愛の座敷牢

無料で読める文章

2020年度・個人的名盤10選

 2020年がもうあと3日ほどで終わりを迎えようとしている。早い。ここ数年は毎回思っているが、早い。始まったと思ったらもう終わっている。年々一年が短くなっていく感じがする。体感時間的には19歳が人生の折り返し、という昔の頭いいやつが唱えた説の正しさを、自身の身体でまざまざと実感している次第である。

 今年はどんな年だっただろうか。僕個人的にはまあ、いい年ではなかった。仕事は急に忙しく鬼畜になったし(まだ人道的な範囲だが)、勝手に決めてた趣味での目標は達成できなかったし、好きな漫画がすごく嫌な終わり方をしたし、年末年始にそれぞれ祖母を亡くした。自分のふがいなさのせいだと反省できることもあったが、どうにもならないことの方がやっぱり多かった。例えばそう、ことごとく潰れたライブの予定とか。

 今年ライブに行けたのは2月の頭までで、残り10か月と少しは一度たりともライブハウスに行くことがなかった。今年のライブ鑑賞数はなんと驚異の2本である。いや、今の状況を考えると2本観れただけでも運がよかったのかもしれない。どれもこれも今年世界で一番憎まれたであろう、悪鬼羅刹も半泣きで手洗いうがいをするコロナウイルスのせいである。性格も性質も悪すぎ。一刻も早く滅してほしい。

 年始のアリーナライブでの感染報告を皮切りに、参加予定だったライブはことごとく中止か延期の憂き目に遭い、アーティストからのライブが出来ない旨の報告のたびにSNSは阿鼻叫喚の嵐。開催したならしたでフェイスガードだの喋るの禁止だの前年度までの感覚なら確実に守られない制約と、なりふり構わず突撃隣のバンドマンを決行してくる自粛警察の方々に頭を抱え、後半に開催されるライブは例え参加できそうでも世間体とかいう胡乱なものを考慮の上で「行かない」を選択するのが当たり前になるという有様。無粋極まりないのは分かってるんだけど、結局ロックンロールは病魔に負けるんだな、なんてことを思ってしまったりした。本当にフラストレーションの溜まる一年だった。ああまぼろしと消えてしまったUNISON SQUARE GARDENヒトリエの対バンよ、いつかまた

 一介の邦楽ファンの一人である僕でこれだけの涙をのんだ1年なのだから、ロックバンド含めて音楽業界に関わる人たちは阿鼻叫喚なんてものではとてもじゃないけど片付けられない甚大な被害を受けたのだろう。本当に激動の1年だったし、これから先も当分はこの状況が続くのは容易に想像できる。なんにせよ、一刻も早い事態の終息をだな、頼みますよほんとに

 

 そんな終わりの見えない憂鬱に包まれたまま終わりを迎えようとしている2020年だったが、ライブツアーもまともに開催できず、モチベーションの維持すらも困難な中でもありがたいことにアーティストの方々は熱心に制作とコンスタントなリリースを続けられ、今年もたくさんの名盤が生まれた。娯楽産業にことごとく光の差さないこのご時世に、音楽に見切りをつけることなく聴き続けられたのは、新たな音源や配信ライブなどで供給を滞らせることなく真摯に活動を続けてきてくれたアーティストのお陰である。本当にもう日本全国のアーティストの皆さんに足を向けて寝れない。日本全国に足向けて寝れない僕はどうやって寝ればいいんだ。今日から感謝の三点倒立で寝るか?

 というわけで、この記事は2020年にリリースされた個人的名盤を紹介する記事である。今までTwitterでぽーんと投げるだけで終わっていたのだが、せっかくブログをやっているのだから少し文量を増やして記事にするのもまた乙かな、と思いたって筆を取った次第だ。毎年言っているが今年は本当に名盤が多く、正直8月とかそのくらいには10選決めれるくらいに良作が出そろっていたのだけど結局最後の方までもつれ込んでしまった。

 今年はライブにほとんど行けなかったので必然的に例年より音源と向き合う時間というのは長くなったんだけど、それはアーティスト側も同じなのかとにかく力の入ったアルバムが本当に多かった。ライブで殺せない分音源で殺すと言わんばかりのありがたい殺意の籠った前のめりオフェンシブなやつらが揃いに揃っている。一部の例外を除いて、初聴時から心を鷲掴みにして離さない威力の高い曲を並べたアルバムが本当に多かった。今年の邦楽も豊作です。大豊作。大黒天様も弁天様もいい仕事しとる。

 何度も言うが、本当に10枚選ぶのに苦労した。今回選ばなかった作品にも思い入れのあるものがそこそこな数あるので、来年どこかのタイミングでそれらについて語る記事も書けたらなと思う。なお1~10位のランキングは付けないのでそこは了承いただきたい。選考基準は2020年1月~12月の間に発売されたフルアルバム・ミニアルバムが対象。ベスト盤は選考外。今年で言うとヒトリエの「4」とか。

 

 というわけで前置きはここまでで以下本文。発売日順に紹介する。

 

 

目次 

 

 

CEREMONY/King Gnu

 

【Amazon.co.jp限定】CEREMONY (通常盤) (メガジャケ付)

【Amazon.co.jp限定】CEREMONY (通常盤) (メガジャケ付)

  • アーティスト:King Gnu
  • 発売日: 2020/01/15
  • メディア: CD
 

 

 もしかして去年発売と思ってた? 残念今年でした!

 今や国民的バンドとなった彼らの一枚からスタート。本当に2020年はあまりに層が厚すぎることを感じさせる傑作アルバムである。というかあまりにKing Gnuの名前が去年1年で浸透しすぎて、むしろこういう記事に挙げ辛さすら感じてしまうようになった。知る人ぞ知る、みたいな立ち位置なんて1歩で超えていまや知らない方がもぐり、みたいな雰囲気になってるのはもう仰天の一言。憎き野球部が好きなアーティストとして彼らを挙げることが不思議でも何でもなくなってしまったのだ。あ~あ

 ぶっちゃけ今はもう「King Gnu? ああ白日のバンドね。もう聴いてないけど」みたいな雰囲気漂わせてる人がTwitterの奥の方に沈殿してる。俺の中ではあいつらの時代は終わったから、と言わんばかりの態度取ってる。総じて新しい音楽を常日頃から開拓している人は、めちゃくちゃ嫌な例えをするとゴキブリを追っかけるアシダカグモみたいなもんで、一度好きになって「これヤバい」と大騒ぎしたとしても冷めるのが超早い。「井口君推しです♡」みたいな人種が群がるころにはもう離れてる。いやこれはまた別の問題か。それはともかくこういう事情があってCEREMONYってアルバムは、ぶっちゃけ今だいぶ過小評価されてると思う。これは本当に。

 ただね、収録されてる一曲ごとのクオリティと聴き心地の良さからして、変に音楽通ぶって選ばない選択肢を取るのは流石にこのバンドに失礼だと思った。前年度のチャートを折檻した実力を見せつける圧倒的な貫禄を感じる。先行で配信されていた「白日」「飛行艇」「傘」「teenager forever」を始め、タイアップ曲がドカンと集結したこのアルバムは本当に、どの曲も単騎性能が頭抜けている。並大抵のアーティストのベスト盤を小指一本で粉砕する圧倒的な強さ。「パワー」という言葉が似合うグッドスタッフな1枚である。

 しかしまあアルバム全体としてとして見たら、さすがに前作のSympaの方が構成面では軍配が上がるかな、という印象。あまりにどれも「強」すぎて息をつく暇がなく、若干メリハリに欠ける。あと初めて聴いた時はどうしても「壇上」のアクが強かった。慣れればあれは歌詞も相まってすごくいい締めなんだけど、今King Gnuの音楽を求めてるリスナーに刺さるかと言われると……

 そういう理由もあって正直なところ個人的にも入れるのに少し迷った1枚ではあるのだけど、そんな事情とか構成面とかいろいろ差し引いてもそれでもやっぱり曲が良い。強い。言ってしまえばそれだけで2020年の並み居る強者を蹴散らして10選に入ってこれるだけのポテンシャルがあると判断してチョイスした。次作が楽しみで仕方ない。

 個人的一押し曲は「Overflow」。単純に聴いてて一番気持ちいいから。

 

 

From DROPOUT/秋山黄色

 

From DROPOUT (初回生産限定盤) (DVD付) (特典なし)

From DROPOUT (初回生産限定盤) (DVD付) (特典なし)

  • アーティスト:秋山黄色
  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: CD
 

 

 これはもう配信当日に聴いた瞬間から今年の名盤に入れると決めていた。これはヤバイ。明らかに「やっている」アルバムである。今後秋山黄色がこのアルバムを超えるアルバムを出すとしたら狂信者になるかもしれない。それほどまでにヤバイアルバムである。本当に出してくれてありがとうございます元気出る。

 とにかく真っ直ぐ、一筋縄では行かないひねりもありつつ芯の部分はマジでひとえに真っ直ぐな1枚で、俺たちの血潮の主成分を占めるタイプのロックンロールの「マジカッコイイ」成分が凝縮されている。とにかく、濃い。濃いのだ。めちゃくちゃ濃くてうるさいのにいくらでも聴けちゃう。いくらでもテンションが上がってしまう。

 バラード枠にリード曲の「モノローグ」を突っ込んで、他はもう全部ゴリゴリの攻め攻め。「Caffein」のような変化球サウンドや「エニーワン・ノスタルジー」のようなグッとくるメロディラインと歌詞が強めに来る曲もあるが、他は殆ど修羅のごとき純正ギターロック。構成やら何やら難しい曲が犇めいてる今日のニューミュージック界隈の中で、ここまで素直なのは本当に好感が持てる。こういうアーティストにもちゃんとスポットライトが当たってるのは本当に良い。

 これを高校生の時に聴いてたら本当にヤバかったと思う。絶対安物のエレキギターを衝動買いして、3日後Fコードでつまづいていた。ロックンロール適性のある中高生の人生を狂わせる一枚である。

 今から5年後か10年後か、このアルバムで物凄い衝撃を受けてミュージシャンを志した人が、確実に表舞台に上がってくるんだろうなあと思う。そう確信できるほどパワフルで衝撃的な1枚。これが1stフルアルバムとか信じられない。初期衝動と卓越した完成度が高純度で昇華されている。奇跡みたいなアルバムである。出会えてとても嬉しい。

 個人的一押し曲はラストの「エニーワン・ノスタルジー」。歌詞もメロディも全部いい。秋山黄色の曲はとにかくサビのコーラスが分厚くなっており、ガツンと「サビです」と殴ってくれる気持ちよさがあるんだけど、これはモロにそれが顕著に出ている。サビの圧とファルセットがとても気持ちいい。ライブハウスより野外で聴きたい曲。

 

 

SHIMNEY/煮ル果実

 

SHIMNEY

SHIMNEY

  • アーティスト:煮ル果実
  • 発売日: 2020/07/15
  • メディア: CD
 

 

 前作の「NOMAN」から僕はまともに煮ル果実を聴き始めたのだが、この「NOMAN」がめちゃくちゃ良いアルバムで、こりゃ次もすごいのがくるぞと密かに期待していたら想像の斜め上をカッ飛ばしてきたやべえアルバムである。タイムリーヒットかと思ったら満塁ホームランだった。

 めちゃくちゃカッコいいギターとベース、妙ちくりんなAメロBメロ、強烈に耳に残るサビ、そしてどこから持ってきたのか分からない独特の語彙から成る歌詞、あたりが彼の持ち味だと思うのだが、それにしてもその4要素が本当にすごい化学反応を見せている。

 まずギターやらベースやらによる滅茶苦茶なイントロで引き込まれて、なんじゃこりゃ、と思わずつぶやいてしまうようなABを聴かされ、問答無用のサビでノせられ、何が何だか分からず茫然としているリスナーをまた強威力の楽器隊で惑わせて煙に巻く。それで何が何だか分からないまままたリピートする、分からないけどかっこいい。そして分からないままハマっていく。関係ないけど、この人バルーンきっかけで本格的にボカロと向き合ったとかなんとか言っててほんとびっくりする。

