだし、川上洋平氏は実は皮膚の裏側が全部機械なのでどれだけ月日が経ってもずっとあの塩顔イケメンのままだ。あの人は異次元。多分あと10年経っても顔変わらん。

 

 そう、売れているバンドの人間は得てして容姿が優れている。たとえお世辞にも優れている容姿では無かろうと、それなりに優れているように見せている。そのためにスタイリストやメイクアップアーティストが裏についており、主要なメディアに出演する際はバンドマンの魅力を最大限に引き上げるべく尽力しているのだ。

 不快感を与えない容姿というのは一部の特例を除いて、推奨するものではなく義務である。ダサいロックスターなど誰も憧れはしないのだ。

 もちろん僕が好きなミュージシャンおよびボーカリストも、それぞれの個性は有れど、ほとんど全員が僕自身が憧れてやまない容姿をしている。

 故に非常に悩ましいお題である。みんなカッコいい。俺だって金とそれが可能な骨格さえあるなら、今すぐにでも整形外科に飛び込んで、医者に小林私の画像を見せながら「頼むからこの顔にしてくれ」って懇願したいし、今から飛び降りて死んだら5%の確率で水野ギイの顔面に転生できるチャンスを得られるなら迷わず東尋坊へ向かう。

 

 

 とはいえ、正直考えるまでもなく答えは決まっている。僕の中で1番顔がいいボーカリストは斎藤宏介氏でも川上洋平氏でも水野ギイ氏でも谷川正憲氏でもなく、元椿屋四重奏、現在はソロで活動しているミュージシャン、中田裕二氏である

 

 

 信じられるか? この人御年41歳なんだぜ……?

 

 この動画を観ても分かる通り、現在でもきわめて端正な、尋常ではなく色気のある、鬼のように魅力的なお顔をされているが、椿屋四重奏というかつて活動していた鬼カッコいいバンドが大好きな僕としては、やはり椿屋時代の中田裕二氏につよい憧れがある。もうマジのマジでカッコいい。どれくらいカッコいいかって、彼のドアップが1stアルバムのジャケットになるレベルである。

 

 

 僕はとっくに解散してからこのバンドの存在を知って、悔しがりながらYouTubeのMVを貪りつくした側の人間なので、当時の椿屋にどれだけ彼の顔ファンがいたのかは知らないが、画面の向こうでマイクを握り妖艶に歌う椿屋時代の彼の顔面の端麗さは、なぜ当時無形文化遺産に登録されなかったのかを疑問に思ってしまうレベルの美青年ぶりで、はじめて「いばらのみち」のMVを見た時の衝撃といったらない。

 

 

 このお顔で、こんなにエッチな声で、文学的色気をムンムンと放出する歌詞を紡ぐなんて、それはもう放送倫理検証委員会にひっかかっても仕方ない。これはテレビ局に同情する。 法に触れるレベルで顔がいい。YouTubeの動画が削除されていないことが奇跡と言える。この世がエンタの神様だったら間違いなくキャッチコピーに「歌うR-18」ってつけてる。質問来てた! 中田裕二の顔の良さは犯罪ですか? 結論 犯罪

 そもそも楽曲がどれも最高なので顔面関係なしにYouTubeにアップロードされているMVを全て観尽くしてほしいが、個人的な顔面ベストテイクは上に挙げた「紫陽花」とこの「恋わずらい」である。

 

 

 顔のいい男が無造作に襟足を伸ばすな 

 もはやこれはなぜかめちゃくちゃ妖艶でカッコいい音楽がバックで鳴っている、中田裕二主演の4分52秒のイメージビデオである。ハンドマイクで口元が隠れた瞬間の色気がヤバすぎる。口紅を頬に付けられた時の所作が性的過ぎる。僕が女だったら間違いなく彼以外の男の顔面が全て丸めたティッシュに見えるようになると思う。それほどまでの顔面偏差値の暴力。

 ここまで語っててなんだけど大丈夫か? この記事今までの記事で一番気持ち悪くないか?

 これ以上語ると流石に後戻り出来なくなりそうなのでここらでやめにしたいのだが、この恋わずらいのMVには、学生時代の僕のちょっとした苦い思い出が有る。それを紹介して終わりたいと思う。

 

 

 忘れもしない高校三年生のある夏の日、秋に入試を受ける予定の短期大学への願書に貼る顔写真を撮るために、僕は近所のスーパーの前に設置されている証明写真機に訪れていた。

 今以上にちゃらんぽらんな性格だったが故に、願書も何もかも提出期限ギリギリになって顔写真が必要なことが判明し、全てにおいて足りていない自分を心底呪いながら必要最低限の荷物だけを持って自転車をかっ飛ばし、生まれて初めての証明写真を撮影した。

 そこまではいいのだが、何を血迷ったか僕は撮影の直前にスーパーのトイレで髪をわりとしっかり目に濡らしてから撮影を行ったのだ。そう、動画のサムネイルでもお分かりの通り「恋わずらい」の中田裕二に憧れたが故の奇行である。

 今思えば満場一致で果てしなくバカなのだが、その時の僕は大まじめに、どうせ映るんなら少しでもカッコいい方がいいだろうと思ってやったらしい。

 そうして写真機の指示に従って得られた写真には、当然濡れ髪で色気抜群の中田裕二ではなく、どっかの指名手配犯のような風貌の自分が映っていた。服装は乱れて目はうつろ、謎の顰め面に謎にずぶ濡れの髪。あまり自分の容姿に関心の強い方ではない自分でも「これはダメだろ……」と青ざめてしまう出来だった。なぜそれを印刷してしまったのか、撮り直しは本当に出来なかったのか、未だにあの時の自分の愚かさが信じられない。

 そもそも当時から自分の写真を撮られることがあまり得意ではなく、写真写りがあまり良くないこともあるが、その時はタチの悪いことに全力で自転車を濃いだ後、息も整わないまま撮影を始めたので着ていた制服もぐちゃぐちゃという、考えられる限り最悪な状態で写真を撮っていた。

 その上で髪をびしょびしょにしているのだからもう救いようがない。街角アンケートで当時の証明写真を見せながら「この人物は受験生か、それとも犯罪者か」と問えば、9割以上の人間が犯罪者と応えるであろう特級の呪物がそこにはあった。

 ただその時は撮り直すお金も、加えて時間も無かったので、その写真をその場で切り取って願書に貼り付け、そのまま学校に提出してしまったのだ。

 結果的に僕はその短大に合格し、春から実際に通うことになるわけだが、後日学校から貰った学生証には件の指名手配犯の写真が貼ってあって、思わず膝から崩れ落ちた。

 こうして僕は短大を卒業するまでの2年間、信じられないくらい不細工な写真の貼られた学生証を使い続けた。というかこの件がきっかけで、自分が本当に容姿に優れていないことを自覚した気がする。

 

 今でも「恋わずらい」のMVを観ると当時の痛々しい思い出がよみがえり、羞恥の果てにところ構わずそこらじゅうに頭をぶつけて回りたくなる。もしかすると俺の先祖はパキケファロサウルスなのかもしれない

 

 

恋わずらい

恋わずらい

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 代えのない代物だ 顔は……

MODE MOOD MODEとかいうただの最高傑作

 ビンゴ記事である。前回はこちら

 

 

 タイトルの通りである。これ以外に何も書くことがない。

 

 

 一応これは「Catcher In The Spy以外で好きなユニゾンのアルバム」というお題についての解答なのだが、本当にこれ以外に書くことがない。

 書くことがないのでもう一回書いてやろうか? MODE MOOD MODEはUNISON SQUARE GARDENが今までリリースしたすべてのアルバムの中で一番クオリティの高い最強のアルバムです。

 間違いなく最高傑作です。今後これ以上の作品は出ません。以上! この話終わり! こんなブログさっさとブラウザバックしてタワレコでこのアルバムを買いなさい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあ本当にこれだけならTwitterで良いので、手短に。

 そもそも、毎回毎回しつこいほどに何度も何度もCatcher In The Spyは最高至高とさんざっぱらCatcher In The Spy様をコスっているこのブログで今更何を申すかと言われればこちらは平謝りするしかないが、一応弁解しておく。2022年7月現在、UNISON SQUARE GARDENが出しているすべての作品の中で僕が一番好きなのは「Catcher In The Spy」である。この先これが変わらない、という保証は無いが、限りなく低いと思われる。というかそんなアルバムが出てきたら僕のこれまでの価値観が全て狂いかねない。

 いくつも存在するUNISON SQUARE GARDENのアルバムの中でCatcher In The Spyが一番好きな理由は、僕自身がロックなユニゾンが一番好き、ドンドンうるさくてスピーディで攻撃的でカッコいい曲をやってる彼らが一番好き、というのがやはり大きいが、それ以外にも初めて聴いた「天国と地獄」の衝撃とか、その衝撃を受けてダッシュで近所のTSUTAYAに駆けこんで借りてド頭一発目に聴いた「サイレンインザスパイ」からの「シューゲイザースピーカー」の超威力とか、それらを全て何もなかったかのように過去にする「黄昏インザスパイ」の圧倒的なエンディング感とか。49分という、長針が一周もしない時間の中で受けたいくつもの衝撃と、そこから幾度も幾度も聴き返して魅力を深掘りしていったことで、自分の音楽に対する価値観の根源に作用するくらいに大きな存在になったことがとても大きい。

 だから、ぶっちゃけ言ってしまえばこのアルバムを聴きまくって価値観や嗜好や思想がそれ専用に凝り固まってしまい、ひいき目にしている部分も少なからず有る。楽曲単体で考えたらこのアルバムに収録されている曲と匹敵するくらいに好きな曲もいくつもあるし、収録されている曲の演奏や構成、歌のクオリティでも引けを取らないどころか凌駕するものもたくさんある。僕がCatcher In The Spyを好きな理由は、このアルバムの有する魅力がその根幹ではあるが、僕自身の価値観にまで影響を与えてしまったが故の「補正」のような部分がかなり強いことも自覚している。

 

 で、そういう余計なひいき目や補正を一度全て取っ払って、限りなくフラットな観点で彼らのこれまでのアルバムを再評価した場合、または自分が全くユニゾンというバンドを知らない状態で、彼らがこれまでの活動の中でリリースしてきた作品を全て聴いたと仮定した場合、何も知らない自分が最もクオリティが高いと評価するのは、おそらくこの「MODE MOOD MODE」だと思う。それほどまでに完成度が高い。

 もしも僕がCatcher In The SpyではなくこのMODE MOOD MODEを先に聴いていたら今の僕にとってのCatcher In The Spyの立ち位置は全く違うものになっていたと思うし、UNISON SQUARE GARDENという存在に自分が求めるバンドとしてもあり方も全く異なるものになっていたはずである。

 兎にも角にも全方位にクオリティが高い。本当にクオリティが高い。クオリティが高い、という誉め言葉はMODE MOOD MODEの特徴を具体的に説明するために生み出されたのですか? その通り。クオリティが高い、の元祖がこのアルバムである。どれだけ考えても悪いところが一個も無い。

 一体何がそんなにクオリティクオリティとお前を狂わせているのか、と思っている方も多いと思うので、一度改めて収録曲を確認したい。

 

01.Own Civilization (nano-mile met)
02.Dizzy Trickster
03.オーケストラを観にいこう
04.fake town baby
05.静謐甘美秋暮抒情
06.Silent Libre Mirage
07.MIDNIGHT JUNGLE
08.フィクションフリーククライシス
09.Invisible Sensation
10.夢が覚めたら(at that river)
11.10% roll, 10% romance
12.君の瞳に恋してない

 

 改めて見ると正気の沙汰じゃない

 何これ 総選挙の結果ですか? ベストアルバムですか?

