本読むのって無駄だな、と思った時期がある。
高校を卒業する時期だった、と思う。読んだ本の影響だったか、同級生との会話がきっかけだったか、当時よく見ていた2ちゃんねるのスレッドをまとめたサイトのくだらない記事の影響だったか定かではないが、ふと「自分がどれだけ読書に時間を割いたところでこの世にある本の1%も読めやしない」という思考に陥った。
考えてみれば、いや別に考えなくても別に当たり前であり、不毛な話である。だが、当時は本当に、自分が何の身にもならない無駄なことに時間を費やしている、と勘違いした。勘違いした結果、一時期本当に読書をきっぱりと辞めていた。本当にアホである。今でもそうだが、ナイーブになりすぎるとこういう突飛な思考にはしりがちなのは明確に悪癖である。ちなみにこの「読書は無駄!」という暴論を振りかざした結果、それが発端となったくだらない喧嘩の末にインターネット上の友だちを一人失った。本当に救いようのないアホである。結局好きな作家の新作が刊行されて、「読書は無意味!」時代は幕を閉じた。なぜオレはあんなムダな時間を……
これまで生きてきた中で、その時の最大県の熱量と時間と努力を割いて何かを極めよう、誰よりも上手くなろう、世界一になろう、と思ったことも無ければ、そもそもまともに努力を積み重ねた経験すらおぼろげなくせに、どこか「一番じゃないと意味ない」とか「優勝しないと価値が無い」と思い込んでいる節がある。冒頭の救いようのない浅はかさも、読書好きを名乗るならこの世の書籍その全てに精通していないと意味がない、という思想のなれの果てだったのだろう。
だから今でも、別にこれから何かを成し遂げるわけでもない自分が、限りある地球の資源を食いつぶしながら意地汚く生き延びても、別に何の意味も無いんだな……と思うことはわりと多い。というか、そう確信している。デフォルトで。
読書に関しては、自分の人生があと10回あっても到底読み切れない本があることは、考え方を変えれば一生退屈しないってことだから最高じゃん、とポジティブに振り切れたが、自分の人生に関してはさっさとデカいトラックとかで轢いてくれないかな、と、通行量の多い道端を歩くたびに異世界に転生することを夢想している。
子供の頃に抱いた劣等感を未だに覚えている。鬼ごっこで自分が鬼になったら日が暮れるまで鬼のままだったあの頃のことを。逆上がりが上手くできずに泣いたことを。鍵盤ハーモニカもリコーダーも上手くできなくて音楽の授業が死ぬほど苦痛だったことを。だからといって頑張らなかった。かけっこも、鉄棒も、楽器の練習も。子供のころから本当に諦めが早かった。人並になろうと努力しているけど上手くいかない、を演出することだけが上手くなった。
痛い、きつい、苦しい、からひたすらに逃げ続けた。例えそれが本当に必要なことだと心のどこかでは分かっていても、その「どこか」以外が無駄だと全部シャットアウトしたから、本当に何も頑張らなかった。何も頑張らなかったから、今ギリギリ人間の体で生きるために、冷遇と理不尽に耐え忍びながら、どうにか頑張らないといけない羽目になっている。全部自業自得。全部自己責任。甘い憐憫を受け取る価値すら無い。ダメ人間、というレッテルを自らに貼って道化を演じることすら、プライドが邪魔して出来ないのだから。
友だち付き合い、定期試験、検定試験、受験勉強、成人式、会社の先輩からの誘い、そういう自分をどうにかして縛ろうとするものから、逃げて、逃げて、逃げて、そのまま天国まで逃げちまおうか、と思った時に決まって逃げ損ねて主翼の片側を損傷し、ぎりぎりの不時着の中で苦し紛れに掴んでいた藁が、読書と、インターネットだった。本当に、それしか残っていなかった。本当にそれしか残っていなかったので、それをやった。紙とインクと電子で構成された海を沈没するように泳ぎ、その旅路で出会ったものを手繰っていく中で、何かを書くことと、音楽を聴くことが一つの大きな趣味になった。
だからなんだ、と言われればそれまでだし、だからなんだ、で確かに終わる程度の話だ。そもそも別に音楽を聴きたいとか、本読みたいから生きてるわけでもない。死んでない理由は単に死ぬ勇気がないだけである。それでもまあ、ただ単に光の一切無い暗闇の中をただ歩くように生きるよりは、蜃気楼でもいいから視界の隅に何か映っていて、それを追いかけるように生きるほうがいくらかマシだろう、と思うのだ。僕にとっては小説や漫画、音楽がそういう存在である。少なくとも今は。これらを追いかけることを都合の良い理由に仕立て上げて、なんとか生きていくつもりではいる。
多分、死ぬまで