 とにかく全編ギターが気持ちよくて仕方ない。「生活ガ陶冶スル」のギターソロもそうだし「極楽鳥花」もそう。胸と股間にびりびりクるやべえギターを弾く。カッティングが本当にエロカッコイイ。全曲インストでほしい。

 このアルバムをリリースした際のインタビューによれば、この「SHIMNEY」というアルバムは前作の「NOMAN」と対照的な関係になっているそうだ。分かりやすいところで言えば「Anniv.」と「Unniv.」とか。その辺はまだまだ掘り下げられていないので、これからガンガン考察していけたらなと思っている。聴きごたえ抜群の1枚。

 個人的一押し曲は「プライド・アンド・グルームが通る」。トラフィック・ジャムからこの曲までの流れが何度聴いてもヤバすぎる。イントロのピアノから機知の詰め込まれたサビが大変に好み。2サビの思わず目頭を押さえてしまうような変調は最早伝説的。叶姉妹よりもファビュラス。

 

 

盗作/ヨルシカ

 

盗作(初回限定盤)

盗作(初回限定盤)

  • アーティスト:ヨルシカ
  • 発売日: 2020/07/29
  • メディア: CD
 

 

 アルバム間でランキングは付けないと上で書いたが、今年のアルバムの中で1枚だけピックアップするとしたら間違いなくこのアルバムを選ぶ。個人的に今年1番の傑作。本当に飽きることなく聴いた。前作の「エルマ」がヨルシカを聴くようになったきっかけということも含めて僕の中でものすごく大事な作品になっており、流石にそれを超えることはないだろうと軽く構えていたら高すぎるハードルをひょいと超えていかれた。ナブナよ……

 今年は本当に聴くものに困るたびにこれを再生した。何時でもどこでも思いたったらすぐにイヤホンから鼓膜に46分間の快楽をぶち込んだ。最初から最後まで良い音楽しか鳴っていない。

 何がヤバいって先行公開されていた曲から3曲ごとに挟まれるインタールード曲まで、本当1曲たりとも捨て曲がない。頭から爪先まで全部に「良」 が詰まってる。なんなんだ。特に「青年期、空き巣」は本当に、何? 気持ちよすぎる。収録曲も収録曲でイントロからアコギのスラップをぶちかます「昼鳶」に再レコーディングで正統進化を遂げた「爆弾魔」、AメロからCメロまで華やかで軽やかでそれでいてどこか切ない「花人局」などなど一切の不足なし。3曲ごとに挿入されるインタールードのお陰でそれぞれのセクションのカラーの違いを楽しめる構成も相まって本当に聴き飽きない。

 一曲一曲の良さだけで言うならば他のアルバムも負けては無いのだけど、アルバム全体の構成で考えるとこの「盗作」は頭一つ抜けている気がする。もう褒めることしか出来ない。映画主題歌だった「花に亡霊」も含めて5曲が先行で公開されてたんだけど、それを予め聴いててもフルで聴いた時の満足感はなんら薄れることもなかった。厳しめに、厳しめに点数を付けるとしたら、100点満点中1億点くらいのクオリティです。勝ちです。大勝利

 僕は正直サブスクを利用するようになってから、ライブDVD特典とかそういうのが付かない限りアルバムを買わなくなったんだけど、これに関してはもう買った。通常版だけど。今になって初回盤特典の小説が気になって欲しくなってしまっている。初めから買っておけば……

 個人的一押し曲はかなり迷うがやっぱり「花人局」。5分32秒というそこそこの長さをまったくダレさせることなく駆け抜ける、A~Cからサビまで聴きどころしかない凄まじい名曲である。

 

 

STRAY  SHEEP/米津玄師

 

STRAY SHEEP (アートブック盤(Blu-ray)) (特典なし)

STRAY SHEEP (アートブック盤(Blu-ray)) (特典なし)

  • アーティスト:米津玄師
  • 発売日: 2020/08/05
  • メディア: CD
 

 

 今や一挙一動が朝のニュースのエンタメ枠になるやべー男こと津玄師の最新アルバム。当然と言わんばかりに選択肢に入り、当然と言わんばかりに選ばれるのは流石のポテンシャル。売れているものには売れているだけの理由が裏付けられている。

 ぶっちゃけ最初に一周した時はそこまで強く印象に残るようなアルバムとは感じることが出来ず、物足りないかなと思ってしまう自分もいたが、何となく聞き続けているうちにじわじわとドツボにハマっていった。好きになる過程の傾向としてはBremenに近いかも知れない 気がつくとこのアルバムを聴いている自分がいる。いつのまにか心に羊が迷い込んでいる。これが米津マジック……

 わりとローテンポでゆったりと、それでいてさりげなく踊らせる曲が多く、聴くときに余計な肩の力がいらない印象がある。しかしそれでいて「Flamingo」や「感電」といった妖しくも愉しいアッパーチューンが良いアクセントになっており、総じてとてもとっつきやすい。YANKEEやBOOTLEGの持っている圧倒的な無敵感を上手い具合に削ぎ落として、その隙間に優しさをそっと詰め込んだようなアルバムとなっている。突出したパラメータはないが全体的にとてもバランスがいい。気兼ねなく誰にでも薦められる1枚。

 個人的一押し曲は「ひまわり」。これはもう何も言うことはない。嗜癖。「爱丽丝」「Neon Sign」「メランコリーキッチン」「しとど晴天大迷惑」あたりと並んで最高に好きな曲が出来てしまった。何回聴いてもこれでテンションが青天井になる。ただ「散弾銃」と「北極星」というワードでwowakaさんを思い浮かべて泣いてしまうのはもう、抗えない性です すまねえ……

 

 

DEMAGOG/キタニタツヤ

 

DEMAGOG(初回限定盤)(特典なし)

DEMAGOG(初回限定盤)(特典なし)

 

 

 個人的に2020年は彼の年である。キタニタツヤのヤバさに気付けたことが今年一番の収穫。そんな彼の渾身のミニアルバムが入らないわけがない。全7曲最高の出来栄えでいよいよ覇者を取りに来た彼の真の姿を見ることの出来る1枚である。いや本当にこのDEMAGOGというミニアルバムはすさまじい。よくぞこれを出してくれたとしか言いようがない。

 以前からぬゆりの曲にベースで参加していたり、ヨルシカのベーシストとして活動していたり、ナナヲアカリちゃんに楽曲提供をしていたり、他にもボカロPとしてバンドマンとしてミュージシャンとして「知る人ぞ知る」みたいな立ち位置でやっていた彼を僕は間違いなく認知はしていたはずなのに、今年に入ってようやくこの人のヤバさに気付いた。遅かった。何にせよDEMAGOGは間違いなく「売れに来てる」ミニアルバムである。その筋のリスナーに向けた殺傷度が高すぎる。全曲めちゃくちゃカッコいい。

 リード曲の「ハイドアンドシーク」から表題曲の「DEMAGOG」までとにかく全編ダークネス。絶望と皮肉が9割を占めている歌詞に、どことなく癖があるけど妖艶なボーカル、そしてずしりと重たくもこれまた中毒性の高い独特のメロディ、フレーズ、サウンド。特に要所要所で挟まれるキメやブレイクがどの曲も非常に気持ちよく、問答無用でリスナーをノせる、魅せる。キタニタツヤ本人がベーシストということも関係があるのかは分からないが、ボーカルも鳴ってる音も癖が強いのにリズムが心地よくスッと聴けてしまう。魔法なのかセンスなのか分からないがすさまじいことだけは分かる。

 こんなアルバム聴かされたら否応にも注目せざるを得ない。配信ライブもめちゃくちゃカッコよかったし、こないだ公開された新曲も今絶賛ヘビロテ中である。来年は今年以上にどこかでぶちかましてくれそうで勝手にワクワクしている。

 個人的一押し曲は迷うところだが「パノプティコン」をチョイス。サビのメロディもだけど何より全編に渡って鳴らされてるアコギのストロークが好み過ぎる。これを弾き語りで歌えたら世界一モテそう。俺なら一発でオチる。

 

 

IS SHE ANYBODY?/春野

 

Is She Anybody? - EP

Is She Anybody? - EP

  • 春野
  • R&B/ソウル
  • ¥1222

 

 なんと上で紹介したDEMAGOGと一緒の発売日である。選考に選考を重ねた結果、まさかの同日に発売された2枚を選ぶこととなってしまった。あのCatcher In The Spyパイセンしかり、8月27日は音楽的に「どうかしている」日なのかもしれない。来年も要注意ですぞ。

 先行配信された「Kidding me」がめちゃくちゃ好みの曲だったので、ミニアルバムが出ると聞いた時はそこそこ過剰なほどの期待を寄せていた記憶があるのだが、いざ蓋を開けてみたら期待を超えるどころか「あ、これはやったわ」と言わんばかりの傑作でもう慄いた。上で挙げた盗作と並んで今年聴きまくったアルバムである。文句のつけようがない。

 これはもうとにかく聴き心地。聴き心地が良すぎる。いつどこで流しても違和感がない。通勤退勤に流してもよし散歩中に流してもよし、寝る前に聴いてもよしともう八面六臂の大活躍。今年に限って言えば母より春野さんの声を聴いていると言っても、流石にそれは過言なんだけど、まあそれくらい聴いた。なにより作業用BGMとしてめちゃくちゃお世話になった。

 環境音楽やlo-fi hiphopほど作業用に特化したわけではないにしても、靄がかかったような打ち込みビートとピアノを主体にしたチルな雰囲気と、春野さん自身の柔らかな歌も相まって、変に作業を邪魔せず、なおかつ耳を退屈もさせずという絶妙な塩梅を叶えてくれるので、本当にお世話になった。1周17分という短さも相まって3周もすれば大体1時間になるので時間管理にも便利でもう言うことがない。何を隠そうこのブログの9月以降の記事は、大体このアルバムを延々とリピートさせながら書いている。CRYAMYの記事もハヌマーンの記事も全部そう。来年もお世話になります。というか今お世話になってます。

 個人的一押し曲は「Wavelet」。トラップビートが最高に気持ちいい。

 

 

Patrick Vegee/UNISON SQUARE GARDEN

 

「Patrick Vegee」(初回限定盤A)[CD+BD]

「Patrick Vegee」(初回限定盤A)[CD+BD]

 

 

 いつもの。なんかもうこなれてきた感がある。出すアルバム出すアルバム毎回傑作なのほんとやめてほしい。

 飛び道具まみれの前作「MODE MOOD MODE」から一転、正統派ロックンロールスタイルに仕上げてきた、みたいなニュアンスの話をDVD特典の映像か何かでしていて、おいお前! それはCatcher In The Spyをボコボコにする宣言か!? 上等だこの野郎かかってこいぶちのめすぞ野菜ごときがァと勇んでいたものの、実際のところ本当に発売日が怖くて仕方なかった。膝超震えてた。

 しかし蓋を開けてみたらCatcher In The Spyのような全方位攻撃性能は鳴りを潜め、その代わりに愛と軽やかさと卓越したスキルを擁しており、Catcher In The Spyとはまた違った魅力を秘めた、ユニゾンの新たな側面を提示する一作に仕上がっていた。過去作のどれともカラーが被っておらず、完全に新境地の1枚となっていて心底ほっとした。上位互換じゃなくて本当によかった。仲良くできそうだ。

 圧倒的な出力のシングル曲3曲を中心に大変な話題を呼んだ「世界はファンシー」に爽快感とノスタルジーが溢れる「夏影テールライト」、攻撃的でスリリングなサウンドが最高な「マーメイドスキャンダラス」と今回も新たなキラーチューンを揃いに揃えており、楽曲に関してはさすがのクオリティ。また今作の特徴としてアルバム全体としての構成が彼らによってガッチリと提示されており、シングル曲の前の曲最後には前振りのようなフレーズが付いている。つよつよな12曲を用いて、これが俺らの考えた最強の構成です、と言わんばかりの怒涛の波状攻撃。つよい。「夏影テールライト」から「弥生町ロンリープラネット」までの流れ大好き。