 

 この曲の並びを改めて見て「尋常ではないほど豪華」「頭がおかしい」となるのは、UNISON SQUARE GARDENのファンとしては仕方のないことだと思う。大盤振る舞いにも限度がある。メインディッシュしかないコース料理。曲それぞれの火力があまりにも高すぎる。捨て曲、どころか「この曲良いとはおもうけど好みではないな……」みたいな曲すら一切ない。

 シングル曲はもちろんのこと、アルバム曲も一曲一曲が単品で1記事書けるくらいに言いたいことがあるのだが、そんなことをしていると死ぬまで書き上げられないので、断腸の思いでアルバム曲を3曲ピックアップして紹介する。

 

 

05.静謐甘美秋暮叙情

 

静謐甘美秋暮抒情

静謐甘美秋暮抒情

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 他のアルバムの信者として先に一つ言わせてほしい。ズルくない? この曲の存在

 このアルバムがリリースされて早4年(!)が経過しているが、未だにこの曲の立ち位置はUNISON SQUARE GARDENの全楽曲の中でも異質なものとなっている気がする。本当に独特な雰囲気だけどとにかくオシャレ。

 ギターの音作りといい歌詞に使われているワードのセンスといい、どこをとっても「アダルティ」という言葉が本当によく似合う。UNISON SQUARE GARDENの重要な個性の一つでもある「多面性」というものを、最も如実に表している曲の一つと言っても過言ではない。現存するUNISON SQUARE GARDENの曲を対象に、何らかの項目を設定して散布図を作成したら、間違いなくどこかの端に位置する。

 A→B→サビで段階的に歌のテンションをあげていく構成となっているが、メロディとギターのサウンドが本当にどこを切っても一級品であり、小節ごとにあの、相席食堂の「ちょっと待てぃ!!」ボタンを押して止めて戻りたくなるため、そこまでテンションが高い曲でもないのにこちらの感情は大変忙しくなるという魔性の一曲である。

 余談だが、この曲の歌のレコーディングの際に我らがギターボーカリスト斎藤宏介氏は風邪を引いていたらしく、それも相まってか知らないが余計にセクシーなテイクとなっており、なんというか「悩殺!」という雰囲気である。この情報をネットのインタビュー記事か何かで初めて読んだ時、僕は率直に「これから毎回レコーディングの前の日だけ風邪ひいてくんねえかな」と思った。不謹慎

 他にもド頭の派手なベースと言い、Dメロ前のセッション風間奏と言い、どこをとっても聴きごたえ抜群なのに、まるで水でも飲むかのように嘘みたいにするりと味わえてしまう後味すっきり感と言い、「叙情」ではなく「抒情」をチョイスするセンスの良さと言い、本当に上質な「淫靡」と「癖」を詰め込んで最高の調理をした結果出来上がった満場一致のウマい奴がこの曲である。耳から流すタイプの吉沢亮、ヘッドフォンに転生した世界線本郷奏多、もう何でもいい、お前の思う健全な範囲の「エロ」をイメージしろ。それが現代に顕現したのが「静謐甘美秋暮叙情」だ

 Own→Dizzy→オーケストラ→FTBという、UNISON SQUARE GARDENの全アルバムの中でも、屈指の無敵感のあるこの4連打を一撃でがらりと雰囲気を変える威力を持つ、このアルバムの裏エース的一曲である。これまでもこれからも、どんなライブのどんなタイミングで披露されようと、観客は静かに、されど確実にアガる。こんな曲他にない。欲を言うならこんな感じの雰囲気の曲がもう一曲くらい欲しい。カップリングでも全然良いので。

 

 

08.フィクションフリーククライシス

 

 

 挙げておいてなんだが、未だに「フィクションフリーク」なのか「フリークフィクション」なのかが分からなくなる。なんとなく後者の方が読みやすい気すらする。「最初にくしゃみをするようなタイトルの曲」と覚えておこう

 UNISON SQUARE GARDENの数多の楽曲を語るうえで、個人的にかなり信頼している一説に「名前が全部カタカナの曲は大体好み説」というものがある。近年の田淵氏の楽曲命名のトレンドが「それっぽい英単語三つ並べる」のような気がしているが、僕の心臓を撃ち抜くパワーを有する曲は、大抵カタカナだけのキュッとした名前のものが多い。

「サイレンインザスパイ」「シューゲイザースピーカー」「マスターボリューム」「カラクリカルカレ」「マーメイドスキャンダラス」など、ちょっと挙げるだけでも本当にThe Powerの権化のようなラインナップで笑ってしまったが、このフィクションフリーククライシスもそれらに匹敵する威力の高いソリッドで大変にカッコいい曲である、とはならない。残念だったな! そう、こいつは

 

 

 メカトル枠である

 

メカトル時空探検隊

メカトル時空探検隊

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 ――――瞬間、おまえの脳裏を過るポンコツで無様なタイムマシンに乗ったバスケットシューズを履き潰してピッチャーマウンドに立ちながら華麗に倒立を決める傍若にフレンチをフライする光景(in Madagascar's capital)――――

 

 

「フィクション」「フリーク」「クライシス」と、イケメン度の高い単語を三つも拝借しながら、それらを雑に融合、いや縫合召喚して出来たこの自意識がクライシスした迷子は、歌詞も展開もやりたい放題の大問題児である。融合というよりはもはや交通事故のほうが印象としては近い。そりゃ迷子にもなる。

 ま~リリースされて4年経っても未だに意味のわからん歌詞。やりたい放題な曲調も相まって理解を放棄するレベルの煩雑さで、正直考察とかするのも馬鹿らしくなる。とかいうと真面目に考察している人に失礼なのでこれは取り消すが、ぶっちゃけ僕はこの曲になんか深いメッセージ性とか込められてる方が無粋な気がする。この子はきっとメカトル時空探検隊の生き別れの他人です。

 どう弾いているか分からないけどおそろしく難しいことだけは分かるイントロのリフから始まり、サビさえちゃんとしてればあとは何してもだいたい許されると言わんばかりの詰め込みっぷり。間奏開けの「自意識がクライシス迷子!(迷子!)×7」を初めて聴いた時は、「正気か?」と耳を疑った。カッコよさで誤魔化されそうになるが、冷静に考えて「迷子!」のコールはだいぶキモい。えっキモくない? イケてる? フィクションにもフリークにも騙されてるよそれ ござる口調のフリークに騙されてる

 

 ぶっちゃけこの曲がMODE MOOD MODEの中で特別好きというわけでもないのだが(もちろん良い曲だとは思うけど)それを踏まえた上で敢えてチョイスした理由は、この曲がMODE MOOD MODEというアルバム全体を通して語るうえで非常に重要な存在だからです。なんかヴェルタースオリジナルみたいな語り口でウケる

 インタビューか何かで田淵が「本当は違う曲が入る予定だったけどふざけ感が足りなくてこっちに変えた」と語っていて、このバンドのスタンスが垣間見えた気がしたというか、アルバムを出すことを単に曲が貯まったからやる行為として捉えず、全体の構成や雰囲気を大切にして、一つの楽曲と同じく、一つの作品として昇華することを当たり前にやってる姿に感銘を受けたというか。別に曲が溜まったから出しますでも悪くは無いけど、やっぱり一本芯の通った、きちんとしたコンセプトのあるアルバムは強い。

「MIDNIGHT JUNGLE」というこれまた中毒性の高いジャンキーな曲と、収録されたシングル曲の中でも随一の人気と主役感を誇る「Invisible sensation」の間を取り持ついぶし銀な問題児である。この曲からの「Invisible sensation」の繋ぎは本当に美しい。「高らかに」が大変よく映える。

 余談だが、この曲に取り替わる前の「別の曲」とはどうやら「ラディアルナイトチェイサー」だったらしいが、そりゃ賢明な判断である。あんなハイボルテージな核弾頭を間に嚙ませたら何もかも分からなくなる。書いてて思ったが君もカタカナ曲だな この際次のアルバムは全部カタカナ曲にしないか? 

 

 

12.君の瞳に恋してない

 

 

 気付けば一千万再生間近

 個人的なMODE MOOD MODEというアルバムの唯一の欠点、それはこの曲をアルバム発売前に先行公開してしまったことである。本当に本当にもったいない。これはアルバムを通して聴いた最後で初対面を果たしたかった。この失敗以降、僕はアルバム発売前の先行公開曲はなるべく発売されるまで聴かない、と自制を心がけている。そのおかげもあってか、Patrick Vegeeはほとんどのアルバム曲を前知識0で味わうことが出来た。

 僕は「シュガーソングとビターステップ」よりも「オリオンをなぞる」よりも、この曲が彼らの代名詞になってほしいと願ってやまない。彼らの各分野に突出したパラメータの中から、「楽しさ」「多幸感」を丁寧に抽出・精製・研磨し、最高の味付けを施した名曲である。曲もMVもきらびやかでとても良い。

「Dizzy Trickster」「fake town baby」「MIDNIGHT JUNGLE」といったかなりパンチの強いロックな楽曲を複数収録しながら、聴き終わった後の印象がしっかりとポップにまとまっているのはこの曲の存在がとても大きい。史上初のシングル曲4曲収録をはじめ、ロックもポップもバラードもジャジーも何でもありのジェットコースターのような面々に好き勝手思うがままにやらせたうえで、アルバムの感想を「この曲への感想」に書き換えてしまうほどの存在感を放つ。

 我らが「harmonised finale」や同アルバム収録の「オーケストラを観にいこう」と同じく、かなり前面にピアノやホーンの音が出ており、特にメインのリフはギター聞こえる? と疑ってしまうほどに大胆に使っている。それでもUNISON SQUARE GARDENらしさが消えず、むしろ要所要所での三人それぞれの見せ場をより強く引き立てるバランスになっていることに編曲の巧みさを感じる。情報量の多さに反して、聴き疲れることもない。

 歌詞については特段好き! ってほどでもないが、それでも曲名でも分かる通り、バンドとファンとの一定の距離感を意識していることが伺える。毎回、色んな言いたいことを独特な語彙と絶妙なワードチョイスで水彩画のインクのようにぼかし、その上でメロディーに無理をさせないように詞を乗せている、彼しか紡げない歌詞である。

 とにかく聴いていてとても「楽しい」、これに尽きる。ライブでも観客のテンションを上げるためのブースターのような位置や、ここぞ、という大事な場面、そしてライブのフィナーレなど、ライブ全体の雰囲気を決める大事な場面で披露されることが多い。今のUNISON SQUARE GARDENを語るうえで欠かすことの出来ない一曲である。

 本当に全方位に隙がない優等生な曲であり、これにタイアップが無いのが信じられないよな~と思って改めて検索したら、サジェストに「君の瞳に恋してない アニメ」だの「君の瞳に恋してない ドラマ」だの出てきて、ああそうだよね、そう思うよね……とつよく頷いた。今からでも良いので主題歌起用とかないんですかね?