Mステに初めて出演した時に披露したのがこの曲だというのを知った時、そしてMステでしかあまり見ないフォントの歌詞が下部に表示される画面の中で、信じられないほどに荒ぶる某ベーシストを画像検索で見つけた時、どういう層の心をキャッチしようとしたんだろうと真剣に思った。ただ、今思えばCatcher In The Spyというアルバムのことを暗に示す彼なりのメッセージだったのかもしれない。ピアノも綺麗だしボーカルの顔も超かっこいいけど最新アルバムは超ゴリラだぜ、みたいな
Catcher In The Spyが有するアルバムの印象、もといコンセプトと一番乖離しているはずなのに、このアルバムの終盤戦を宣言する。嚆矢濫觴の一曲という立ち位置があまりにしっくり来ている。どこまでも美しくしっとりしているのにどこか大ボス感がある。さすがはシングル曲の貫禄と言ったところか。最初のピアノだけ聴いたら完全に卒業式なのに、いきなりバンドサウンドが全部塗りつぶしていくの、音ゲーの初見殺しみたいでいい。人生もそう。逃れられない初見殺しに出くわしたあと、どうやってリカバリーしていくか、みたいなとこある。やっぱCatcher In The Spyって人生なんだな……こいつこの先何回このアルバムを「人生」なんてカスみたいな例えで擦り倒すんかな……
どこをどう切っても綺麗な曲だと思うし、歌詞も相まって生まれたての赤ん坊に聴かせたい曲ランキング、みたいなのがあればおそらくこの曲が「アンパンマンのマーチ」とかに3馬身くらい差をつけて1位をもぎ取ると思うが、ではUNISON SQUARE GARDENを最初にお勧めするときにこの曲を薦めるか、といったらそれはしないと思う。そういうのはオリオンをなぞるか、シュガーソングとビターステップか、いっそのことMODE MOOD MODEの初回盤でも手元にボンと投げつけてやるといい。
Catcher In The Spyのもう一つのシングル曲である桜のあと~もそうだけど、この曲も大概「ある程度このバンドの音楽に触れたからこそドツボにハマる」タイプの曲な気がする。
並行中の問題に悩んでみたり
偽善者を気取っては心を痛めたり
人間なんて皆目はそんなもんだろう
僕もその中で生きてるんだよ
どの部分の歌詞も好きだけど、個人的には2番頭のこの部分の歌詞がとても好き。これだけ神秘的なのにどこか激しく直情的な要素が絡み合った音楽を違和感なく提示してくるバンドが、その神秘性を損なわない程度に見せてくる等身大の視線。励ましのラインとしてもめちゃくちゃ丁度いい。
instant EGOISTの「せいぜい~」とか、この曲の「そんなもんだろう」とか、時折みられる彼らの、どこか投げやりに肯定してくれるスタンスが好きだ。ここに救われたとか、そういうことはないが、何となく前向きになれる気がしてくる。前を向いていると、地平線のずっと向こうに、立っているかどうかも不確定な場所に、彼らの音楽が待っている気がする。そういう根拠のない指針を頼りにして、これまで何とかギリギリ人間のフリして生きていられている。
逃げて、逃げて、逃げきれなくなって社会の奔流に飲まれて息も出来なくなってしまった自分の、おおよそまともなかたちをしていない生に、これからもこの先も、これっぽっちも意味なんてものはは無いと思う。きっと自分が今死んでも、50年後に死んでも、世界に与える影響なんて何一つもない。人格の設計段階から狂っていたのだ、この先挽回する元気もない。
なのになぜか、今更これまでの人生で取りこぼしてしまったあらゆるものがちょっとだけ惜しくなって、少し引き返したりしている自分が、たまらなく滑稽に思えることがある。その言い訳のためにヘタクソなりに綴られる文章があることも心から馬鹿らしく思えるけど、楽しい、楽しくないかで言えば、何だかんだ続いているから楽しいんだと思う。
ずっと続けばいいな けど
終わりが近づいてるのも 分かるよ
どうせ意味なく終わるなら、自分の手で出来る範囲内では楽しくあっていい。そう思えるようになったのは、意味のないなりに追いかけ続けていた音楽や、そのほかの「楽しい」のお陰だと思う。
これまでの人生のターニングポイントで、逃げるべきではないあらゆる課題から逃れ続けた結果、そのツケを払うために自分が取りこぼしたあらゆるものを追いかける羽目になったけど、その道中で見つけたきらめくものを追いかける人生は、意味がないなりに思っていたよりも、楽しい。それを教えてくれたロックバンドには感謝しかない。
君を追いかけるよ その未来まで
これからも彼らを、そして彼らの音楽を、自分なりのペースで追いかけられたら、きっと楽しいだろうなと思う。だからこそ、人生にそれくらいの余裕が確保できる程度には、目の前の些事から逃げないようにしたい。そう、明日の会議の資料がまだ手つかずとか、そういうことから ああもう逃げたいネェ