 全曲本当に聴きごたえのある曲が揃っており、シングル曲もアルバムの流れに添った配置になっていることで、単品で聴いていた時とはまた違った表情を見せている。総じてかなり練りに練られた、鬼才田淵智也の手腕が光るアルバムである。

 ただなー「101回目のプロローグ」を筆頭に、どうも距離感が変わってきたのが少し気になってしまう。コロナ禍によってリスナーとの距離が想定以上に離れてしまったことを気にしているのか知らないが、今まで守っていたソーシャルディスタンスを守っていない。(少なくとも僕にとっては)ちょうどいい温度感ではない。僕は別にユニゾンと仲良しこよしがしたいわけではないので、ここばかりはちょっと違和感を覚えてしまった。最高に良いアルバムってことは違いないんだけど、出来ることならCheap Cheap Endrollみたいな曲で締めてくれればもっと好きになれたかな。

 そういう気になる点はあるにしても、この16年間で養ってきたスキルを最大限にブチかました、彼らの真骨頂と新たなスタンダードを同時に感じさせる鮮烈な1枚となったように思う。いつまでも進化を忘れないロックバンドはやはり格好いい。

 個人的一押し曲は「Hatch I need」。今までのアルバム一曲目の中で一番好き。本当にこれ聴いた瞬間「Catcher In The Spy狂信者としての人生も終わったかもしれない」と思ってしまい、1周するのを次の日に繰り越した思い出がある。あの日の夜は辛かった。

 

 

七転七起/ナナヲアカリ

 

七転七起 (初回生産限定盤B) (CD+DVD) (特典なし)

七転七起 (初回生産限定盤B) (CD+DVD) (特典なし)

 

 

 全く無知の状態から、ということを念頭に置いて考えると、ナナヲアカリちゃんは今年1番ハマったアーティストだと思う。チューリングラブで衝撃を受けてダダダダ天使でドはまりしその勢いで記事まで書いたが、既存の音源含めて彼女の曲をま~聴きに聴きまくった1年だった。その集大成のようなアルバムがリリースされて本当にうれしい。今年4月にリリースされた「マンガみたいな恋人がほしい」の方も相当な回数リピートしたが、やはりフルアルバムの方を選ぶべきだろうということでこちらを挙げさせてもらった。

 前までにリリースしたミニアルバムから相当数の曲を入れているので新鮮味こそ薄いものの、やはり一つ一つの曲の内包された密度、パワーは感嘆の一言。下手すればちょっと濃すぎるんじゃないか、という楽曲陣を特有の気だるげなボーカルで中和し、昇華する彼女の、そして編曲家陣の手腕は本当に見事。アルバムの構成も非の打ちどころがなく、特に5曲目に配置された「ホントのことを言うのなら」がいい仕事をしている。序盤からハイテンションに切り込みまくるこのアルバムに、丁度いい抑揚をもたらしてくれるのだ。さすがの笹川真生編曲。最高。

 ナユタン星人、朝日(石風呂)、煮ル果実、かいりきベア、DECO*27などなどインターネット音楽の最先端を走るクリエイターが惜しむことなく尽力し提供した楽曲の威力はすさまじく、本当に聴き飽きない。毎回思うが、これだけのメンツがそろって一人のシンガーのために曲を作っているのはもう奇蹟のように思う。これからも末永く活動してまだまだ世にバチボコに最高な曲を提供し続けてほしい。来年も全力で応援したい。

 ただな~これはもう僕の我儘なんだけどぜひ「Youth」を入れてほしかった。ナナヲアカリちゃんの歌う曲の中で1・2を争うレベルで好きな曲なので、入ってないと分かった時にはちょっと、いや結構残念だった。ぜひ今度ベスト盤などが出る際はご一考をよろしくお願いいたします。いやマジで。

 個人的一押し曲は「ランダーワンド」。上の「SHIMNEY」の煮ル果実提供の1曲である。「ヒステリーショッパー」もだが今年は本当に煮ル果実が強かった。別アーティストだがTHE  BINARYの「ベクターフィッシュ」とかもめちゃくちゃよくて何度もリピートした。

 

 

millions of oblivion/THE PINBALLS

 

 

 というわけで猛者だらけの2020年を締めくくるのが、我らがロックンローラーであり稀代のストーリーテラー、THE PINBALLSの最新アルバムである。

 ミニアルバムからフルアルバムまでことごとく外さない素晴らしきロックバンドは、今作もブレずに新境地を見せてくれた。それぞれメディアミックスを果たした「ブロードウェイ」「ニードルノット」を含む全10曲、総再生時間33分の相変わらず潔すぎるこのフルアルバムは、今まで通り機知と迫力に富んだゴリゴリのロックンロールを軸にしながらも、今までになかったアプローチも積極的に取り入れており、今までとは一味違ったTHE PINBALLSも味わえる大変贅沢な1枚となっている。

 特にアコースティックギターを意識的に取り入れた「放浪のマチルダ」「惑星の子供たち」あたりは優しく温かな歌詞世界も相まって、彼らの真骨頂を見せられた思いだ。前作のセルフカバーアルバム「Dress up」を通してか、単純な楽曲の構成もメロディも一段と深みが増しているように思う。尖った部分はそのままに、これまで有している表現に新たなエッセンスを違和感なく付加し、表現のふり幅をグッと広げている。

 彼らの魅力の一つである詩的な歌詞は今作も健在で深読みが捗る捗る。もうこのアルバムの歌詞を語るだけで1記事くらい簡単に出来そうなので詳細は省くが、何を食べたらこんなのを思いつくんだと舌を巻いてしまうレベルの極上フレーズが、1曲にいくつもある。また今作は初回盤にvo古川貴之によるポエトリーブックが付属しており、これと一緒に聴くとまた良さが倍増する。限定盤ということもあってここで明記するのは控えるが、本当に付けてくれたことにお礼を言いたい。

 総じて持ち味は殺さずにアプローチの幅を広げ、より幅広い持ち札を獲得した1枚となったように思う。今年の頭に彼らについての記事を書いた際に「2020年が彼らにとって飛躍の1年になりますように」という言葉で締めくくったのだが、このアルバムを聴いてそれが叶ったことを確信した。聴きどころしかない素晴らしいアルバムをありがとう。

 個人的一押し曲は「赤い羊よ眠れ」及び「マーダーピールズ」。これは2曲揃ってこそ真価を発揮するように思うので2曲とも挙げさせてもらった。曲単体で言えばマーダーピールズの方が好み。タイトルの言葉遊び含めてこの2曲の流れが一番好きだった。

 

 

おわりに

 

 というわけで今回は2020年個人的名盤10選と題して、今年聴いた中で特に印象に残ったアルバム10枚をピックアップした。重ね重ねいうが、本当に良いアルバムが多くて選ぶのに難儀した。ここでは紹介できなかったがTHE BINARYの「Jiu」や、空白ごっこの「a little bit」、あとはトーマ改めGyosonの「GONETOWN」なんかも相当な回数リピートしている。このあたりの紹介できなかったアルバムは、また来年にでも記事に出来ればいいかなあと。

 未だ終息の見えない世界的パンデミックにより頭から尻尾まで気が休まらぬ中終わりを迎えようとしている2020年だが、ロックバンドが、ミュージシャンが心を折られない限り、リスナーが聴き続ける限り、音楽は死なないのだということを改めて実感した1年だったように思う。来年はもっと気兼ねなくライブとか行けたらいいですね。

 余談だが今回挙げたアルバム及びアーティストには、Twitterのフォロワーが切っ掛けで知ったものもある。去年もそして今年も、Twitterをやってなかったら一生知らなかっただろうな、という素敵なアーティストを沢山知ることが出来た。音楽博識なフォロワー各位、いつも本当にお世話になってます。この場を借りてお礼申し上げたい。

 

 また来年、今年以上にもっと素敵な音楽に沢山巡り会えますように。

 

憂き世に麻痺を、俺たちにハヌマーンを

 人に向けて放つ負の感情を有した言葉は、刃というよりは弾丸だと思うことがある。脳で生み出し喉元に装填し、狙いを定めて声帯にて放つ、不可視の弾丸。相手を切りつける刃と違うのは、その銃弾は貫通することなく相手に留まり続ける可能性があるということだ。

 一度銃口から放った弾丸をもう一度装填することが出来ないように、切りつけて傷つけた事実を巻き戻すことが出来ないように、一度放ってしまった言葉を取り消すことは出来ないし、受けてしまった傷をなかったことには出来ない。何気なく、ついうっかり、カッとなって、という言葉を冠に、放った弾丸が何かを撃ちぬいたことから始まるコミュニケーションの齟齬は今日もどこかで起こっており、誰かが傷ついている。

 言葉は他者とのコミュニケーションを主体とした人間社会において必要不可欠なツールではあるが、その一方でふとした間違いで容易に他人を傷つける凶器にもなり得る。人の悪口を言ってはいけない、を今の世の親が子に教えるのは別にそれが国民の義務だからではなく、自身が放つ言葉が有する危うさを経験で知っているからだ。相手の放った弾丸で痛い目に遭ったこと、もしくは自分が放った弾丸で痛い目に遭わせてしまったことを知っているからだ。そのトラウマや後悔が少なからず本人の人格に影響を与えているからだ。

 親から言われた自己否定の言葉。友達や恋人とのすれ違い。担任の教師や親戚の叔父から受けた将来の否定。職場の上司や先輩の何気ない嫌味。インターネットで見かけた目を覆いたくなるような罵倒の文言の数々。生きていればいるだけ自身の身体を撃ちぬく弾丸の数は多くなり、その度に傷を負ってはゆるやかな時間の流れと共に再生する。撃たれる前の摩耗し擦り切れた人格を少しずつそぎ落としながら、そぎ落とした部分に新しい価値観や処世術を補填しながら。そうやって少しずつ純粋さを、優しさを捨てて、賢くしたたかになっていく。

 

 人に向けて放たれる弾丸は、大抵は身体を貫通して消えていく。時間と共に風化していく記憶と共に傷口は修復し、その時放たれた言葉を自然と許せるようになる。自分を撃ち抜いた言葉を忘れることはなくとも、確実に鈍化した痛覚とその時より割り切れるようになった性格は、思ったよりも寛大にそれを水に流す。だが稀に、自身の身体を貫通せずに、自身の中にずっと残ってしまう弾丸がある。

 切り付けられた傷も撃ち抜かれた傷もいずれは修復するが、自身の中に残ってしまった弾丸は容易には取り除くことが出来ず、傷が修復した後も些細なきっかけでじくじくと痛みだす。いっそ迷惑なほどに頑丈で、感情の乱高下程度では簡単に死ねない生き物である人間は、時に癒えぬ痛みを抱えつつ生きていかねばならない。

 もちろん抱えてしまった痛みと真摯に向き合い、また痛みを感じながら、自身の中に残った弾丸を取り除くことが出来る人は少なからずいるが、その痛みに向き合うことすら怖く、忘れよう、忘れようと逃げてしまう人もいる。これを書いている僕もそういう人間である。過去に自分の放ってしまった弾丸にも、自身の中に残ってしまった弾丸にも、ずっと向き合えず痛んだままだ。年々心に増えていく盲貫銃創を抱えて、些細なことでフラッシュバックした記憶でもがいている。膿んだ傷口を見て見ぬふりして生きている。痛みから逃れられないのを分かっていて逃げ続けている。

 弾丸を抱え込んだまま再生をしてしまった心をほじくり返す勇気を今更付けられない。犯した過ちに対する贖罪をする手立ても希望もない。ずっとこのまま刺さった弾丸と共に生きていかねばならないという、情けなく悲壮な決意をした時に、そういう決意をしてしまった人に、このバンドを聴いてほしいと思う。僕が大好きなバンド、ハヌマーンの話だ。

 

 

 ハヌマーンの話

 

 あのバンドが解散していなければ、今頃もっと。

 邦楽ロックを、というか音楽を聴いているリスナーには、そう思ってしまうバンドが少なからずいることだろう。日の目を見ずに道半ばで消えていったおびただしい数のバンドの中には、続けていれば音楽シーンをひっくり返すような大ブームを起こしたであろうバンドがあったかもしれない。革命に爪が届いたバンドがあったかもしれない。ハヌマーンもそういうバンドの一つだと思う。