 

 

 このほかにもド頭に視聴者を噛み千切りに来る狂犬こと「Own Civilization (nano-mile met)」、正統派爽やかなのに歌詞が俺たちに刺さりまくる「Dizzy Trickster」、ライブツアーで披露された時のインパクトがえげつなかった「オーケストラを観にいこう」、その中毒性抜群のサウンドテキーラで密林に永住するゴリラを多数生み出したと専らのウワサの「MIDNIGHT JUNGLE」、そしてこのアルバム唯一のバラード枠にしてつい最近になってようやく満を持して披露されることとなったこのアルバムにおける真の虎の子「夢が覚めたら(at that river)」など、アルバム曲と言えど個性的通り越して個性の殴り合いのような面々が揃っている。

 最後の「君の瞳に恋してない」のせいでポップで華やかな雰囲気を醸し出してはいるが、有無を言わさず威力でリスナーを殴りに来るその本質は、エンターテイナーというよりも極道に近い。かくいう僕も有事の際はぜひ、MODE MOOD MODE會 君の瞳に恋してない組にケツ持ちを頼みたい

 

 これだけアルバム曲が派手だとシングル曲が食われてるんじゃない? 血界戦線ボールルームへようこそブイブイ言わせてた彼らも面目丸つぶれなんじゃない? と思ったそこの貴方、安心してほしい。そうならないように、むしろアルバム曲を食わないように、MODE MOOD MODEは技巧を凝らした極めて繊細な曲順を実現している。

 個人的に、このアルバムで一番評価すべき点がこの曲順である。何度考えてもケチのつけようのない芸術的な曲順。この曲順に関してはいろいろ言いたいことがあるので、改めて収録曲一覧を紹介する。

 

01.Own Civilization (nano-mile met)
02.Dizzy Trickster
03.オーケストラを観にいこう
04.fake town baby
05.静謐甘美秋暮抒情
06.Silent Libre Mirage
07.MIDNIGHT JUNGLE
08.フィクションフリーククライシス
09.Invisible Sensation
10.夢が覚めたら(at that river)
11.10% roll, 10% romance
12.君の瞳に恋してない

 

 正気の沙汰じゃねえよ……(2回目)

 分かりやすいようにシングル曲だけ色分けをしている。正確に言うならSilent Libre Mirageだけは他の三曲と違って配信限定シングルという違いはあれど、4曲という、過去類を見ない数のシングル曲が収録されている。

 MODE MOOD MODEの曲順において特筆すべき点がいくつかあるのだが、まずは何と言っても「シングル曲が隣り合っていない点」だろう。ここが本当に大きい。絶妙にバラしてあることで、それぞれの個性が強く味の濃いシングル曲によるフックが多く出来ており、アルバム全体として捉えた時のメリハリがとても心地いい。とくにSilent Libre Mirageの位置がもう、ここしかない! って感じでほれぼれする。

 そういえば、記憶が正しければ当時、UNICITY会員限定で収録されるシングル曲の曲順だか何だかを当てよう! みたいな企画があった。MODE MOOD MODEは曲名も発売日当日まで分からないという、今までにない試みの中リリースされたアルバムということもあって発案された企画だと思われる。先に提示された情報をもとにあれこれ考えるのが結構楽しかった記憶があるのだが、この曲順を全部当てた人はいるのだろうか。

 僕は「Silent Libre Mirage」が4曲目だと思っていた。で「Invisible Sensation」がシングル最後の位置だと思っていた。結果的に全部外したうえで自分の考えの大きく斜め上をいかれて、このバンド最高だと感動した思い出がある。「静謐甘美秋暮抒情」で一旦区切りをつけて「Silent Libre Mirage」で再度ブーストをかけて、夢が覚めたら(at that river)で本編を終わらせた後の、ダメ押しとなる「10% roll, 10% romance」と「君の瞳に恋してない」のアンコール。シングル曲がばらばらに配置されてることでアルバム全体がいい感じにブロック分けされており、通して聴いても途中から聴いても満足感のある仕上がりとなっている。ここが本当にえらい。

 

 また「3曲目までにシングル曲を入れない」というのもかなり強気だけど、結果的にこれもアルバムのカラー、雰囲気を強めに一つのシングルで印象付けないことに成功しており、どの曲にも適度に主役感がある。すべての収録曲が一つのアルバムを綺麗な円形にするいい仕事をしており、これだけ個性の強い四曲なのに全体的にまとまりのある、誰からも愛される一枚になっているそのバランスの手腕がすさまじい。

 そしてなんといっても、UNISON SQUARE GARDENのアルバムでは毎回当たり前とはいえ、最後の曲がシングル曲ではないのも本当にえらい。だからこそ「君の瞳に恋してない」を先行で公開したのは惜しいなあと思うんだけど……

 収録曲の個性の強さを理解したうえで、それぞれを際立たせる緻密な構成と、それをサポートする内外の粋な演出の数々によって得られた、アルバムを一つの作品として捉えた時のまとまりと完成度。これがMODE MOOD MODEの魅力の根幹であると信じてやまない。面倒なリスナーへのサポート体制が手厚すぎる。

 

 その曲順と一緒に語るべきなのが、収録曲における「手」を意識した歌詞の数々だろう。これはもう数万人のリスナーが何度も何度も何度も語っている以上、このブログで長々と言及するのは野暮なので簡単に取り上げて終わるが、

 

差し出された手は噛み千切るけど

Own Civilization (nano-mile met)――UNISON SQUARE GARDEN

 

どうしようも馴染めないから 差し出された手は掴まなかった

Dizzy Trickster――UNISON SQUARE GARDEN

 

高らかに 空気空気 両手に掴んで 咲き誇れ美しい人よ

Invisible sensation――UNISON SQUARE GARDEN

 

テイクミーアウト! 照れながら手を握ったら

10% roll, 10% romance――UNISON SQUARE GARDEN

 

僕の手握っていいから

君の瞳に恋してない――UNISON SQUARE GARDEN

 

 シングル曲である「Invisible sensation」および「10% roll, 10% romance」を中心に「手を掴む」ことをどこか意識したような歌詞が随所に仕組まれており、アルバムの終盤に近付くにつれてその距離感が縮まっていく、という構成になっている。これをツンデレととらえるのは解釈違いなのでさておき、こういう一本通ったコンセプトがあるのはとても好みだし、「差し出された手は噛み千切る」と「照れながら手を握ったら」が同じアルバムで収録されていることも嬉しいポイントである。

 ロックバンドの距離感を大事にしている一リスナ―としては、ともすればちょっと近くなりすぎる歌詞、というのはあまり好みではないが、アルバムに一本芯が通っているといくつか有しているバンドとしてのスタンスの一つと納得がいったりする。こういう細かいこだわり、気配りもこのアルバムの魅力と言える。

 

 

 そもそもの楽曲のクオリティ、楽曲それぞれのふり幅の広さ、緻密に練られた曲順の構成、そしてひとつ芯の通ったコンセプトを有する歌詞。

 これだけの聴きどころを詰め込みながら総再生時間がなんと50分を切っているという意味の分からなさ。フルアルバムは総再生時間が50分を切るか切らないかで聴きやすさが大きく変わるという定説を、高校の先生が従姉妹にいるわたくしは提言しているが、このアルバムもその定説に違わず、この中身の濃さでも非常に通して聴きやすい一枚となっている。冷静に考えてこのアルバムが1時間超えてないの相当ヤバい。何この圧縮ぶり。通販で売ってる布団圧縮する機械ですらもうちょっと手加減する。

 

 ロックもオシャレもコミカルも全て超威力で内包したうえで間違いなく「ポップ」という異次元のバランス感覚、どんなUNISON SQUARE GARDENが好きなファンも誰も置いてけぼりにしないクオリティ、それぞれの楽曲のポテンシャルの高さ。何度も何度も繰り返すようで申し訳ないが、総括してあまりに完成度が高すぎる。

 そもそものこのアルバム発売の前年である2017年のタイアップ及びメディアへの露出機会の多さ、そして発売までの数々の粋な演出も相まって、この年までのUNISON SQUARE GARDENの勢いの集大成のような、正当な実力で順当に掴んだミラクルが最高の形で開花した、まさしく「最高傑作」の名が相応しい一枚である。現在最新アルバムであるPatrick Vegeeも、僕が愛してやまないCatcher In The Spyも、伏兵・脇役どころか4番バッター勢揃いのベスト盤ことDUGOUT ACCIDENTも、このアルバムの盤石かつ説得力のある無敵感にはかなわない気がする。

 正直、今後これ以上のオリジナルアルバムが出るとは思えないが、彼らならもっととんでもないアルバムを出してきそうな気もする。彼等ならやりかねない、そんな期待もしてしまう。もしも、そんな一枚を出せてしまったら、間違いなく邦楽史に名を残すとんでもない1枚となることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まあいろいろ書いたけど、それでもCatcher In The Spyが一番強くてすごいんだよね

 そこは譲らん

 

Catcher In The Spy(初回限定盤2CD)

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ラバーバンドと首狩り族と輪投げ屋さん

 もうずいぶん昔、どれくらい昔かというとそう、地元の小規模なサーキットにてKEYTALKがインダスの源流を探し、BLUE ENCOUNTがもっと光を君に届けたくなっていたころの話である。今よりも元気に人生と、そして音楽と向き合う短期大学生だったころの僕はその日、地元のそれなりの規模のサーキットイベントを見に来ていた。

 

 今となっては比べ物にならない規模のフェスの、冗談みたいにデカい会場で歌っているロックバンドたちも、そうなる前は地元の小さなライブハウスや色んな地方の色んなサーキットにて演奏し、そういう場所で名を売って大きくなっていく。当時は4つ打ちダンスビート全盛期、マッシュ頭で高い声のボーカルが中毒性のあるリフとサビを繰り返す感じのバンドがもうびっくりするくらい流行っていた。かくいう僕も、そういうのが好きで邦楽ロックをよく聴くようになったと言っても過言ではない。あの頃の俺はどうかしていた。

 このサーキットイベントには、後に邦楽ロックというジャンルの中で最前線で音楽をやるバンドが揃っていた。KEYTALKBLUE ENCOUNT、WANIMA、ヒトリエパスピエフレデリック。何気に僕が初めてアルカラやGRAPEVINEのライブを観たのもこのイベントだったりする。今となって考えると、自分の音楽人生においてもかなり大事な位置にあるイベントだったのかもしれない。

 ただ、今回の記事においてここから先、これらのバンドの話は一切しない。もう一切しない。1ミリたりとも、しない。今上に出てきたバンドの名前はもう全部忘れてもらって構わない。KEYTALK? 新鋭気鋭のアパレルブランドかな?  そのくらいの知識で読んでもらっても問題ない。今から俺はラバーバンドの話をする。

 

 そのサーキットイベントにて、確かフレデリックか何かの出番を待っていた時に、ひょんなことから自分の隣にいた同年代くらいの、名前も知らない青年と少し会話をした。丸眼鏡が特徴の、純朴そうな顔をした青年だったように思う。それなりにレベルの高い私大から地元の有名企業に入り、良妻賢母な奥さんを貰って庭付きの一軒家を建てて子供二人と幸せな人生を送ることが確約しています、みたいな顔でにこやかに会話をする彼に、特段目立って変なところは無かった。

 

 彼が背負っていたリュックサックを除けば、の話だが。

 

 その青年の背負っていたリュックサックは、ラバーバンドの極彩色に埋め尽くされていた。いや、もはやリュックサックにラバーバンドが付いているとかそういう次元ではなく、ラバーバンドの集合体にリュックサックが隠されている、そんな状態だった。リュックサックのチャックすら見えないし、もっと言えば彼が背負っていなければリュックサックだと認識すら出来ない可能性がある。例えるなら、まわりにラバーバンドしかないという奇抜な環境で育ったクソでかいミノムシから無理やりミノを剥ぎ取って我が物にしたような、そんな感じである。純朴そうな顔をした彼は、顔に見合わず追い剥ぎの可能性があった。

 生まれ変わったらリュックサックになりたい、と思ったことは無いが、もしリュックサックに生まれ変わるとしても彼の背負うリュックサックにだけはなりたくない。機能性をかなぐり捨てたある種狂気的とも言える密集したラバーバンドの圧は、僕にそう思わせるだけのリュックサックに対する圧倒的なまでの人格否定と人権無視があった。

 別に僕は彼の行動にケチをつける権利も無いし、ましてやこのリュックサックに温情など欠片も無い。ただ、カラフルなオウムのように目を引くその集合体が気になって仕方なく、ついに我慢できなくなって恐る恐る切り出した。

「めっちゃラバーバンドついてますね」

 あまりに常軌を逸したビジュアルであるそれに関して、どう尋ねて良いのか悪いのかの判断がつかなかったが故に多少身構えてしまったが、彼は特に気を悪くした様子も無く、「ああ」と自分のリュックに視線を向けた。

「まあ、けっこう付いてますかね」

「いやすごいっすね。僕はラバーバンドあんまり持ってないですけど、やっぱり、ラバーバンドって買っちゃうもんなんすかね」

「まあ、自分が参戦したライブの記念に買ってるとこありますよね~」

 

 参戦した、記念に、買っている。

 さささ、参戦……?

 

 今となっては特に何も思わないが、当時はTwitterもろくにやっておらず、#日曜日なので邦楽ロック好きと繋がりたい、みたいなハッシュタグも知らなかった僕は、「参加」や「鑑賞」ではなく「参戦」という剣呑な言葉をチョイスする彼に、ささやかなど肝を抜かれた。僕が「YouTubeでしか見たことないバンドがたくさん来てる~ッひゃっほ~~~ゥ」と呑気に突っ立っている横で、彼は戦に臨む心持ちでライブを観ていたのだ。

 バンドのライブに「参戦」した記念にバンドのラバーバンドを買い、それをその激ヤバ・リュックに付けてまた他のライブに行く……そのサイクルを繰り返しているという彼のその純朴そうな顔に、百戦錬磨の戦を制してきた歴戦の侍の如き風格を感じた。リュックサックについたラバーバンドが、落とした敵将の首のようにすら思えた。

 いや、そのリュックサックの醸し出す圧倒的な"圧"からして、もはや彼はライブではなく、ラバーバンドを集めることが目的となった可能すらあった。その疑念に応えるように、彼はさらに言葉を続ける。

 

「ライブ終わって家でラバーバンドをリュックに付けているときが、一番楽しいかもしれないっすね」

 

 疑念が、確信に変わった瞬間だった。こいつ首狩り族みたいな思考回路だ。

 首狩り族が本来どういうものなのか、どういった過程でその残虐な風習を行うことになったのか、それがどういう意味合いを持っていつまで続けられていたのか、その風習が弊社にどんなイノベーションをもたらすのか、そういったことは何も知らないが、とにかく、こいつは首狩り族の末裔だと確信した。

 

 その後もそのサーキットイベントにて、目的のバンドが合えばなんとなく一緒に観ていたが、結局互いにろくな自己紹介しないままサーキットの波に吞まれるように挨拶もなく別れ、その後は一度もどこかのライブばったり会う、なんてことも無かった。ただ、今でもあの異様なリュックサックは自分の記憶の中に鮮明に残っている。もはやサーキットイベントそのものよりも鮮明に残っている。未だに、大量のラバーバンドを見に付けている人をライブハウスなどで見かけるたびに脳裏に首狩り族というワードが浮かぶので、彼のことを畏敬の念を込めて首狩り族と呼んでいる。

 

 

 あれからもう、10年近くが経った。元気な短期大学生だった僕は社会というクソみたいなノンフィクションによって鼻と足と心とささやかな自信をへし折られ、身体や精神を壊しながらもアホみたいな時間外労働をこなしたり退職して半年くらい無職をしたり転職先で上司に違法マイクで怒鳴られたりとしている中でも、好きなバンドのライブを節目節目に刻みながら、ニポンとかいうヤクザ国家に何とかかんとかクソ高い税金を納めて頑張っている。

 Twitterという、最近イーロン・マスクと名乗るヤバイ外国人に買収されたSNSを始めるようになって、「参戦」という言葉にも随分慣れたし、邦楽ロックが好きな方々がどうやって同じ趣味の同志を見つけているのかが分かった。Twitterのフォロワーが「今日は○○のライブに行きます!」と手首にラバーバンドを巻き付けている写真を見て、僕はときどき、あの首狩り族の背負っていたリュックサックを思い出す。

 

 首狩り族は、今でもバンドを追い、ライブを観続けているのだろうか

 

 観ているとしたら、未だにあのリュックサックにはラバーバンドが増え続けているのだろうか。約10年前にあれだけの”圧”を放っていたのだから、今はもう香川県くらいは圧殺出来るくらいの規模になっていると考えてもいいかもしれない。彼が、この世に存在するラバーバンドの何割かを所有していると考えてもいいかもしれない 彼が、ラバーバンドの代名詞となったと言っても過言ではないかもしれない

 

 彼が、彼自身が、ラバーバンドになってしまったと考えても問題ないかもしれない

 

 無数のラバーバンドに覆われた彼はさながらカラフルなム○クのような風体で、ラバーバンドで埋めつくされた香川県を卓越した筋力によるクロールで縦横無尽に泳ぎ回り、ラバーバンドを食べて、ラバーバンドのベッドで寝て暮らしているのだ。ラバーバンド伝道師である彼の尽力によって、今や香川県はラバーバンドの一大産地となり、段々畑や養殖場からは毎日新鮮なラバーバンドが収穫されている。

 彼の影響で近年、香川県の名物であるうどんすらもその素材を小麦からゴムへとシフトしつつあり、ラバーうどんのコシのレベルは小麦の時代と比較してももはや別次元の境地へと進化したとされる。現地の人ですら噛み切れない圧倒的な弾性は「もはや食べ物ではない」と大変好評である。観光客カップル向けに作られたラバーうどん、その名も「loverうどん」も一日におよそ数億杯売れるほどの大ブレイクを見せている。噛まずに呑み込むことが出来ればその恋は末永く続くらしい。なんてすばらしいうどんなんだloverうどん。ああloverうどん。すばらしきかなloverうどん。loverうどんって何?

 一体自分は何の話をしているのだろうか。この世にラバーうどんなんてものは存在しないし、ましてやloverうどんなんてもってのほかだ。ラバーバンドは腕に付けるものであって食べるものではない。何がloverうどんだ、そんな突飛なもの食べるやつがまともなわけないだろう。寝ぼけるな 水素水で顔でも洗ってこい

 だいたい香川県はラバーバンドで埋め尽くされてはいないし、丸眼鏡の純朴そうな青年がラバーバンドの代名詞となった事実もない。ありもしない妄想で文字を連ねるのはやめろ こういう人間が陰謀論にハマったり人を殺したりするのだ

 

 

 ではもうライブを観ていないとしたら、あの大量のラバーバンドはどこに行ったのだろうか

 ラバーバンドほど、ライブに行かなくなった後の人生において、今後の活躍が一切見込めない物体もないだろう。バンドのグッズは普段使い出来てナンボと考えている僕にとっては、あの謎にふにふにとしたアクセサリーはライブ以外で何に使えばいいのか分からない、という理由で買う気にもならない。髪でも結ぶのか?

 となるとラバーバンドはゴミとして捨てるか売りさばくかするしか処分の方法が無くなるわけだ。首狩り族がもうバンドや音楽ライブは卒業したとして、メルカリに今まで集めてきたラバーバンドをせっせと一つ一つ写真に撮り、バンド名を明記してメルカリに放流していく彼を思い、僕はふと、あることに気が付いた

 

 もはやそれはもう「輪投げ屋さん」ではないか?

 縁日の輪投げ屋に輪投げの「輪」を卸売りする「輪投げ屋さん」ではないか?

 

 これまで、縁日の輪投げ屋はどこであの、人生において他のどこにも活躍シーンの無い、小人用のフラフープを買っているのか長らく疑問だったが、ようやく理解出来た。あの輪投げは、首狩り族を引退した輪投げの卸売り業者から買い取っていたのだ。またひとつ賢くなってしまった。

 いや、待て、子供の頃の記憶をたどったが、縁日の出店の中でも他の娯楽に一歩劣る輪投げなんて極めて単調な遊戯、数えるほどしか遊んだことがないとしても、それでもなんとなく覚えている。あの輪っかは結構硬かったはずだ。それで殴ったら部位によっては血が出る程度の硬度は有していたように思う。ラバーバンドはラバーというだけあって、それなりに柔らかい。

 食べ物でも布団でも何でもそうだが、基本的に柔らかいものは硬いものより高級な傾向にある。ラバーバンドの柔らかさから考えて、普通の輪投げの輪っかと比較すれば和牛とアンガス牛くらいの差はありそうだ。なにせ一個あたり約500円である。首狩り族の輪投げ屋が卸売りである以上、利益を出すために2~3倍の値段は余裕でつけるであろうことを考えると、一つあたり1000円から1500円クラスと考えても良い。まさしく、最高級の輪投げである。

 最高級の輪投げ屋は、上流階級専用の遊興施設にて不定期に店を開く。広大な敷地面積をふんだんに使った、縁日ではまずお目にかかることの出来ない規模の輪投げである。客は定位置から自らの手で輪を投げるのではなく、ある一定の高さに滞空しているドローンを使って、遠隔操作で狙った位置にラバーバンドを投げる。

 肝心の景品は、庶民の縁日に出されるよく分からないこけしや麩菓子といったような、しょぼいものではない 。例を挙げるとするなら、ニンテンドースイッチ、PS5、iPad、防音室、BMW、土地、ソープ嬢著作権などなどなど。おおよそ庶民の縁日ではまずお目に掛かれない景品が並ぶが、これらはすべて外れとされる。この世界の勝者である富豪たちがこの最高級輪投げで狙うものは他でもない、庶民の「思い出」である。

 欲しいものは何でも手に入り、庶民の感じる種類の苦労を知らずに生きて来た彼らからすると、庶民の素朴な身の上話の一つ一つがちょっとしたフィクションのようなものだ。それも、経済的な力の無さゆえに、負の感情に苛まれた人間のエピソードが人気が高い。これは富豪に限った話ではないが、人間は時折、他人が不幸に見舞われることを上質な娯楽として楽しむことがある。所謂「シャーデンフロイデ」と呼ばれる感情である。世の中に悲惨なノンフィクションを書き綴った本が途絶えないことがその証左と言えるかもしれない。