 

 

 思う、というか、解散した今でも熱心なフォロワーを生み出し続けている化け物バンドで間違いはない。今でも満を持してサブスクが解禁されると、その日のTwitterのトレンドに上がるくらいにはその影響力を感じさせる存在である。

 切り裂くようなテレキャスターサウンドに耳の嗜好をすべて持っていかれて邦楽ロックにずぶずぶとハマっていった僕みたいなリスナーにとって、ハヌマーンは間違いなく義務教育。単なる1バンドとして数えるのはどう考えたって無理。自身の好きな音楽性を求めるための「指針」及び「基礎」となり得るスーパーロックバンドである。僕はもう、例えば救いようがないくらいにゴミみたいな性格をしている人がいたとしても、もしもその人がハヌマーンを愛聴してたとしたらそれだけで信用してしまうくらいには心酔している。ああそうだ信者と言ってくれて構わない

 とにかくすべてがカッコいい。鳴っている音のすべてがカッコいい。それだけ。上に挙げた猿の学生もそうだし、この曲もそう。

 

 

 イントロからアウトロまで聴きどころしか無し。滅茶苦茶なイントロ、ゴリゴリのリズム隊、ずば抜けて機知に富んだ歌詞。そしてとても弾きながら歌ってるとは思えないギター。未だに残っている公式サイトのバンドプロフィールにある「空間を切り裂くような緊張感」というフレーズがちょっと苦笑気味に紹介されることもあるが、というか僕も少なからずネタにしているが、一切過言のない事実である。

 とにかくこのギターの音が僕は本当に好きで、YouTubeで初めてハヌマーンを聴いた時に「ああ、僕がロックバンドが好きなのはこの音のせいだな」と漠然と思ってしまった。未だにこの独特な、ギターが唸るような歪み方をしたサウンドを軸に使ってるバンドを見つけると聴き入ってしまう。ナンバーガール系譜のこのサウンド、これよ、これこそが真の邦楽ロックだろ、と思っている節は間違いなくある。余計な言葉が要らないカッコよさ。

 加えてリズム隊の二人もゴリゴリに主役を食いに来るアグレッシブなプレイをしており、ギターボーカルが凡庸だったらそれだけで完膚なきまでに食われてしまう獰猛さを孕んでいる。どの曲を聴いてもベースは重たいしドラムはバカみたいに手数が多い。何気に初めて「鳴ってる音全部かっこいい」と思ったバンドかもしれない。三者ともにわかりやすく人外。

 

ワンナイト・アルカホリック

ワンナイト・アルカホリック

  • provided courtesy of iTunes

 

 違法アップロードに頼らず音源上げれるの本当にサブスク解禁ありがたい

 とりあえずもう百聞は一見に如かず、百文は一聴に如かずっていうことでこのハヌマーンってバンドも美辞麗句を100並べる前に一曲聴けばわかるバンドなんだけど、このワンナイト・アルカホリックとかたったの2分半弱の中にこの世の全ての「カッコいい」が詰まってる。軽やかでありながら切れ味鋭いギターサウンド、重くもきっぱりとしたベース、ことあるごとにスネアを殴打するドラム、飄々としつつもなんとも言えない色気のあるボーカル、そして小説然とした叙情溢れる歌詞。すべてが絶妙な塩梅で、絶妙なバランス感覚で成り立っている。いやもしかすれば、僕の知らない部分の傍から見れば何か破綻しているのかもしれないが、たとえそうだとしても胸を張ってカッコいいものだと断言出来る。理屈が分かっていなくても本能で良いと言える音楽。

 彼らの放つサウンドも最高に好きなのだが、何より僕が愛してやまないのは何よりその歌詞。ハヌマーンのフォロワー、というかハヌマーンに影響された(であろう)バンドというのは、僕が知っているだけでも片手には収まらないくらいにいるが、そのどれもがハヌマーンには、ハヌマーンほどの存在感を擁するバンドにはなれなかった。演奏面の個々のスキルとか音楽的な観点で言っても色々あるのだろうが、僕は山田亮一の書く歌詞こそが一番の要点だと思う。この国には本当に多くの素晴らしき作詞家がいるが、僕は現在の彼が組んでいるバンドであるバズマザーズでの活動も含めて彼の紡ぐ歌詞が一番好きだし、おそらくこれはずっと先も変わらない。

 

トラベルプランナー

トラベルプランナー

  • provided courtesy of iTunes

 

 消耗して イメージを使い切って

 新しい存在になれるのなら

 真夜中一人きり 呟いてしまうような

 僕は一節の言葉になりたい

 

 ハヌマーン――トラベルプランナー

 

 文学的で退廃的、叙情的でとびきりシニカルな言葉選び、そこに内包される隠し切れない人間臭さとやさしさ、独特かつ秀逸な比喩表現、驚くほどにメロディと融和する詩の世界観、そして語感やリズム感など口ずさんだ時の心地よさ。どこをどう切りとっても歯噛みするほどに魅力にあふれた、彼だけが紡げるこの歌詞。僕が同業者だったら嫉妬で首でも切ってたかもしれない。これはもう「才能」という言葉だけで片付けるのは失礼に値する。丹念に、丹念にセンスを磨かなければこんな言葉選びは出来ない。

 もともと小説家を志していた、というのも頷ける話だ。単純な語彙もそうだが、誰もそれまで歌詞の中で言語化しようとしなかった・あるいは出来なかった感情の描写が卓越して上手い。普通なら悲しい・虚しい・遣る瀬無いといった単一的な言葉でしか表現されない感情の澱を捉えて言語化する描写力というか。ものすごく俗っぽい例えをするなら、「あー分かる~ほんとそれな」と頷いてしまうようなことを、常人では出来ない言葉選びで書いている。僕らと見えている世界の彩度は変わらないはずなのに、僕らが見えていなかったものを的確に捉えている。

 

 アラーム音固定パターン1に 

 感情まで支配される朝は

 血でも魂でも何でも売っぱらって 

 たった1秒でも長く眠りたい

 

 ハヌマーン――トラベルプランナー

 

 上で挙げたトラベルプランナーも冒頭一発目からこれである。この無気力感。虚脱感。そしてなんといっても「分かる」歌詞。元も子もないことを書くが、山田亮一はハヌマーンにたどり着いてしまう人が好きな歌詞を書くのが本当に上手い。YouTubeをぐるぐる巡回しててハヌマーンにたどり着く奴なんて、ましてや好きになる奴なんて、その99%は過去に何かしら後ろめたいことがあって太陽に中指立てて生きてるような人ばっかりだ。ド偏見だけど間違ってないと思う。だって僕がそうだし。

 

比喩で濁る水槽

比喩で濁る水槽

  • provided courtesy of iTunes

 

 単純な言葉選びや比喩表現のセンスだけでなく、歌詞全体で魅せる技法もすさまじいものがある。例えばこの「比喩で濁る水槽」。ここで語られる二人称の「彼」の皮肉な態度や「俺」との複雑そうな関係性は、間奏後の歌詞でぐるっと印象が変わる。「彼」に対して抱いていた恐れのような感情が、憐憫と身を摘ままれるような感覚に変わるそれに、まるで秀逸な叙述トリックを目の当たりにした時のような感動と、歌詞自体の孕む憂鬱に何とも形容しがたい気持ちになってしまう。

 とにかく全曲どこかしらにグッとくる言い回しや表現、世界観があり、それも聴くたびに持ち得る感情やその時の価値観によって色が変わる。聴いた当初はそこまでグッとくるわけでもなかったフレーズが、ふと聴きなおすと途端に色めく瞬間がある。そうやってのめり込んでいく。聴き始めてからもう何年か経つが、未だに定期的にハヌマーンばっかり聴く時期がくるのはこのせいかもしれない。聴きなおすたびに胸に深く刺さる言葉が増えているように感じる。

 

 上に書いた通りハヌマーンは、スーパープレイヤー3人によって繰り出される破壊的なサウンドと、山田亮一による唯一無二の歌詞、それだけでも十二分にずっと聴くだけの価値と魅力のあるバンドである。ただ、彼らの音楽を単なる音楽的欲求を満たすために聴いているかと問われると、それはそうなんだけど馬鹿正直にそう答えてしまうとちょっと色気が無い気もする。

 何を隠そう、僕は数年前、今までの人生で一番きつかった時期に、ハヌマーンを聴いて勝手に救われて生き延びたタイプの人間なのだ。ハヌマーンが無かったら冗談抜きで飛び降りるか首を吊るかしていた。「World's System Kitchen」と「RE DISTORTION」が県内のTSUTAYAのレンタルコーナーに置いてなかったら死んでいたかもしれないのだ。それくらい脆い魂が、今この長ったらしい文章を書いている。

 いったい僕は、音楽的なかっこよさ、音の爽快感、そして世界一魅力的な歌詞のほかに、何を求めてハヌマーンを聴くのだろう。数年前の僕は、いったいハヌマーンの何に救われたのだろう。彼らの歌と詩に僕は何を求めるのだろう。数年前、車の中で泣きながら幸福のしっぽを聴いていた自分のことをわざわざ思い出しながら彼らのアルバムをぐるぐるとリピートする日々の中で、ハヌマーンの歌詞を自身の信条のどこかに据えて毎日を過ごす中で、なんとなく思い当たったことが一つある。

 僕は彼らの音楽に、紡がれる詞と怒鳴られる歌に、いわゆる「麻痺」のような役割を求めているのではないか。今年の夏に読んだある一冊の小説がきっかけで、そんなことを考えるようになった。その一冊とは、泣く子も黙って首を振る稀代のアル中でありロックスター、中島らも氏著の奇書「アマニタ・パンセリナ」である。

 

 

 麻痺を求めて

 

アマニタ・パンセリナ (集英社文庫)

アマニタ・パンセリナ (集英社文庫)

  • 作者:中島 らも
  • 発売日: 1999/03/19
  • メディア: 文庫
 

 

 中島らもという人間を一言で説明するなら「アル中」である。今まで僕が読んだ著作のほとんどすべてに、何かの冗談のような常軌を逸した飲み方をして病院のお世話になっている下りがあるのだから間違いない。脳と肝臓のネジとブレーキを自我の製造過程で放り投げて、治すどころかそれに度数の高い酒をぶっかけて火を点けるような、破天荒にもほどがある生き方をしており、どんなに切羽詰まった〆切が来ても強めの酒をキメてラリってしまえば明け方には何とかなっているヤバイ人である。

 そんなヤバい人だから、なんかヤバイ人に好かれる。というか頭のねじがおかしな方向にぶっ飛んでいる人は大抵どこかで自然と中島らもを通っているらしい。有名どころで言うと米津玄師とか。かくいう山田亮一もどうやら中島らも読者だそうで、今組んでいるバズマザーズでは「心が雨漏りする日には」という小説タイトルをそのまま引用した曲を作っていたりする。他に引用している著作は思いつかないが、もしかすると「バクのコックさん」は「獏の食べのこし」からインスピレーションを受けていたりするのかもしれない。推測だが。

「アマニタ・パンセリナ」はそんなアル中が書いた、ドラッグについてのエッセイである。睡眠薬から大麻、シンナー、LSD、果てにはガマの油やアヘンまで、著書自身の体験だったり古今の作家の名著から引用したりしながら、古今東西のいろんなヤバいクスリについて語る、奇書と名高い怪作である。晩年は大麻取締法違反で逮捕され懲役を食らった著者らしいといえば著者らしいが、大麻の研究すら禁じられているほどにドラッグに厳しいこの国でよくもまあ出せたなと感心すらしてしまうほどぶっ飛んだ体験のオンパレード。出来ることならラリった著者の虚言、もしくは幻覚であってくれた方が幾ばくかマシではないかと言わんばかりの展開が、約200ページと少し続く。

 全15編の掌編からなるこの作品は、どの話の下りも悪い夢のようだが、個人的に一番引いたのはハシシュ(大麻製品)の下りである。ざっくりあらすじを説明すると、乳首とラッキョウが原因でドイツ人とオーストラリア人が喧嘩して、そのあといろいろあって数人でハシシュを回し飲みして、翌朝ラリった脳みそのままドライブに行って車を谷底に落とすという、C級映画の脚本家でももう少し頑張ってプロットを練り込んでそうなほどアホな話だ。こうやって文字に起こした僕も一体何を書いてるのか全く分かんない。

 

 そんな、常人の見た悪い夢が甘美なものに思えるほどにトチ狂った展開の続く一冊だが、その中で「人はなぜ快楽を求めるのか」という人間の根源的な欲求について、著者自身の言葉で語っている部分がある。僕はそこを読んだ時に、日付なんかとっくに変わった真っ暗な帰路の中、ハヌマーンを大音量で流して泣きながら車を走らせていた数年前の僕の、ぼろぼろだった心が少し分かったような気がした。以下、その箇所を引用する。

 

 ……それでも人々は往々にして「麻痺」に憧れる。

 それは現世というものが往々にして「憂き世」だからである。少し覚醒しておれば、この世の憂さも見えてくる。人は、覚醒とは正反対のものを目指すようになる。

 

 アマニタ・パンセリナ――中島らも集英社文庫

 

 氏の、有機溶剤(シンナー)の体験談を語る章の最後の方に綴られたこの一節に、僕がハヌマーンを飽きることなく聴き続けている理由が凝縮されていた。僕はハヌマーンを、というか痺れるほどにカッコいいものを堪能して、文字通りずっと麻痺していたいのだと思う。麻痺していたかったのだと思う。

 自身の信ずるカッコいいもの、気持ち良いものに触れて、何も考えず、何もかも捨てて、ただ快楽の涯へ逃げてしまいたかったのだと思う。生まれた時から間違いなくそこに在ったのに、どこか他人事のようにぼんやりと捉えていた巨大な憂き世がいざ自身に牙を剥いた時、立ち向かう術も勇気も養ってこなかった僕は、ただ逃げることしか出来なかったのだと思う。ハヌマーンに、カッコいい音楽に逃げていた。後々聴き返すたびに当時のつらさがフラッシュバックして吐きそうになってしまうほど、彼らの音楽を依り代としていた。

 仕事や人間関係で受けた痛みを、自身のふがいなさで生じた傷を、思いがけずぶつけられた言葉の弾丸による銃創ときちんと向き合って一つ一つ治療するのではなく、ゆっくりを膿んでいくそれをただ見て見ぬふりしか出来ない僕は、痛覚を麻痺させることをずっと選んでいる。それが間違っているとは分かっていても、それしか出来なかった。そういう意味では、僕にとってハヌマーンは強力な麻痺剤のようなものだ。聴いている間だけはその音に、歌に、世界に没頭できた。6時間後には何も変わらずにやってくる朝のことを考えずに済んだ。聴いた分だけ現実から遠ざかれる気がした。

 

 

 一人残らず呪い殺してやるぜ

 だけど今は黙ってヘラヘラ笑えよ

 

 ハヌマーン――アナーキー・イン・ザ・1K

 

 ハヌマーンのころも今のバズマザーズでも、山田亮一の書く詞からは時折、どうしようもないほどの死の匂いを感じることがある。突飛で奇想天外な世界とはそこまで縁のない、どちらかと言えばてんでダメな日常に寄り添うような彼の詞は、何の進展もなくただゆったりと腐敗していくだけの下り坂の毎日が、呆気なく死んでしまう未来と薄氷一枚程度の壁で隣り合わせになっていることをひしひしと感じさせる。

 どこか現実とは異なる位相にある言葉に思えるこの「死」という概念も、よくある現実逃避の手段の一種とも考えることは出来る。その気になれば、そして手段さえ選ばなければ、人間はいつでもどこでも自身の意志で命を絶つことが出来る。紐でも刃でも窒息でも落下でも。そしてどんなに辛く重く苦しいことがあっても、死ねばとりあえずすべてのしがらみから逃れることが出来る。自死は一人の人間の持つ最後の武器であり、逃げであり、そして救済である。メディアに扱われないだけで、今この瞬間も誰かが逃げるために、あるいは憂鬱が募って衝動的に首を吊っている。遠ざけられ隠される死は本来、現代人が思うよりもっと身近なものなのだろう。

 山田亮一の書く歌詞をもっとざっくりと、端的に説明してしまうなら、ふとした瞬間に生じた憂鬱や希死を、この上なく文学的に、叙情的に、耽美に書いたものだ。平坦もしくは緩やかな下り坂のまま続く憂き世の中に生まれた名もなき澱に触れ、寄り添い、持ち前の語彙と表現力で詞として可視化している。だからそこには、当たり前のように死の影がちらついている。悲壮も憐憫も輪廻の概念もなく、ただの代謝のように扱われるそのシニカルな詞は、見方を変えれば冷酷にも思えるし、どこか優しくも感じる。

 

若者のすべて

若者のすべて

  • provided courtesy of iTunes

 

 青年と走る鉄塊は交差して

 赤黒い物体と駅のホーム

 復旧を告げる放送を聴きながら

 その光景を持って身震いする

 

 ハヌマーン――若者のすべて

 

「死」が現実逃避ならば、彼らの音楽によって与えられる・勝手に感じる「麻痺」もまた現実逃避だ。その違いは、死は終わりだが麻痺はまだ終わりではないかもしれない、ということだけ。かもしれない、なので本当はとっくに終わっているのかもしれないが、まあ結論を先延ばしには出来る。未来の展望がまったく見えない自分に、逃げ場の選択肢を増やしてくれる存在だと思えるのならば、精神が弱っているときにこれほど心強い支えは無い。死に踏み切れる勇気のない心しか持たぬのならばなおさらだ。

「痺れるほど」カッコいい、という比喩表現はもしかすると、比喩でも何でもないのかもしれない。憂き世にて麻痺に焦がれるように、苦悩と疼痛に苛まれるばかりの毎日にハヌマーンを求めていた。それは今でも、きっとこれから先もそうなのだと思う。

 

 

 見えないことにした

 

 絶えず流れ続ける暗いニュースに囲まれ、不景気の波に揉まれ、明るい兆しなんて退屈な校歌の退屈な歌詞でしか馴染みのなかった時代に生まれてから、自分を囲う世の中に大きな希望を抱いたことなんてほとんどない。あったとしてもそれはすべて一時的な気休めのようなもの、揮発性のものだった。些細な切っ掛けで根付いた鬱屈によく分からないまま肥料を流し込み、芽吹く自尊心に言われるがまま除草剤をぶっかけるような生き方を繰り返して、そういう性格こそが「謙虚」だと信じてやまなかった僕は、それが謙虚ではなく「卑屈」だと気が付くのに、思えばずいぶんと時間がかかってしまった。

 自分に期待をしていないので、自分のコントローラーを人生の運用が上手な人に任せて、残りの生はもうずっと自我に閉じこもって蓋をしてそのまま眠ってしまいたいと思うことが、少なく見積もっても週に7回くらいある。自分が自分であることが何よりもはずかしい。意志決定権も生殺与奪の権も全部他人に握ってほしい。面倒くさいことからずっと逃げていたい。世界一「責任」という言葉が嫌い。けれどどれだけ逃げても、何事もいつかはけじめをつけないといけないので、その度に盛大に失敗して、矮小な心に痛みを増やしてなんとか切り抜けている。健やかに育っていたはずなのに、知らないうちに随分曲がってしまった。背筋も性根も、取り込み、宿し、放つ言葉も。

 無数の言葉を通して世界を見ている我々には、無意識のうちに人生そのものが、知り得た言葉の数々に引っ張られていく性質があるのだと思う。思いがけない切っ掛けも運命的な出会いも、それに至るまでの自分の行動を作っているのはそれまで出会ってきた言葉であり知識であり、「思いがけない」も「運命的な」も言ってしまえば副産物に過ぎない。だからこそ誰もが自身にとって耳心地の良い言葉ばかりを求めたがる。それを求めるあまり知らず知らずのうちに誰かに突き刺さるような言葉を装填し、発砲し、時には他者のそれに撃たれる。そうして少しずつ傷を増やし、その度に時間の経過と取り込む言葉によって修復し、昨日の自分の有していた心が少しだけ強かに、賢く、ひねくれる。まるで免疫を獲得する身体のように。そうしてまた誰かを傷つけ、誰かに傷つけられる。時々心に抜けなくなった弾丸を残しながら。そうやって痛みの増えた心をかかえて、言葉に手繰られて日々を生きていく。この世界にいる誰もがそうだ。

 

 時折こんなことを考えることがある。よくある勧善懲悪の物語に出てくるような生まれつきの悪人なんて、世界のどこにもいないのではないか。誰もが世界よりほんの少しだけ、自分の方が大事なだけなのではないか。自分の手の届く範囲の外のことまで考えようとすると、自分の守りたいものと世界の都合が合わなくなってしまうから、無意識のうちに自身の世界を狭めていく。自身の手の届かない場所を最初からなかったもの、見えないものとするために。

 

幸福のしっぽ

幸福のしっぽ

  • provided courtesy of iTunes

 

 それでもまだ人間でいたくて

 明日もまた同じ 場所へ同じ手段で行く

 誰もがまだ人間でいたくて

 見えないことにした からくりも種も仕掛けも

 

 ハヌマーン――幸福のしっぽ

 

 誰にも世界のすべてなんてものは分からない以上、誰の見る世界も必ずどこか不完全で、まったく見えない部分がある。世界のすべてを知るのに100年と少しの寿命は短すぎるのだ。だから人間には最初から、見えないものを自身の都合のいいように解釈する機能が、思考を放棄する機能が備わっているのだろう。年を重ねるごと、心が摩耗し擦り切れるごとにその機能の便利さに気付きゆく人間は、いつしかどんどん独りよがりになっていく。そういう人間に溢れて、世界は狭量になっていく。無数の言葉の弾丸が絶えず飛び交う世界になる。

 心無い言葉に撃たれ、その疼痛に苦しみ膝をついても、それでも死ぬ勇気が無いのであれば、生きている間は生きることしか出来ない。どれだけ億劫でも面倒でも、心が無数の傷跡に苛まれて痛んでも、死ねないのならば生きることしか出来ない。それに気付いた時に縋れるものが一つも無いのとあるのでは全然違う。ハヌマーンの音楽は、求める人にとっては心置きなく縋れるものだと思う。抱えてしまった痛みを麻痺させてくれる。

 

リボルバー

リボルバー

  • provided courtesy of iTunes

 

 弾倉には一発 共犯者になってやるよ俺が 

 ぼーっとしてんなよ 行け リボルバー

 

 ハヌマーン――リボルバー

 

 この記事でこれまでずっと「弾丸」と表現してきた、心に突き刺さって取れないままの言葉は全て、悪い意味のものばかりだ。けれど生きている中で稀に、本当に稀に、具体的に言うなら数年に一発あるかないかくらいの頻度で、思い出すだけで肩の力が抜けるような、呼吸が楽になるような、いつもよりほんの少しだけ朝が怖くなくなるような、そんな言葉に撃たれることがある。稀にくるそういう一発を忘れずにきちんと自身の心の帳面に紡げるのならば、他の弾丸による痛みがどれだけ辛くとも苦しくとも、意外と人生捨てたもんじゃないなって思えたりするのだ。ハヌマーンの音楽に乗る詞は、それを求めてやまない人にちゃんと応えられる詞だと保証できる。

 

 生きていればいるだけずっと、色んな言葉に撃たれて生きていく。それでもずっと心に残ったまま取り出せなくなった、無数の弾丸の中にたった一発でも、こういう刺さり方をする弾丸があってもいいじゃないかと思う。少なくとも僕にとってハヌマーンはそういう音楽を作ってくれたかけがえのないバンドだ。これからハヌマーンに出会い、好きになる人にとっても、そういうバンドであってほしいなと思う。

 

いつか未視聴ライブDVDに埋もれて死ぬ

 

STRAY SHEEP (アートブック盤(DVD)) (特典なし)