 金がない、地位がない、権力がないというのは、物心ついた時からそれらを持ち合わせていた彼らからすれば、手足がないようなものだ。故に彼らは、彼らが生まれたその時から手に入れていた優位を持ち合わせていない人間の、境遇や生活や懊悩の想像が出来ない。故に、彼等は庶民の悲惨な現実が生み出したエピソードを、子供が寓話の読み聞かせをねだる様に欲する。

 今日もまた一人の富豪が、そんな庶民の思い出を欲して輪投げに興じていた。

 

 滞空するドローンから射出されたラバーバンドが、立てかけられた一本の古びたボールペンをくぐる。それを確認した輪投げ屋が、手元の鐘を鳴らした。

「おめでとうございます、それは数年前にある学生が失くしたボールペンです」

 庶民の「思い出」は、その「思い出」の詰まった景品をゲットすることで、輪投げ屋の口から語られる仕組みとなっている。

「このぼろいボールペンにはどんな悲惨な思い出が詰まっているんだ?」

 興味津々といった様子を隠し切れない富豪をじらすように、二、三度咳払いしてから、輪投げ屋はゆっくりと語りだした。ごくありふれた、庶民のささやかな、実ることの無かった恋愛劇だった。

 富豪は激怒した。富豪が求めていたのは、例えばお金がなかった故に転落人生を歩み、最後はそのボールペンで首を突いて自害したとかそういう、悲惨で救いの無いエピソードだったのだ。そんなくだらないものを景品に入れるなど客商売失格だと、口角泡を飛ばして罵倒する富豪に、輪投げ屋は涼しい顔でこう言った。

 

「僭越ですが、あなたは道端に咲いた花を見たことがありますか?」

 

 その突拍子もない返答に思わず怪訝な顔をする富豪を気にすることなく、輪投げ屋は続ける。

 

「自分語りになりますが、私はもともと貴方達のような、いわゆる恵まれた家庭に産まれました。物心ついた頃から底の無い財を湯水のように使える生活は極めて幸福なものでしたが、或る時両親の経営する会社で大きな不正が発覚して信用は地に落ち業績は急激に悪化、それからは転がり落ちるように生活のグレードは下がり、私が高校に上がるころには財産のほとんどを手放しておりました。世間からは「没落貴族」などと揶揄され、歯がゆい思いも経験したものです」

「一般的な高校に入学し、庶民と同じグレードの生活をするのは、はっきり言って苦痛でした、特に、リムジンを使わない通学を続けることが本当に苦しかった。毎日重い荷物を持って、長い帰路を歩くあの苦しさはとても耐えられるものではありませんでした。世間のバッシングと長く険しい登下校を繰り返す毎日に、肉体も精神も限界を迎えたある日、募った疲労に負けるように道端の花壇に腰を下ろした私は、そこで一輪の小さな花を見たのです」

「寂れた路地裏、人々の喧騒、投げ捨てられたゴミと乱雑な落書き。猥雑な大都市の中で、その小さな花びらを誇らしげに開くその花のなんと美しいことでしょうか。しばし見とれた後、私は思ったのです。ああ、リムジン最後尾からはこの花をみることは出来なかっただろうと。気付いたのです。お金で買える幸せだけが全てじゃないと。これに気付いてから、私の人生は大きく変わったのです」

「確かに庶民は貴方達に比べて恵まれてはいません。いつもお金に困っているし、何かを妬み、僻んでいる。けれど彼らは道端に咲いた花の綺麗さを知っている。素朴で、ささやかで、しかしかけがえのない小さな幸せを拾い集める術を知っている。私はそんな庶民たちが紡ぐエピソードを愛しています」

「私が今回景品として用意したのは、貴方達が望むような、言葉にすることもはばかられるような悲惨な思い出ではありません。彼らの中にきらめく、ささやかでピュアで、それでいて明日への希望を抱けるようなものです。そのものに込められ、託された儚くも美しい思い出です」

 

「貴方が今輪投げに使ったそのラバーバンドにも、思い出が詰まっているのですよ」

 富豪はハッとした顔で、足元に落ちたラバーバンドを見る。薄汚れてぼろぼろのそれには、富豪の知らないロックバンドのロゴが刻まれていた。

 

「そのラバーバンドの持ち主は、有名無名関係なく多種多様なロックバンドのライブを観賞すること、そしてその会場でラバーバンドを手に入れることを至上の喜びとする青年でした。飽くなき探求心で様々なロックバンドを知り、チャンスさえあれば欠かさずライブに行き、ラバーバンドを買い、自身の背負うリュックサックに付ける……それを繰り返し、異様な物体となったリュックサックを誇らしげに背負う彼は、畏敬の念を込めていつしか「首狩り族」と呼ばれるようになりました。貴方が今放ったラバーバンドは、そんな彼が有していたうちの一つです」

「Tシャツやタオルなどとは違って、ラバーバンドは使用用途が非常に限られています。この世で一番要らないものは音楽に飽きた後のラバーバンド、という格言もあるほどです。しかし、殆どのアーティストはラバーバンドを作り、売っている。それはラバーバンドが安価で作れて、手ごろな値段で売れるからです。懐に余裕のない学生でも、ライブの思い出を、分かる形で残すことが出来る」

「だからこそ、彼らはラバーバンドに思い出を託すのです。思い出を詰めるのです。そしてそれをつけてまたライブに行き、誇らしげにそれを掲げるのです」

 

 形あるものを手元に残すことで、記憶されるささやかな思い出がある。これまで膨大な、途方もない単位でしか物事をみたことがなかった富豪は、自分の見えていなかった小さな幸せの尊さに気付き、愕然とした。

 気付けば富豪は涙を流していた。懸命に生きる彼らの中に、素朴ながらもひっそりと輝き続ける思い出を使い捨ての娯楽のように粗末に扱っていた、これまでの自らの行いを恥じた。そして泣き顔のまま、ラバーバンドを握りしめてこう言った。

 

 

 

「このラバーバンド、ください」

 

 

 

 

 輪投げ屋は、変わらず涼しい顔をしてこう言った

 

 

 

 

 

「3000円です」

 

 

 

 

 

 これが

 高額転売の実態である 

もしもCatcher In The Spyに「Catch up,latency」が収録されていたとしたら

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 何が起こると思いますか?

 


 そう、Catcher In The Spyを引っ提げたライブツアーであるCatcher In The Spy tourにて「Catch up,latency」が披露されることになります

 

 では、もしもCatcher In The Spyが大好きなリスナーが、このCatcher In The Spy tourを観に行ったら何が起こると思いますか?

 そう、Catcher In The Spyが大好きなリスナーが参戦したCatcher In The Spyを引っ提げたライブツアーであるCatcher In The Spy tourにて「Catch up,latency」が披露されることになります。

 

 では、もしもこのリスナーが高校野球部でキャッチャーをやっている「THE CATCH」リスナーで、好きな映画は「THE CATCHER」で愛読書が「ライ麦畑でつかまえてcatcher in the rye)」だったら何が起こると思いますか?

 そう、Catcher In The Spyが大好きなリスナー(高校野球部でキャッチャーをやっている「THE CATCH」リスナーで、好きな映画は「THE CATCHER」で愛読書が「ライ麦畑でつかまえてcatcher in the rye)」)が参戦したCatcher In The Spyを引っ提げたライブツアーであるCatcher In The Spy tourにて「Catch up,latency」が披露されることになります。

 

 では、もしもこのリスナーがライブ会場である広島spiderまで今回のCatcher In The Spy  tourを冠するアルバムであるCatcher In The Spyを聴きながら愛車であるGH-SPYに乗って辿り着き、帰りに飲み屋のキャッチに声をかけられたら何が起こると思いますか?

 そう、Catcher In The Spyが大好きなリスナー(高校野球部でキャッチャーをやっている「THE CATCH」リスナーで、好きな映画は「THE CATCHER」で愛読書が「ライ麦畑でつかまえてcatcher in the rye)」)が、会場である広島spiderまで今回のCatcher In The Spy tourを冠するアルバムであるCatcher In The Spyを聴きながら愛車であるGH-SPYに乗って向かったCatcher In The Spyを引っ提げたライブツアーであるCatcher In The Spy tourにて「Catch up,latency」が披露され、このライブの帰り道に飲み屋のキャッチに声をかけられることになります。

 

 ではこの飲み屋のキャッチCatcher In The Spyが大好きで、つい先日行われた別会場のCatcher In The Spy tourに参加し、そこでも「Catch up,latency」が披露されていたらどうなると思いますか?

 そう、Catcher In The Spyが大好きなリスナー(高校野球部でキャッチャーをやっている「THE CATCH」リスナーで、好きな映画は「THE CATCHER」で愛読書が「ライ麦畑でつかまえてcatcher in the rye)」)が、会場である広島spiderまで今回のCatcher In The Spy tourを冠するアルバムであるCatcher In The Spyを聴きながら愛車であるGH-SPYに乗って向かったCatcher In The Spyを引っ提げたライブツアーであるCatcher In The Spy tourにて「catch up,latency」が披露され、このライブの帰り道に飲み屋のキャッチ(Catcher In The Spyが大好きで、つい先日行われた別会場のCatcher In The Spy tourに参加し、そこでも「Catch up,latency」が披露されている)に声をかけられることになります。

 

 ではこの10年後、このリスナーが現在はプロ野球キャッチャー(入場曲は「Catch up,latency」)をやっており、かつて「THE CATCH」のメインパーソナリティだった女性(Catcher In The Spyが大好きで当時のCatcher In The Spy tourに参加し、そこでも「Catch up,latency」が披露されている)と結婚し子供(catcher in the spyが大好き)も生まれ、今のマイブームが「子供とキャッチボールをすること」と「SPY×FAMILY」だったらどうなると思いますか? そう、これだけでは何も起こりません。

 


 では、Catcher In The Spy revival tourが行われ、そこでも「catch up,latency」が披露されたらどうなると思いますか?

 


 そう、Catcher In The Spyが大好きなリスナー(高校野球部でキャッチャーをやっている「THE CATCH」リスナーで、好きな映画は「THE CATCHER」で愛読書が「ライ麦畑でつかまえてcatcher in the rye)」)が、会場である広島spiderまで今回のCatcher In The Spy tourを冠するアルバムであるCatcher In The Spyを聴きながら愛車であるGH-SPYに乗って向かったCatcher In The Spyを引っ提げたライブツアーであるCatcher In The Spy tourにて「Catch up,latency」が披露され、このライブの帰り道に飲み屋のキャッチ(Catcher In The Spyが大好きで、つい先日行われた別会場のCatcher In The Spy tourに参加し、そこでも「Catch up,latency」が披露されている)に声をかけられた10年後にプロ野球チームのキャッチャー(入場曲は「Catch up,latency」)となり、かつて「THE CATCH」のメインパーソナリティだった女性(Catcher In The Spyが大好きで当時のCatcher In The Spy tourに参加し、そこでも「Catch up,latency」が披露されている)と結婚し子供(Catcher In The Spyが大好き)も生まれ、今のマイブームが「子供とキャッチボールすること」と「SPY×FAMILY」であるそのリスナーが「Catcher In The Spy revival tour」に参加し、そこでも「Catch up,latency」が披露されることになります。

 


 これが物事の本質です

 こちらセットリストを貼っておくので参考にしてください

 

 01.黄昏インザスパ

 02.サイレンインザスパ

 03.天国と地獄

 04.流れ星を撃ち落せ

 05.Catch up,latency

 06.サイレンインザスパ

 07.君が大人になってしまう前に

 08.メカトル時空探検隊

 09.何かが変わりそう

 10.流れ星を撃ち落せ

 11.蒙昧termination

 12.君が大人になってしまう前に

 13.シューゲイザースピーカー

 14.harmonized finale

 [ドラムソロ〜セッション]

 15.天国と地獄

 16.シューゲイザースピーカー

 17.桜のあと(all quartets lead to the?)