STRAY SHEEP (アートブック盤(DVD)) (特典なし)

  • アーティスト:米津玄師
  • 発売日: 2020/08/05
  • メディア: CD
 

 

 とにかく「初回限定盤には○○で行われたライブDVD付属!」の文言に弱い。もう本当に弱い。脊髄反射タワーレコードオンラインの予約ボタンをプッシュしてしまうくらいに弱い。つくづくロックバンドにとって自分はただのしゃべる機能の付いたATMであることを自覚する瞬間である。

 もう本当に僕は、というか好き好んで音楽みたいな形のない娯楽を追っている連中はみんなきっと、とにかくライブを収録したものが好き。映像媒体が大好き。三度の飯を削って音楽に金を使っているような生き方は間違っているとは分かっていても、新譜の発表がされれば特に何の疑問も抱かず反射で高い方を予約してしまう買ってしまう。明日の飯より今日の快楽。身体全てが脊髄で出来ているような行動原理である。今仮に空から2億円降ってきたとしても、チンパンジーより有意義に使える自信がない。サブスクを導入しているにも関わらず、ライブDVDの文言だけでカートを埋め尽くしてしまう悪癖はきっと、この趣味に見切りをつけるまで治らないのだろう。

 

 ライブ音源をその場の雰囲気や空気感ごと贅沢に音楽ファイルに変換して、どこでも気軽に持ち運べるようにしたライブCDも偉大だが、やはりライブDVDの存在感は別格だ。時間的に、地方民的には場所の関係で行けなかったあの日あの時の最高の舞台、最高のステージング、最高のセットリスト、最高の演出を、完璧に不足なく切り抜いたカメラワーク、そして編集。手のひらサイズの円盤に宇宙のすべてが詰まっているといっても過言ではない。まさに神盤。神が宿る円盤と書いて、神盤。好きなアーティストのライブDVDは最高だ。どうでもいいが2020年10月現在ウチにはBlu-rayを再生できる環境がないのでBlu-rayの話はしない。今年買うつもりではいる。いるだけ。

 立てば浪費、座れば散財、歩く姿は一擲千金と呼ばれて名高いワタクシは、不興に悩む音楽業界のために今日も今日とて緩すぎる財布のひもをちぎり捨てる勢いでタワーレコードオンラインとAmazonのページを行き来しながらせっせと新譜の初回生産限定盤の予約に励んでいるわけだが、日に日に少年漫画のごときインフレを繰り返すクレジットカードの請求料金を見て背筋と脳髄が冷えたのが切っ掛けで、最近ついに気付いてしまったのだ。

 

 買ったライブDVD、観てなくね?

 

 よくよく思い返してみれば、米津玄師のアルバム(アートブック盤)についてきたライブDVDは観てない、フレデリックのEP(初回盤)についてきたDVDも観てない、ヒトリエのベスト(初回生産限定盤)についてきたDVDも、こないだ発売されたUNISON SQUARE GARDENの新譜(初回限定盤)に付属していたDVDも、年始に買ったKing Gnuのアルバム(初回生産限定盤)のライブBlu-rayも観てない。最後のKing Gnuに至っては、鑑賞できる環境を整える前提で買ったくせに、結局今でもBlu-rayドライブの一つすら買わないまま棚の中にずっと放置している。ろくに開封してないから分からないが苔とか生えてるんじゃないか、僕のCEREMONY

 そもそも、僕は未だに去年行われたユニゾン舞洲のライブDVDもまともに見終わってない。発売日を確認したらまさかの去年だった。おいおいおいまってくれよ、俺たちの15周年はまだ終わってねえよなあそうだろ、斎藤さん、田淵、タカヲ…………大体何なんだLIVE(on the)SEATって、俺に隠れて新しいライブツアー始めるのやめてくれ、ずっとあの煌びやかな15周年の記憶に浸らせてくれ、それはそれとしてさっさとfth8を再開してくれ、俺をユニゾンvsヒトリエの妄想から解き放ってくれ

 あの米津玄師も満を持して今年からサブスク解禁し、最早サブスクやってないアーティストの方が珍しいのではないかとすらも思ってしまう今日において、そもそもCDとかいう前時代的媒体をいつまでも買いあさっている方が滑稽であるという思いはぬぐい切れない。単純に考えて毎月1枚以上CDを買うなら、定額のサブスクに登録した方が金銭的には絶対に得なのだ。音源をデバイスにインポートする手間もCDとは比べ物にならないほどに楽。僕自身サブスクに登録してから、買うだけ買って開封すらしてないCDが多々ある。最近ならヨルシカの「盗作」とか。今年に入って間違いなく一番聴いてるアルバムなのに、開封してないんだぜ。ホラーかよ

 なので今僕がCDを買うのはそのアーティストに対する純度の高い応援のこころ(という名のお布施)という意味合いが以前よりも強いのだが、それなりの額のお金を払った人間に相応、いやそれ以上の見返りを付けてくれているロックバンドには本当に頭の下がる思いだ。人より多く金を払ったらライブDVDがついてきた。ありがたし、と感謝の意を示したのちに身を清め、服装を整えてディスプレイの前に正座し、画面越しのロックバンドの一挙一動を網膜に焼き付け、表情一つ変えず暗い部屋で一人尊さに耐えきれず涙を流し活力を得て、来る日のために厳しき現代漂流に再び飛び乗ることこそが、音楽ファンたるもののあるべき姿なのではないか。

 だが俺はその見返りを求めることなく、単に他の人より高い金を払っているだけのただの「散財が趣味の人」となり果てている。まあ、見方を変えれば敬虔であるとも言えなくはない。あまりにも無駄だが。せめてビル・ゲイツくらい稼いでるなら格好も付くかもしれないが、低所得者層の僕がやったところでそれは緩慢な自殺でしかない。スーサイド散財。己の命と引き換えに音楽業界の経済を回している、と息巻いているだけのただのバカ。ドン・キホーテが風車に挑みながら僕を指さして笑っている。おのれ蛮勇め、と憤るも、結局今日も僕がDVDを見ることはない。明日もない。

 理由はただ一つ。もうびっくりするほど面倒くさい

 

 なんかもうね、CDを詰め込んでる棚とDVDを鑑賞するためのノートパソコンがね、それぞれもうびっくりするくらい定位置であるベッドから遠いの。1歩にも満たない距離のはずなのに天竺くらい遠く感じる。ついでに言えば身体をベッドから起こすだけでその日一日の体力を使い果たしてしまう。刮目してくれ、現代社会に蝕まれた成人男性の憐れなる姿を

 わかる、わかるよ、好きなアーティストのライブ映像を見ると元気が出るのはめっちゃ分かるよ! リポDよりアリナミンより身体に強いブーストを掛ける存在だってことは分かってるんだよ! 分かるんだけどその見るための元気が出ないんだ。元気を得るための元気すらないというジレンマに陥っている。元気があれば何でもできる、は本当にそうだ、元気さえあれば何でもできる。あくまでもあれば、の話だけど。

 仮にめちゃくちゃ頑張ってベッドから動いたとしても棚が汚すぎて何がどこにあるか分からない。さっきチラ見したが、ラノベと雑誌と漫画と学生時代に使っていた教科書に侵食され過ぎて各種の初回限定盤特典どころか目的のCDケースの影も形も見えない。迷宮みたいになってる。もし異性がこんな収納棚してたらそれだけでお近づきになりたくないポイント高得点間違いなしの、人として終わってる収納である。A型の人が見たら白目向いてぶっ倒れるんじゃないか

 そんな迷宮にてヒイヒイ言いながら目的のDVDを見つけ出したとしても、棚を元通りに片付けて一息ついた僕に体力が残っているはずもなく、もう明日でいいや……と思って床に就き翌日には忘れている。運よく思い出したとしても、ノートパソコンの前まで来て開いて電源を入れるのが面倒くさくて結局諦める。数々の艱難辛苦を乗り越えて電源を点けたとしても結局Twitterを開いて二束三文に鼻で笑われるようなツイートを量産して時間をドブに捨てて満足し、当初の目的を綺麗に忘れてパソコンの電源を切っている。税金を納める機能の付いたウンコ製造機のような生活をしている。

 もうなんだろうな、いっそのこと感情とか捨てたらどうだろう。もっとシステマチックに、出来る限りでいいので無駄を省いて生きてほしい我が身体ながら。この星の支配者の階級に産まれてこの醜態は生態系を侮辱している気すらしてくる。他のすべての生物に謝罪をしたい。ミミズだってオケラだってアメンボだって、皆さんあくせく生きてらっしゃるんだ、怠惰なわたくしですが今更友達面をしてもよろしいでしょうか、申し訳ございません

 とにかく探す→準備する→観るまでの手間が、なんかもう役所の手続きくらいめんどくさいのだ。面倒な工程全部すっ飛ばしてスマホ片手にピッとしてパッとやったらサッと観られればいいんだけど、例えお金を払っていたとしても、CDケースを開いてパソコンの電源を入れてDVDをドライブに挿入する、そこまでは頑張らねばならない。その最低限が頑張れない。力が出ない。顔と心が汚れているからかな?

 このままではダメだ、と一念発起して今日はDVDを観るぞ! エモーショナルにぶん殴られて死ぬぞ! と決死の覚悟を決めたところで、まずはライブDVD鑑賞のおともにと近所のコンビニでポテトチップスやジュースを買い込むも、帰ってきたころには何のために買ったか忘れており、結局何も考えることなくそれらを貪ってライブDVDに手を付けることなく寝てしまう。揶揄されるカウチポテト族ですらポテチを食べながらテレビを見るというご立派過ぎるマルチタスクをこなしているというのにも関わらず、俺はただ目的を見失ったままギトギトのポテチを部屋の壁を見ながら食べている。こんなもんカウチもクソもないただのポテト、イモ野郎である。そのうち身体中の毛穴から毒芽が出てくるに違いない。

 

 実際のライブや配信ライブ映像は、その日(まで)に観ないと観れないという分かりやすい制限がついているから、どれだけ移動や待ち時間や準備が億劫だろうと何だかんだ頑張れるのだが、一度買ってしまえば自分の好きなタイミングで観ることの出来るライブDVDというのは本当に扱いに困る代物で、時間がある時に観ればいいやみたいな考えでいるととうとう観るタイミングがない。多分上に挙げなかったもの以外にも、僕の記憶からすら抜け落ちて収納棚の奥底で泣いている未開封のライブ映像があったりするのだろう。泣きたいのは俺の方なんだが?