 18.サイレンインザスパ

 19.黄昏インザスパ

 (EN.)

 01.instant EGOIST

 02.サイレンインザスパ

 03.Catch up,latency

 

 

 

 敬具 結んでくれ

 俺が正しくなくても

CRYAMY『#4』ディスクレビュー

 

#4(ポストカード付)

#4(ポストカード付)

  • アーティスト:CRYAMY
  • nine point eight
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 ひどいEPだと思った。本当にひどい。

 なんで1曲目の終わりが「死ね」なんだよ。おかしいだろ。

 

「死んでしまえ」と言われたいよ

なにもかも懸けて尽くしたって

差し出せないならそこから飛び降りて

死んでしまえばいいよ 撞着の末に破滅を選びたいよ

死ね

 

CRYAMY――マリア

 

 もともとダメな自分をあざける様な、呪うような、そういうどうしようもない憂鬱と鬱屈と諦念、の中にほんの少しの希望を混ぜて歌うバンドではあったが、今作『#4』は、それが今までの作品以上に極端な出来栄えとなっている。何というか、ネガティブ・ポジティブ、そのどちらの表現もこれまでに比べてかなりストレート。全体的にかなりパンチが強く、辛辣。子供の教育には間違いなく良くない。

 のっけからいきなり「死ね」の連打とカワノの地鳴りのようなシャウトで終わる曲をぶつけてきたかと思えば、二曲目の「スカマ」では

 

吐いたって病んだって簡単に被害者ぶったって

誰もお前のことを大事になんてしないよ

 

CRYAMY――スカマ

 

 破ってただろ心のノートとか。

 なんでそんなひどいことばっかり、しかもよりにもよってサビで歌うんだよ。情操教育をろくに受けずに育ったことがありありと見て取れる。よりにもよってこんな滅茶苦茶な歌詞に、ため息が出るほど秀逸な歌メロが被さっているのだからもう手に負えない。曲さえ良ければ何歌っても良いと思ってる。飯さえ旨ければ如何なる横暴も許容されると認識している料理屋の思考。うちの近所のラーメン屋かよ。

 これまでもそれなりにえげつないことを歌ってきた曲はあったが、「スカマ」や「E.B.T.R」そして「悲しいロック」あたりの歌詞はこれまでにリリースされた曲に比べても格段にド直球に心をえぐってくる。ソングライターであるカワノの痛みを音を通して叩きつけられるような心地。彼の痛みを金で買っている。実質Pay money To my Pain

 

粉を拭いちまうくらい 肌をかきむしってんのは

それより気持ちの良いことを知らないから

 

CRYAMY――E.B.T.R

 

 この歌詞が今までのCRYAMYの曲の中で一番好きかもしれない

 30分弱のボリュームに詰め込まれた鬱屈は、とてもじゃないけど収められる濃度のものではない。歌詞カードを読みながら聴くと胸やけと痛みで一杯一杯になってしまうが、それでも何度も聴いてると自然と口ずさむようになってしまう。げに恐ろしきは歌メロのクオリティ。カワノは本当に、現代邦楽ロックシーンにおいても屈指のメロディメーカーだと思う。

 それにしたってひどい。本当にひどい。きっと同じことを他のバンドで歌ったってこんなに真に迫ることは無い。聴いててこんなにダメージを受けることは無い。なぜCRYAMYの演奏で、カワノの声で歌われるとここまで重さを、痛みを内包するようになってしまうのだろう。一種の魔力のようにすら思える。

 

 

 どの曲も好きなのだが、個人的に一押しなのが5曲目の「ALISA」である。

 昨年彼らのライブを観に神戸まで行ったのだが、そこでのアンコールで新曲として披露された時からずっと気に入っていた。MCの内容を明確には覚えていないのだが、確かカワノ自身の母に向けて書いた曲だと言っていた気がする。

 CRYAMYのライブを観たことがある人は分かると思うが、カワノは相当暴れるギターボーカルである。これまで数回CRYAMYのライブを観てきたが、彼が音源通りに歌ったことは数えるほどしかなかったし、タミ○ルでもキメてんのかと思ってしまうくらいにめちゃくちゃな動きをする。激情的にも破滅的にも見えるそのライブパフォーマンスは、これこそロックンロールだと思う気持ちもある反面、良い歌なんだからちゃんと歌ってくれよとも思う気持ちも無くは無い。ただまあ素直にマイク前に立って行儀よく歌うカワノが見たいかと問われると、正直首を傾げてしまう。あれはあのままで良い。

 神戸で披露された「ALISA」は、ミドルテンポのバラードという面を考慮しても、そういう意味では珍しく本当に綺麗に歌われたように記憶している。サビの裏声もきちんとしていたし、歌詞もいつもに比べればちゃんと聴きとれた。

 このEPは前半4曲が負の感情を、後半2曲が正の感情を歌っている構成となっているのだが、5曲目であるこの「ALISA」は、詞の中身としては救いの無いものとなっているのだが、語り口の違いと、他の曲より詞世界の輪郭が強く浮き出ていることからか、どことなくあたたかな印象を受ける。

 

誰かの涙で照らされていた

犠牲の上で成り立っていた日々はまるでゴミのようだ

私の拒んだあの人とずっと暮らしていたかったけど

ありふれた日々に返してしまう

 

CRYAMY――ALISA

 

 CRYAMYは隠すことなく絶望を歌うが、臆すことなく希望も歌う。そのバランスがとても心地良い。この「ALISA」は、そんなCRYAMYのスタイルを表しているかのような曲だ。

 曲としてもサビのファルセットが魅力的な相変わらずの美しい歌メロで、最後の母親に向けたらしき一連の歌詞も非常に魅力的である。EP全体を通しても白眉の出来であるこの曲は、絶望も、それと表裏一体である希望も同じように、ただありのままを歌うこのEPにおいて、重要な転換点になっている一曲だと感じる。

 

 

 昨年リリースされた初のフルアルバム「CRYAMY-red album」を聴いた時も思ったが、カワノは自分自身を削って曲にしているように思ってしまう。アーティストという生き物は総じて、文字通り身を粉にして作品を生み出しているとは思うのだが、カワノは、そしてCRYAMYというバンドは他と比べてもその傾向を顕著に感じる。

 剥がれ落ちた自らの破片を、執拗に、丹念に磨き上げて出来た7曲。そのどれもが異なる方向を向いているが、共通して自らの代謝を音楽にしたようだと思った。ぬかるみのような日々の中で、自身の代謝によって剥がれ落ちた魂を拾い集め、丹念に磨き上げて作られた曲は、まるで鏡面のような反射性を帯びてリスナーを刺す。

 そのストレートな歌詞が、こちら側の心の柔らかな部分を突き刺してくるようにも、はたまた包み込んでくれるようにも思わされてしまうのは、このEPを通して無意識に自分の鏡像を映し出して、自身を見つめなおしているが故ではないか。

 


www.youtube.com

 

「君のために生きる」と言う

君のためだけに出来る限り

そして何も変えられず暮れちまっても

当たり前に愛してるよ

 

CRYAMY――WASTAR

 

 どこまで行っても自分を誰よりも理解できるのは他でもない自分しかいないし、だからこそ自分の弱い部分からは誰もが目を逸らしたくなる。このEPを繰り返し聴いていると、知らず知らずのうちに見ないふりをしていた自分自身の弱さを見せつけられ、逃げるなと言われているかのような心地になってしまう。歌詞を一通り飲み込んだ上で聴くと、余計にそう思う。ほんとうにひどいことを書く。容赦がない。

 しかし、容赦がないというのは、言い換えれば噓が無いということでもある。故に彼が書いたこれまたストレートな希望の詞もまた、同じくらいにストレートに自分の中に響くし、勝手にこちらが救われてしまうだけの強度を有している。

 

正しいまま日々にとける

悲しいあなたを分かってる

ただ優しい人に送る

優しいあなたを守ってる

 

CRYAMY――待月

 

 なんてことない普遍的な希望の詞でも、鬱屈も諦念も隠さずに歌うこのバンドにて紡がれたそれは、言葉の持つ力に加えてぐっとその重さが増す。自分の弱さと向き合って逃げてしまった結果CRYAMYにたどり着いた僕のようなリスナーは、きっと彼らの音楽を聴いて、彼らの言葉を噛み締めて、逃げてしまったその先も無情に続く毎日とに、立ち向かっていくのだと思う。

 

 

 Catcher In The Spyに捧ぐ記事を除けば、このブログにおいてはこの記事が初めてのディスクレビューとなる。

 ディスクレビューといえば良い感じの副題がついているイメージがあるし、実際僕もこの記事を書く時に何かしら副題を付けようといろいろ考えたのだが、結局思いついたどれもしっくりこなくてやめた。文字通り彼らが魂を削って作り上げたこの一枚に、余計な言葉は、副題はいらないと思い、レビュータイトルも至極シンプルなものにした。

 上でつらつらと何かいろいろ書いたが、結局言いたいことは「良い演奏と良い歌メロと良い歌詞と良いボーカルが揃った良いバンドの良いEPだから聴いてくれ」だけだ。それ以外の文言は、この音楽の前では刺身の上の食用菊くらいに何も要らない。臆すことも隠すこともなく全力でぶつかってくるバンドなのだから、何も心配することなく耳を委ねるといい。

 

 バンドの意向もあってか現状サブスクは解禁されておらず(以前書いた記事で「いつかサブスク解禁されるから転売品は買うな」とか書いて申し訳ない)、CDを買って聴くことになるのだが、定価2200円の価値は間違いなくあると僕が保証する。サブスクに慣れ親しんだ今ではCDなんて前時代的なメディアはもう煩わしいかもしれないが、これもまた今となっては貴重な音楽体験の一環である。それも含めて是非、この傑作を体感してほしい。

いつか全てを忘れていくとしても

 一昨年、祖母が亡くなった。

 入院していた際に食べていた病院食を、何かの拍子に喉に詰まらせてしまったことによる窒息死だと、寝かされた祖母の周りで慌ただしく動き回る親戚一同の会話の中で知らされた。訪れる人々が悲嘆の涙にくれて枕元で顔を覆う中、仕事終わりに慣れない喪服を着て、50キロ以上ある海岸沿いの一本道を駆け抜けてきた僕は、祖母が亡くなった実感もなくただぼんやりと、祖父や母に言われるがままに来客の対応をこなしていた。

 母によって死化粧をされた祖母の肌は防腐のための冷却材によってか驚くほど冷たく、指先で軽く触れたぺったりとした肌の質感は、合成ゴムのような無機質さすら感じさせた。生まれて初めて味わった、皮膚という薄皮一枚で隔てられた生と死の境界の感触だった。

 役所への色んな手続きを済ませて、通夜を迎え、葬式もつつがなく終わり、骨だけになった祖母を親戚一同で骨壺に詰め、「精進明け」と称した酒盛りで潰れる年寄り連中のアッシー君を悪態を付きながらこなすなど慌ただしく駆けずり回っていたが、数日も過ぎれば今までどおり、静かな祖父母の家へと戻った。

 何もかもが終った後に、1人で祖父母宅近くの海岸に足を運んだ。かつて小さな造船会社があった跡地には赤褐色の錆を帯びた小さな部品やネジがところどころに転がり、コンクリート製の堤防から掛けられていた木製の桟橋は先端だけを残して撤去され、訪れるたびに景色が寂しくなっていくようだった。ゆるやかな潮風でうっすらと波立つ青い水面と、対岸にぽつぽつと浮かぶ小型の漁船、そして彼方に見える白い鋼橋だけが、幼いころと何も変わらなかった。

 

 四十九日に再び祖父母の家を訪れた際に、かつて祖母が手入れしていた畑を見に行った。

 畑とはいってもそんな広大なものでもなく、広さにすればせいぜい学校の教室程度の小さなものである。何を植えていたかは知らないが、祖母が振舞う料理にはよく玉ねぎやさつまいもの天ぷらのような唐揚げのようなものがあったので、きっとそれらを育てていたのだと思う。どうせ二人で食べきれないのに沢山収穫して余らせてしまい、母が渋々引き取る光景を今まで幾度も見てきた。

 畑は雑草塗れだった。畑だけでなく、畑につながる道すらも背の高い雑草に覆われ、それを無理やり踏みつけながら歩かないと、ろくに畑の全景も見えない有様だった。たった数ヵ月でここまで侵食されるものなのかと、戦慄にも似た感情を抱えてふと後ろを振り向くと、そこは一面のチガヤで埋め尽くされていた。

 祖母の手入れしていた畑と道一本挟んだそこは数年前までは水田だったが、地域住民の高齢化に伴って放棄されるようになり、あっという間に雑草があたりを埋め尽くしたらしかった。まるでカマキリの卵嚢を彷彿とさせるような綿毛に包まれた先端が風に揺れる。乾燥してひび割れた地面に、背の高い雑草がおびただしく並ぶ様子に、少なからず恐怖のようなものを覚えた。

 

 道は、人が通わないと驚くほど急速に侵食されていく。自然や、時間に。

 道だけではない。人間の作ったものの多くは、せいぜい数十年しかその機能を維持できない。例えば、身近な音楽メディアであるCDがそうであるように。

 今僕らが大切に棚に保管している、敬愛するアーティストが渾身の思いでリリースしたCDの寿命は、せいぜい30年程度だと言われている。反射膜のアルミニウムが酸化してしまうからだ。当たり前のようにずっと先の未来を歌い、当たり前のようにずっと先の未来を期待するロックバンドとそのファンを繋ぐ象徴のようなメディアの寿命は、どれだけ甘い目で見ても永遠なんてものではない。

 我々は口からこぼれてしまう出まかせのように軽く永遠を思い、指切り程度に軽く永遠を誓い、一昨日食べた夕食のように容易に永遠を忘れゆく。そうやって語られ、誓われた永遠は、誰も知らないところで風化し、そして本当に何もなくなる。今までもこれからも、幾千もの永遠が生まれ、そして知らず知らずのうちに消えてなくなっていく。まるで、はじめから何もなかったかのように。

 親愛なる家族との今生の別れすら、数週間も経てば受け止めて前を向けてしまう我々は、いずれその大脳辺縁系ごと息絶え、灰と化し、そしていつかはこの世に生きている誰の記憶からも消え去り、自分の生きた軌跡ごと忘却という名の永遠に吞まれてゆく。

 このことは一生忘れないだろうな、と思ったことを、明日には記憶の片隅にしか置いていない。昨日の素敵な思い出も、結局は今日の晩御飯と明日の不安に追いやられてしまう。早すぎる世界の中で生きているとつくづく思う。

 

 いつか我々はすべてを忘れゆく。我々の生み出した物も、他でもない我々自身も例外なく全て、いつかは消えてなくなっていく。自分以外の誰かの脳に残った記憶と共に。そしてそれは、極めて普遍的な事である。我々は生まれ落ちたその瞬間から、消えていくように出来ている。

 昨年の晩秋、落葉が目立ち落日の早まる時期に開催されたあのライブは、そういうことを語る歌から始まったな、と想起する。歌詞の無い、伴奏のみの「オブリビオン」は、彼ら――THE PINBALLSが活動休止前最後にリリースした『millions of oblivion』のラスト・トラックであり、そしてアルバムそのもののカラーを象徴する1曲だった。

 

オブリビオン

オブリビオン

  • THE PINBALLS
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

忘れてゆく事は まちがった事じゃない
何かを失くしたような 甘い切なさが
古い夢の中に 迷い込むだけ

きっと何百年も そして何千年も 繰り返されてる
あの約束のように 塵や彗星のように
忘れ去られて
ぼくらは 消えてゆくようにできてる

 

THE PINBALLS――オブリビオン

 

 今までのアー写とともに流れるそれは、「無期限休止」という言葉の重さと彼らの覚悟を言葉無くして語るかのようで、悲壮感を通り越して荘厳さすら感じたことを、まだ、覚えている。

 

 

 2021年11月24日、Zepp Tokyo Divercityにて僕は、THE PINBALLSの活動休止前最後のライブである「Go Back to Zero」を観た。

 

 

 今まで観た彼らのライブの中で、文句なしに一番カッコいいライブだった。無理やり有休を二日取って、片道3時間かけて飛行機に乗って来て良かった。単に15周年記念のライブだったら多幸感で死んでしまっていたかもしれない、と思うくらいに、非の打ち所のない完璧なパフォーマンスだった。基本的にライブではあまり歓声も手も上げずただぼんやりと突っ立ってステージを観ている僕でも、コロナ情勢下において声が出せないことを初めて本気で惜しんだ。

「片目のウィリー」「劇場支配人のテーマ」といったいつもの定番曲は勿論、念願だった「ワンダーソング」、「沈んだ塔」や「ヤードセールの元老」など初めて行ったライブ以来御無沙汰だった曲、仕事に圧迫され、途中参加となってしまったせいで個人的に因縁のあった『millions of oblivion』収録曲、の中でも一番好きな曲である「マーダーピールズ」、そして「まぬけなドンキー」「ニューイングランドの王たち」といった、今まで彼らがリリースしてきた数々のアルバムの最後を飾る名曲たち。

 2回のアンコールをふくめて全33曲と今までにない特大ボリュームでありながら、最後に披露された「真夏のシューメイカー」を体現するかの如く、稲妻のような速さと勢いで駆け抜けていったこのライブは、悲しさよりも圧倒的な楽しさを、やるせなさよりも彼らのロックバンドとしての格好良さをこれ以上なく凝縮し、炸裂させた鮮烈なものだった。ライブ終わりの四人が並んで頭を下げ、屈託のない笑顔でステージを去っていった後、楽し過ぎて燃え尽きた僕の中に残ったのは、これまでの彼らのライブを観た後と同じ満足感だった。

 もしも、それこそ「オブリビオン」とか、他の曲で言うなら「299792458」とか「銀河の風」なんかで終幕していたら、いくらかの悲壮感と涙とともにある程度曇ったような心地で会場を後にし、Twitterに4~5個の鬱々としたツイートを投げ捨てて、薄靄のかかった心を抱えてホテルのベッドに突っ伏したのだろうと思う。「真夏のシューメイカー」で終わってくれたのは彼らなりの優しさだったりするのだろうか。だとしたら本当に、粋なバンドだなあと思う。

 

 

 ライブ中一度も活動再開についての言及は無かったし、フロントマンである古川さん以外のメンバーから、MC中に言葉が発されることも無かった(ライブ中の森下兄貴の煽りはあったが)し、何度も「最後」ということを強調していたようにも思う。それは「無期限」という言葉の重さを表すものでありつつ、生半可な気持ちであの場に立っていないことを示す証左でもあった。最近届いたライブDVDにて改めて当時のライブを観返す中で、THE PINBALLSのこの先の不明瞭さを思って、そのMCに一抹の悲しさを感じたりもした。

 ただ同時に、他でもない古川さんがMCにて語っていた「俺はまだ全然諦めていない」という言葉は、希望以外の何物でもないとも思った。まだ僕がTHE PINBALLSの存在すら知らなかった時から、一つの拍手も聞こえない夜も、誰の耳にも届かない弾き語りを繰り返した日も超えて、あの日、満員御礼のZepp Tokyo Divercityの真ん中で歌った彼の言葉を信じられないわけがない。何もかもが終ってしまった今はただ、また4人の道が交わることを待つことしか出来ないとしても。

 

 

 気付けば、ライブから半年近くが経過した。THE PINBALLSについては未だに音沙汰は無く、4人はそれぞれの活動に勤しんでいる。古川さんは今度ソロでライブをやるらしい。彼の弾き語りライブなどを見たことがないので、ソロで歌う彼の姿はどんなものなのかあまり想像がつかないが、きっと素敵な一夜になるのだと思う。

 THE PINBALLSのことを考え、彼らの音楽を聴く時間は、解散前の頃からまだ減ってはいない。公式から最高のプレイリストも公開されているので猶更だ。聴くものに困ったら最近はこればっかり聴いている気がする。

 

 

 だが、活動休止のお知らせの時に感じた悲しさは流石に薄れてきた。THE PINBALLSが活動休止している今がもう、当たり前の日常となっている。THE PINBALLSが最高の新譜も出さず、その新譜を引っ提げてカッコいい名前を冠したツアーで全国を回ることもなく、ライブハウスの暗がりの中、地獄の果てまで行こうぜという前口上から「蝙蝠と聖レオンハルト」が炸裂することもない。地獄の果ての道半ば、賽の河原でぼんやりと石を積み上げながら、導いてくれる彼らを待っている。それが当たり前となっている。

 いつしかその当たり前はプールに垂らした血液のように完全に日常に融け込み、いずれ消えてなくなっていく。2021年11月24日に受けたZepp Tokyo Divercityでの衝撃は、日々の喧騒と懊悩に埋没していく。すべて失っていく。とけていく、欠落していく。片道数時間の空路も、平日の混雑した東京の交通機関の猥雑さも、ライブ前に食べた餅明太チーズたこ焼きのちぐはぐさも、今までで一番長かった物販列も、涙声でMCをするギターボーカルも、あの日あの時あの場所に居たことを誇る自分も。

 こんなにカッコいいバンドが存在していたことも、すべて、いつかは忘れていく。

 

 でも、それはまだ、今ではなくてもいい。

 

 星座。亡くなった祖母。読み終わった本の一節。11月24日の東京。Twitterのフォロワーと交わした言葉と音楽の数々。真っ白な投稿フォームを前に、自身の記憶の海から座礁した断片を繋ぎ合わせて文章を紡ぐ。なかなかあの時の感情を言葉に出来ずにさまよっていた自分を導くために。そしていつかそれすらも忘れてしまう自分への、ささやかな備忘のために。彼らを愚直に待っている今を、ほんの少しでも長く伸ばせるように。

 

 

 