 まあ年がら年中積読に頭を抱えて「新刊が買えない~」とほざきながら、本屋に行くたびに何か仕入れている身分の僕が、音楽でもこういう悩みに行きつくのは当然と言えば当然の帰結に思えるが、こういうことを繰り返してるといずれ「気持ちの問題ではなく、単純に時間的な問題で購入したものを死ぬまでに嗜めない」という本末転倒な展開に陥ってしまいそうな気がする。人生の残り時間をどう使っても買ったものを消化できないのは流石に嫌だ。

 ジジイになった僕がよぼよぼの身体を軋らせながら、20代で買ったライブDVDを前にして嘆いている姿が見える。しんしんと雪の降るの夜、地方都市の古びたアパートの一室にて、若いころの怠惰を無情な瞳で消化している老後の自分が見える。もはやなぜ好きだったかも覚えていないカラフルなポップソングを鼓膜に擦り付けては、おぼろげな20代の面影を薄れゆく記憶をたどって追いかけても、事細かなことは霞の様に消えてしまう。自分はなぜこれが好きだったのか、何故これを買ったのか、なぜ買ったのに観なかったのか、自分はなぜあんな無駄な時間を過ごしたのか、そんなどうしようもない後悔の念に苛まれながら、衰え行く聴覚のために際限なく音量を上げた結果隣人トラブルに発展しいろいろあってアパートを追い出されることとなり、荷造りをしている最中に未視聴のライブDVDを詰め込んだ段ボールが脳天に落ちてあえなく死ぬ、そんな未来が見える。

 

 こうしてはいられない、栄えある未来のために今日こそ溜まりに溜まったライブDVDを観るのだ!! と、先日意気込んでこないだ買ったPatrick VegeeのライブDVDをドライブに挿入したのはいいものの、観ている途中でディスクの振動によってドライブがテーブルから落っこちてしまい、めちゃめちゃいいところで映像が途絶えて気持ちが過去一番と言っていいほど萎えて現在に至る。

 

f:id:sunameg:20201024162541j:plain

 

 いつか未視聴ライブDVDに埋もれて死ぬ。

 そんな未来が見える。本当に。

CRYAMY、不時着の果てに

 

 結局歌メロなんですよ。

 

 コード進行もスケールもナントカ奏法もその他諸々の音楽的知識も何もかも有さない、リコーダーもろくに吹けなかったせいで義務教育での音楽の授業がただの苦行だった僕からすれば、エモーショナルなコード進行とか巧みなリズム隊とかカッチョイイギターとか各楽器のアンサンブルとかメンバーの容姿とかそういうのはぶっちゃけどうでもいいんですよ。いやどうでもはよくないけど、というかそれに惹かれて聴き始めたバンドもたくさんあるけど、それはあくまで副次的なものなんですよ。たとえバントという形態であれ、歌があるならその歌の部分が好みでないと、どうしてもリピートが出来ない。

 UNISON SQUARE GARDENSyrup16g、THE PINBALLS、GRAPEVINE、ナナヲアカリちゃん……はバンドじゃないにしても、今までこのブログで個別に紹介してきたバンドは演奏のカッコよさやボーカルの声の良さ、サウンドの心地よさなど、他のバンドにはない一筋縄ではいかない個性をそれぞれ有しながらも、「楽曲の歌メロが滅茶苦茶心地いい」ことだけは共通している。聴くだけで胸がグッとなって思わず口ずさんでしまう、すばらしき歌メロ。リスナーの心を鼓膜から手を伸ばして掴んで一生離さないかのような、呪いのような中毒性を秘めている。

「バンド」という概念そのものが好きとか、空気感が、焦燥感が、真空管の音が、歪んだギターの音が、などといろいろ理由を付けながらも、やっぱり音楽を「歌」として聴くとするならばどうしても歌メロを一番に重視してしまう。たとえバンドでは無かろうと、アニソンだろうがアイドルソングだろうが親世代の歌謡曲だろうが歌詞の意味の分からない洋楽だろうが、歌メロさえ気に入ってしまえばリピートしてしまう。僕が今おおよそバンドサウンドに的を絞って聴いている理由として、好みの歌メロを提供してくれる存在が「バンド」のくくりの中に沢山あることも間違いなく挙げられる。

 出す曲出す曲歌メロがドストライクのバンドと出会った時の感動は本当に何度味わってもなれない。脳髄から流れ出た電気が髪の毛の先端から足の指の爪までかたつむりのような速度でじわじわと這い巡るあの快楽。そしてそのバンドの知名度がまだまだ低かった時のあの「オイやったか!? これ」感。インディーズバンドを発掘するのが好きな自称音楽フリークはおそらくあの快感だけを求めて日夜YouTubeTwittersoundcloudをはしごしてる。「古参アピまだ間に合いますか?」を辞書登録してる。絶対そう。

 もう何年も前、新古関わらず邦楽ロックバンドのくくりに入るバンドをとにかく漁りに漁っていた時代と比べると、年々「この歌メロはやばい!」ってバンドを見つけるペースは減ってきた。その分既知である好みのバンドの新譜が出たら以前以上にわーわー騒いでいたりするのだが。聴きつくしたというよりは、好みの傾向が固まってきたと言った方がしっくりくる気はする。というか今好きなバンドでだいたい事足りてしまうんだな……欲求がな……それでも時折King Gnuみたいなバグが突然現れたりするから、新しいバンド漁るのもやめられない。音楽ってたのしい。

 

 とはいえ最近、「あ、これはやったわ。これはダメだ、これは聴かなきゃ俺の鼓膜の存在価値がいない。このバンドの歌メロのためだけの聴覚を準備しなければ」と思わせられたバンド、ここ2~3年でいくつあったかしら? とふと考えたのだが、いやいやこれでも邦楽ロックに関しては一通り通ってきた耳、この分野に関しては海原雄山もかくやと言わんばかりに肥えていますともとペンを片手に考えてみたら思った以上にゴロゴロ出てきて、邦楽ロック界隈の層の厚さと僕の耳の尻軽さを痛感した。良いバンドしかねえなこの国。

 今回はそんな名だたるバンドの中でも、特に歌メロがツボ過ぎて、音源を聴くたびに「人生……」と思わせられて即座にファンになってしまった物凄いバンドの話をしようと思う。タイトルで分かる通り今回はCRYAMYの記事である。もうみんな知ってると思うけどCRYAMYはマジでヤバイ。マジで、ヤバイ。この記事で言いたいことはこれだけ。はいもう終わり。こんな記事どうでもいいからさっさと閉じてCDをBASEで買ってくれ。

 だってさ、

 

 

 聴けばわかるじゃんもう。2秒でCD購入、コロナ明け後に全国ツアー参加、MCで号泣、Tシャツ購入、ライブ後最寄りの薬局で灰皿の代わりに缶チューハイも購入、となるに決まってる。音がデカくて声が良くて何より最高に歌メロが良いバンド、他に何が要りますか? 要らないんですよ。

 二年前にふとしたきっかけで名前を知って、YouTubeのリンクをクリックした瞬間全てが終わった気がする。今まで両手に抱えきれない数のカッコいいバンドとYouTube越しの初対面を済ませてきたが、こんなに「好き」の最大瞬間風速が強かったバンドはあまり記憶にない。文字通り一瞬で心を奪われた。その日はこのテリトリアルと普通を交互に聴くだけで一日が終わった気がする。テリトリアルももちろん好きだが、どちらかと言えば普通の方をヘビロテしていた。

 

 

 ぜんぜん普通じゃない。よすぎる。

 何がいいって全部いいけど特にサビの「ちょっとだけ腐っていった」の「ちょっ↑」で上がるところがもう最高に好き。聴くたびに背中に電気が走る。鳥肌が立ちすぎた腕で大根がおろせる。これはもう僕の拙すぎる知識の中では、理屈ではなく本能の部分でしか話が出来ない。あとこれは100万回言われてる部分だと思うんだけど「変わらずじまいはとうに通用せずに もう二度とは会えないね もう二度とは会えないんだね」の韻の踏み方とか。そんなんアリ!? と思ってしまうけど、問答無用のカッコよさと耳心地良さで黙らせられる。楽曲の、ひいては歌メロのパワーが半端じゃない。

 もちろんどこかグランジな雰囲気のバリバリに前に出てくるリードギターも魅力の一端を担っているとは思うし、実際僕は上2曲のほかにもディスタンスとか月面旅行とかのリフが心の底から好きなんだけど、それよりなにより歌メロが良すぎる。歌モノとしての完成度が高すぎる。聴いても口ずさんでも心地いい。コード進行の観点から話が出来ればもっと理論的な説明が出来たかもしれないんだけど、マジでなんも分からんから「なんかメッチャいい」で我慢してほしい。

 とにかく本当に力のある「サビです!」って感じの、威力のある歌メロをサビを持ってきてくれるバンドなので、これちょっと微妙だったなとか、難しいなあ分からないなあって曲がない。全部いいし全部心地いい。ここはこうあってほしい、というメロディラインを確実になぞってくれる安心感がある。そのうえで「あっこう思ってたけどそっちが良い!!」と期待の斜め上をいい意味で超えてくれるという信頼感にも溢れている。例を挙げるとするならsonic popのサビとか、正常位のラスサビとか。

 もうねえとにかく良いんですよ。なんかもう少ない語彙を駆使して匂わせる表現を多用してインテリぶっていい感じに紹介するのもめんどくさい。歌メロが、いい。僕が言いたいのは本当にそんだけ。それだけで聴く価値のあるバンドなんです。他にももっとたくさん魅力はあるんだろうけど、この1点が強すぎるのでもうそれだけでいい。YouTubeに上がってるMV全部見てくれ。soundcloudkawano no demo okibaに上げられてる弾き語りのデモ音源も全部聴いてくれ。大殺界EPマジでいいぞ。

 

 

 歌詞の話しなきゃダメか?

 

 歌メロが最高なのでもう歌詞の話なんてしなくていいかと思ったんだけど、せっかくここまで書いたのだから少しはしようと思う。今までこのブログではこのバンドの歌詞がスゴイ、あのバンドの歌詞がヤバいと、一つのバンドを語るたびに何かと歌詞の話ばかりしてきたが、今回も大体そんな感じである。例にも漏れず彼らもまた、一定層の魂を引き裂くようなフレーズを随所に持ってくるバンドである。

 

 

まだ外は冷えるから

見送りは必要もないだろう

薬局で買った缶チューハイを飲んだ

灰皿の代わりにしようぜ

 

CRYAMY――物臭

 

 よくファンの間で引き合いに出されるのをよく見るのがこの「物臭」のフレーズである。たった二行で何となく察せる生活感と頽廃の香り。この二行だけで歌詞の中で語られる「あなた」との関係性に強いリアリティを感じさせている。リアリティも何も実際に元となったエピソードが裏にある歌詞なのだから当然と言えば当然なのだが、そうだとしても語りすぎないように無駄なものを削ぎ落とし、リスナーに「匂わせる」センスがある。地に足のついた現実感が漂っているのにしっかりと詩的な歌詞。

 上で挙げたテリトリアルの様などこか抽象的な歌詞は珍しく、基本的にCRYAMYの、ひいてはソングライターであるカワノさんの書く歌詞は、目の前の現実をありのままに書いているように思える。彼のインスタにはぶっちゃけ読むのも面倒なくらいボリュームのある、野放図な生き方をしているとは思えないくらいに整った文章が不定期に投稿されているが、そこから垣間見える思想や価値観も歌詞に練り込まれているのだろう。僕より一個下とは思えないくらいに彼は自分の視点でものが見えている。で、いつも誰かと喧嘩している気がする。

 文章から何となく伺える、快不快の指針がはっきりとしていて、イラつくことに「イラつく」ときちんと言えるのであろう彼の価値観は、読んでて正直「合わないなあ」「生きづらそうだなあ」と思ってしまうことが結構ある。酒もタバコもパチンコもやらず音楽のことも感覚的にしか分からない僕と彼ではまあ、見えている世界のレイヤーは全く異なるのだろうし、曲作ってライブやってお酒飲んでとバンドマン相応に楽しそうではあるが、僕が言うのもなんだが不器用だなあと思う。

 CRYAMY結成の際も苦労なくメンバーが集まってハイ!祝・結成!! とはならなかったようだし、インタビューやライブのMCで断片的に知れる彼のこれまではかなり波乱万丈で、バンドがここまで認知されるようになった道筋はまだまだな知名度に反してあまりにも過酷に思える。彼の作る音楽はめちゃくちゃ好きだけど、彼と友達になれるかと言えば下手な部分で彼の逆鱗に触れてしまいそうな気がするので多分無理だ。きっと見透かされる。

 

 それでも、見えている・住んでいる世界が異なる僕でも、彼の歌詞はふとした瞬間に強烈に心の深いところに突き刺さる。痛みを伴っている。なんでだろうな、といろいろ考えてはみたけど、明確にこれだ、と納得する理由は見つからなかった。自分で勝手に決めた〆切が近いのでそれっぽいものをでっち上げるとするなら、書く歌詞が人称や主題をあまり語りすぎないがゆえに、歌詞を噛み砕いた際に詞に込められたのであろう痛みや虚しさといった負の感情が、自身の持つそれらの感情と化学反応を引き起こした結果、半ば強引に突き刺さるのかなあ、とか。

 

真夏に枯れた 臭い匂いのする紫色の花は

人と目が合わない私みたいだね、そうだね

凡人は永遠に誰も知らないうちに壊れていって

今日も特にやることないから近所のコンビニで死んだ

 

say good bye 眠れば起きない このまま落ちるとこまで行こうぜ

 精一杯生きた結果こんな仕打ちで笑っちまうよな

 