 ライブ前日に投稿した記事にて冥王星の話をしたが、あの話には少しだけ続きがある。宇宙の果てで孤独に公転軌道上を回っているかつての太陽系第9惑星は、ずいぶん長い間地球と同じたった一つ衛星しか持たない孤独な惑星だと思われていたのらしいが、太陽系第9惑星という名称をはく奪される一年前に2つ、その数年後にまた2つ発見され、結局計5つの衛星を有していたことがわかった。今も太陽系の遥か彼方を気ままに周回するこの小さな惑星は、発見された当初考えられていたよりも、寂しい星ではなかったそうだ。

 ライブ当日のZepp Tokyo Divercityにて、今まで行ってきた彼らのライブでは考えられないくらいに沢山の人がいるのを見て、素直に驚いたことを覚えている。彼らの、そして彼らの作る音楽のファンは、僕が思っているよりずっとたくさん居ることを、僕はあの日初めて実感したように思う。『共感』とか『一体感』とかそういう他人ありきの言葉がそこまで得意な質ではないが、あの日ばかりはそれが好ましく思えた。同じ熱量の人が自分以外にこれだけいるのだと思えることが、救いのようにすら感じた。

 

あなたが眠る惑星

あなたが眠る惑星

  • THE PINBALLS
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

一人きりでいる時は 一人きりだと思う時は
忘れないであなたを
愛する人がいる事を

あなたがこの惑星をひとまわりするたび
あなたが眠る惑星が静かにまわるたび

ざわめく心は激しさに痛みを失った

まるで 嵐のように

 

THE PINBALLS――あなたが眠る惑星

 

 惑う星、と書いて惑星と読む。英語の「Planet」はギリシャ語の「さまよう人」「放浪者」を指す「ΠΛΑΝΗΤΕΣ(プラネテス)」という言葉が語源らしいが、恒星と異なり、地球から見て不規則な動きを繰り返す姿からこう呼ばれたとのことだ。アウトロ―で不器用な彼らは幾度となく宇宙や星をテーマにした詞を歌っているが、選ぶモチーフのセンスは本当にピッタリだと感じる。

 星に願いを、なんて柄でもないが、せめて今はまだ忘れないでいられる。惑う彼らに付いて行こうと思える。待とうと思える。きっとそれで十分なのだと思う。そしてまた彼らがいつか、どこかで自分自身のために歌ってくれるなら、出来ることならその場にいたいと思う。

 

 

 味わいたくもない激動を味わった2021年でした。

 いつかまた、最高にカッコいいロックンロールバンドが見られますように。

「音楽を語る」とか宣いながら、ほんとは音楽を使って自分語りしてるだけでは

 これは、何か。

 そう、鍵盤である。この際「ピアノ」「キーボード」でも可とする。ある一定の法則で、白いのと黒いのが横一列に並んでいるよくわからない楽器である。ここまではリコーダーが苦手で音楽の授業が本当に苦痛だった小学生時代の僕でも分かる。

 ではこの「ド」の位置はどこか。

 ここである。白黒白黒白、と並んでいるところの、一番左側の白鍵が「ド」である。なので正確には赤い点から右に七つ分進んだ白鍵も「ド」なのだが、しるしをつけるのがめんどくさかったので勘弁してほしい。

 信じられない話かもしれないが、僕は割と最近まで鍵盤の「ド」の位置が分からなかったのだ。じゃあお前は小学生のころの鍵盤ハーモニカの授業や文化発表会をどう乗り切っていたのか、と問われれば、白鍵に直接ドレミファソラシドをサインペンで書いていたとしか言えない。クラスに2~3人はいたよね、こんな奴。だいたい字も引出しの中も汚いし、足も給食を食べ終わるのも遅い。

 2年ほど前の年の瀬に、家の物置から我が妹が大昔誕生日か何かに買ってもらったらしい、初心者セットという名の在庫処分品と思わしきペラペラな木材で出来た安物のアコースティックギターを発掘したことが切っ掛けで、ギターという非常にややこしい楽器をちまちま触るようになり、それと並行して音楽理論を少しずつ勉強し始めてようやく「ド」の位置を知った。

 

 この「愛の座敷牢」というブログは、その程度の音楽の知識しかない素人が運営している。それで「このブログは音楽を語るブログである」と、偉そうに宣っている。こんなにバカらしいことはあるだろうか。

 

 今更だが、このブログはこの記事を書くために開設されたブログである。

 なのでそれ以降の記事は「せっかくブログ開設したんだし、この記事しかないのも寂しいしなんか他にもかいてみるか」が興じて書かれたものだ。時給も発生しないのに。だから開設当初の自分には当然音楽を理論で捉える知識の土台は無いし、それは2年と約半年経った今でもあまり変わらない。さすがにギターを弾き始めてコードの成り立ちやスケールの概念、基礎的な奏法やリズムなんかは頭で理解してきたが、結局それも付け焼刃もいいところの稚拙なものであり、「音楽を語る」上での自分なりの理屈や理論の土台には到底なり得ない。

 なのでこのブログで書いている「自分の好きな音楽について語った」という記事の多くはその音楽性や演奏・歌唱の技量についてではなく、歌詞にフォーカスを当てたもので、それについて自分がどう感じたか、どういう解釈を持ったか、そればかりを連ねている。これは「音楽を語っている」のではなく、「その歌詞を読んだ自分がどう思ったか」を語っているのではないか、「音楽」を語っているのではなく、好きな音楽を使って「自分」のことを語っているだけではないか、という思いがずっと、タールのように内心に沈殿している。

 僕は「エモい」という若者言葉がどうにも苦手で、以前「そういうので音楽を語るのは失礼に当たる(意訳)」といった尊大なことを世界一騒がしい青い鳥のSNSにて宣ったことがあるのだが、結局自分も音楽を感情でしか捉えられていないのは立派なダブスタではないか、と指摘されたらそれはもう本当にぐうの音も出ない。心のどこかで自分がご立派な表現者であると勘違いしているが故の、浅はかな言動だったと猛省している。

 創作物に対する感想において、明確な理屈で捉えられていないものは、例えるなら数学の問題について採点している際に回答者の字が綺麗なことを褒めている様なもので、表現の良し悪しに関わらず等しく戯言でしかない。今まで明言したことは無いが、このブログを開設し、幾度となく真っ白な投稿フォームと向き合いながら、心のどこかでずっとそんなことを思っていたし、その「戯言」しか産めない自分を呪ってもいた。

 

 

 音楽を語る行為はどうあるべきなのか、音楽を語る際に混ぜ込んでいい自己の濃度はいくつまでなのか、どこからが「音楽」を語る行為で、どこからが「自分」を語る行為なのか。色んなアーティストや彼らが生み出した音楽に対して「文章」という媒体・表現を使って適切なアプローチを模索する中で、その境界にずっと悩んできたし、悩んで出来た結果の文章を自分で読み直して「多少叙情的にチューンしただけの自己紹介」に完結したそれに、幾度となくため息をついた。書けば書くほど、考えれば考えるほど、主観としての、音楽を通すレンズとしての「自分」が邪魔になっていく。アーティストの作り出した世界を使って、顕示欲を満たしたがる自己が邪魔をしている。語り部は自分である以上、結局どこかで自分が混ざるのはもう仕方のないことだとしても、その比率があまりにも大きいことにどうしても違和感があった。かといって自分が抜けた隙間を埋めるだけの知識も無いので、結局空いてしまった隙間には自己紹介を忍ばせるしかない。

 では完全にロジカルに、自己を切り離してどこまでも客観的に音楽をとらえることだけが「音楽を語る」行為なのか、と問われれば、さすがにそれは乱暴だとも思う。ただ、自分がこれまで書いてきた「音楽を語る」と騙った記事のすべては、音楽を使った自己紹介以外の何物でもなかったとも思う。完全に感情を切り離して、理屈と論理片手にそつなく語る方がよっぽど音楽に対して真摯だ。

 理屈と論理で武装した付け入る隙のない評論と、どこまでも根源的な「エモい」の一言との狭間にある無限のグラデーションの中で、「表現」という言葉をある種神格化するかのように言葉を模索し、自分なりの丁寧を重ねて一つ一つの記事を、音楽を語ってきたつもりだった。ただ結局、衝撃的な音楽を初めて聴いた時の、たった一言の「カッコいい」に勝る言葉は無いし、それ以上を捻出しようとすると誰も訊いていない自身のバックボーンが漏れ出してしまう。

 好きな音楽に対して何かを語りたいくせに、自分を媒介にしないと何も語れず、語れたとしてもそれは音楽ではなく「自分」を語っている。このブログで自分の好きな音楽のことを綴りながら、そんな思いがどうしても拭えず、ずっともやもやしたままだった。

 

 

 基本的に、音楽を聴くことは1人で完結する行為である。CDや動画サイト、サブスクで音楽を聴くことも、ライブに行くこともすべて含めて、たった1人で完結する行為だ。そこに他者の介入は必要ないし、重要でもない。だからそれ以上の行為は蛇足でしかないし、無理に意味を見出すことは、音楽という他者の創作物を使って自身の何かを満たす行為につながってしまう。

 それを踏まえた上で好きな音楽について何かを表現したい、語りたいのであれば、明確な付加価値が必要だという思いがずっとあった。他人の評価によって初めて見出されるものではなく、他でもない自分自身が読み手としてその表現を受け取った際に、その音楽そのものをより高い次元に昇華させてくれるような。例えば、文芸作品の文庫本巻末によく挿入されている解説がそうであるように、的確な語りはその作品をより深く理解するための助けになりうるのだと思う。しかしそれには知識と地に足の着いた理屈がどうしても必要で、僕はその知識が圧倒的に足りなかったし、今でも足りない。今になって少しずづ勉強しているとはいえ、それが自然と使えるくらいに身になるのは何年先のことか分からない。

 だから今の僕がやっていることは結局、自分という歪なレンズを通して、どこまでも主観でねじ曲がった像についてああだこうだ申しているという、他者から見れば野暮で無粋なことなのだろう。「言葉」が中心となっている文化では無い以上、音楽を「語る」行為は究極的に言えば不毛だ。

 しかし、理屈と論理だけでは囲繞できない、感情の話でしかとらえられない、人間の原初の階層である「快楽」に直接作用するような、そういう衝撃を内包した音楽はこの世に確かに存在して、それを自分以外の他者にもどうにか理解できるように可視化するのは「言葉」しかないのだと信じて、好きな音楽に対する表現を模索するのは罪ではないのだと思うし、それによって誰かが勝手に救われたり、共感したりすることは、それもまた音楽の持つ力による顛末の一つなのだろう。

 でも結局、はじめて聴いた時の純粋な「なにこれすげ~良い」「エモい」に勝る言葉はないし、それ以上の表現は刺身のツマにもならない。最近になってようやく、自分のやっていることがどこまでも不毛で、野暮で、無粋なことだと開き直ることが出来るようになった気がする。それを理解したうえで、これからも言葉を書き連ねたいと思う。音楽そのものへの理解も少しずつ深めながら。この記事はずっとそのことに思い悩んでいた自分にある一つの区切りを与えるための、禊のようなものだ。この文章こそ尊大な自分語りだとも思うが。

 

 

 悩んでもがいて、その先にうまれた表現に、他でもない自分が何らかの価値を見出せるのならば、その時改めて「音楽を語った」と言えればそれでいいのかな、と思った。