CRYAMY――雨

 

 曖昧な人称の使い方からぼんやりと垣間見えるそれぞれの歌詞の主軸たる人間関係とか、エッセンス程度の場景描写とかそういうものを抜きにした、単なる歌詞の纏う感情のカラーの齟齬が、書いた側と受け取る側であまり差が無いように感じる。他のソングライターと比較しても、現在の自身の置かれている状況や有している感覚から生み出された感情と結びつきやすい彼の詞は、不用意に炸裂しやすいのだと思う。刺さる、という言葉がとてもよく似合う。何を語り何を語らないかの引き算が巧みだとでも言っておこうか。

 音源では何と歌ってるかイマイチ分からない彼の歌の(ぶっちゃけこれは他のバンドでもよくある)歌詞を歌詞カードで読んで、文面でストレートに伝わる感情が自身の中の感情と結びついた時に、彼の詞は思い切り心に突き刺さる。共感のようで共感ではない不思議な感覚である。彼の歌詞に込めた感情が自身の感情と結びついて暴発するこれを、的確に言い表す言葉がどうしても見つからない。

 

 

ああ このままうまくいくもんと思っていた

ああ これから幸せになると思っていた

ああ このまま幸せになると思っていた

「愛されちゃいたい」と思っちゃって

馬鹿なくせに笑って息してたら良かったのに

 

CRYAMY――月面旅行

 

 しんどいなあ、と思う時に、そのしんどい感情から逃れるようにCRYAMYの曲を聴くと、言葉の鋭さでさらにしんどくなるけどなぜか救われた気にもなる。痛みの後に少しだけ視界が晴れる感覚が得られる。

 自身の感情や言葉を訥々と音楽に載せる彼は、別に僕を代弁してくれるわけでも、励ましてくれるわけでもない。けれど明確な痛みと共に、ストレートに感情をぶつける彼の言葉は、自分の中でも案外飲み込みやすいのだと思う。しんどいことから逃げることは出来ないとしても、味方はいる。そいつはスピーカーやイヤホンを通して語り掛けている。たとえ一時の気休めでもそう思えることが、彼の書く詞の魅力なのかな、と思う。

 

 

 不時着の果てに

 

 

生まれてきて良かったなんて

思ったことはないんじゃないかな

まぁついでに言えば生きてきて

良かったなんてこともないんじゃないかな

 

CRYAMY――ディスタンス

 

 以前からずっと思っているのだが、僕はSNSに自撮りをアップして悦に浸れる人間になりたかった。インスタグラムをコミュニケーションツールとして用いることの出来る人間になりたかった。今現在本や音楽に使うお金を全部ファッションや他人との交際に費やせる人間になりたかった。Twitterのbio欄に自分の出身校と現在の出身地を堂々と記して、旧友と飲んで「○○(高校の名前)△期生最高!!」の文章と一緒にその場の写真をネットに上げれる人間になりたかった。湘南乃風とかWANIMAとかを斜に構えずに聴ける人間になりたかった。早い話が今で言う「陽キャ」になりたかった。今でもなりたい。でも今の自分にとってもうそれは、例えるなら今から官僚になるくらい難しいことなのだと思う。自撮りとかインスタとかかつての旧友(だと思われる存在)との飲み会とか、そういうものに対してどうしても、憧れよりもおそれが勝る生き方をしてきてしまった。

 自意識過剰なのだと思う。神経質なのだと思う。他人の目を気にするあまり何者にもなれず、その上壮絶とは程遠い温室育ちでこれまで育ってきたものだから何かに絶望することも逸脱することも出来ず、25年の歳月をかけて極めて緩慢な速度にてゆっくりと頸動脈を真綿で絞めるような生活を続けてきた結果、今何もない、からっぽな人間として現代漂流にもみくちゃにされる毎日を送っている。憂鬱な月曜日を無限に重ねている。

 漠然と、何者かになれると思っていた。何者かになれると思っていたので、何者になる研鑽も忍耐もしてこなかったし、それをするための基礎となる人格も育ててこなかった。今天才と呼ばれている人たちが、生まれた時からその才を授かっているのだと決めつけ、嫉妬してきた。その天才たちがそう呼ばれる前に生み出したのであろう、おびただしい数の日の目を見ることがなかった作品から目をそらして。

 人生というものがコインの裏表のような、途方もない数の二者択一の分岐を繰り返して構築されていく樹形図のようなものだとしたら、現在の僕はその重要な分岐で誤った選択肢を選び続けた場所に立っているのだと思う。どこで間違えたのかなあ、なんてことを考えるたびに憂鬱になる。五体満足で母親の子宮から生まれたくせに、ちゃんと望まれて生まれたくせに、いざ一人で飛び立ったと思ったらどこにも目的地はなく、何でもない、何もない、だだっ広い荒野にて独り呼吸をしているような、あてもなくさまよっているような。そんな虚しい自分を何度も、何度も責めてきたし、恥じてきた。今でもそうだ。

 

 ただ僕はたまに、本当にたまにだけど、こういう生き方では無かったら出会えなかったものが、音楽にもその他の娯楽にもにも少なからずあるんだなあと思ってしまう。上を向いてひたすらに邁進し続けたものだけが見える絶景は一生観れずとも、その過程で得られるはずだった出会いや感動を捨てたとしても。うつむきがちに歩いてこなければ見つけられなかったものが、今の僕の周りにはたくさんあるのだと思う。いつもは意識していないだけで。

 CRYAMYというバンドはそういう、今の僕ではないと出会えなかった、知り得なかった存在なのだろう。幾度となく間違いを繰り返し、自分すら信じられなくなって、墜落だけは避けまいと決死の不時着をした先で巡り会えた、好きになれたバンドなのだと思う。だからこそ彼らの鳴らす音楽は今の僕に痛いほどに突き刺さる。

 

 

たった 100 円だすだけで買えるようなコーヒーや

何億円もするビルが何処にでもあるように

あなたもどうせ探せばいるようなどこにでもいるような人さ

それでも生きててほしいからあなたは生きていてね

 

CRYAMY――世界

 

 きっと、今の僕みたいな気持ちで世の中をほっつき歩いている人はいくらでもいるのだろう。何者かになれると思っていたのに何者にもなれず、雑踏に紛れて消えてしまう程度の存在感しか有さず、氷山の一角に上り詰めることを夢見るだけで大した足跡も残すことなく冷たい海中で死んでいくだけの、さして社会にて重大な役割を満たさない、死んでもいくらでも代わりの利く人は。いろんな期待を背負って空に飛び立ったのに、ふとした選択肢の間違いで望まぬ場所に不時着してしまった人は。

 僕にとってのCRYAMYのように、僕以外の間違いだらけのこれまでを歩んできた人それぞれにもそういう、悔恨ひしめく岐路の連続の中でのめぐりあわせの様な出会いがあるのだと思う。自分を構成する抜けだらけのパズルの1ピースを埋めてくれるような、爪を剥がしながら挑む断崖絶壁の中でふと見つけた小さなくぼみのような、そんな出会いが。それは決して煌びやかな運命などではなく、度重なる不時着の末の偶然であり、言ってしまえば間違いだらけの僕や僕と同じような人が、苦し紛れにつかんだ藁のようなものだ。

 でも、ずっと後で自身の生涯を振り返った際に、運命の出会いとか言う胡乱な言葉でさぞ大事そうに紹介するものとの邂逅なんてのは、きっとそんなもんなんだろうなって気もする。これから先僕はいくらでも失敗するのだろうが、こういう偶然にて出会えた大事なものをきちんと一個一個見逃さないように、忘れないように、拾い集めていけるように、目を凝らして生きていきたいなあ、なんて

 

 まあそんななんか長ったらしくセンチメンタルな自分語りをしたところでですね、結局CRYAMYの作る歌メロが最高だって話だけなんですよ。それだけ。ここまで書いてまだ聴いてないならさっさと聴け。こんな長い記事を真面目に読んでないで再生ボタンを押せ! どうせきっといつかはちゃんとした音源になって再リリースされるかサブスク解禁するんだからメルカリに転売されてる超高額の廃盤は買うなよ!! 以上!!

Catcher In The "Montage"

【00.What is Montage?】

 

Catcher In The Spy(通常盤)

Catcher In The Spy(通常盤)

 

  ご尊顔を1個パチリ

 

 ヒトリエの記事かな? それともフォーリミの記事かな? と思った方は申し訳ない。泣く子もオラつく中野初のやべー奴らこと、UNISON SQUARE GARDENの記事である。ひいてはCatcher in The Spyの記事である。というか全編Catcher in The Spyの記事である。どうでもいいけどこいついつもCatcher in The Spyの話してんな……

 なんと本日2020年8月26日でCatcher in The Spyは発売6周年を迎えるそうだ。おめでたいですね。何よりもおめでたい。宇宙の誕生よりもおめでたい。国際的に祝日に制定してほしい。

 このリリースされた瞬間地球上全てのアルバムを過去のものにした伝説を持つ宇宙的大ヒットアルバムがこの地球上に爆誕してから、もう6年が経過しているというのだ。Catcher in The Spy、6歳。来年から小学生である。かわいいね。こんなに年月が経っているというのに人類はまったく成長の兆しを見せず嫌になる。もっとこう、背中からホチキスとかバズーカとか孫の手とか、そういうアヴァンギャルドなのが生えればいいのにね。肩甲骨て。無印良品かよ。

 

 というわけで栄えある我らがCatcher in The Spyのお誕生日、盛大にお祝いでもしようと思いたったのだが、さて何をするかと考えた結果こうしてキーボードを叩いている次第である。Catcher in The Spyの「py」にでも掛けてアップルパイでも焼くか?? とか一瞬考えたが、そもそも僕はアップルパイなんて焼けないし大前提としてウチにはオーブンがない。あったとしてもアルバム発売記念日におもむろにアップルパイを焼く奴はファンというよりはただのアップルパイが好きな人である。第一僕はアップルパイが苦手だ。というかそもそもりんご自体そんなに好きではない。アップルパイが苦手なのにアップルパイを焼く奴はもうファンでも何でもなく、ただSNSでちやほやされるためにりんご農家の込めた丹精を一切の容赦なく踏みにじりに行く、悪鬼羅刹も魑魅魍魎もディオニスも裸足で逃げ出すほどの、暴虐極まりない承認欲求の塊である。そうして苦労して焼いたそこそこな出来のアップルパイの写真をSNSに上げたところで、「Catcher In The おっぱい」とか言いながら乳首をCDで隠した巨乳の自撮り垢にすべてにおいて敗北して世間から見捨てられて職を失い友を失いやがて家族とも離れ離れになって一人遠い異国の地にて病院の窓から枯れ葉一つ付いていない細い木を横目に見ながら虚しく死ぬのだ。人生とは時間の浪費である。この結末も、この文章自体も。

 絵も描けないし楽器も弾けないし字も汚いし声も歌も凡庸、アクセも作れなければ音楽の専門知識も有さず、そもそもそれを人前にドヤ顔で披露できるほどの実力を得るための努力も出来ず(過程を飛ばして実力だけもらえるのなら喉から千手観音がまろびでるほど欲しい)ついでに5000兆円ももたない、食パンの袋を留めるあの内股気味なプラスチックに背丈しか勝てるところがないクソザコの最後の逃げ場が文章である。何も成せぬド素人が何かに愛が伝えたければ文章を書くしかないのだ。

 Catcher in The Spyもこんな前置きの長いバカに約6年も飽きることなく好かれてさぞうんざりしていると思うが、今日くらいは祝ってもそんなにバチがあたらないと思うので盛大に祝わせてもらおうと思う。書くぜ~超書くぜ~~

 

 というわけでここ5日間くらい何を書こうかかなり迷ったのだが、本当にいろいろな案が出たのでそれらからいくつかテーマを厳選して、それぞれのテーマに沿ってエッセイのような、そうでないような、というかただの妄想のような文章を書いてまとめてみた。タイトルの"Montage"とはそういうことである。いろんな断片の切り貼り。つめあわせ。

 そこそこ真面目に書いたものもあれば、こいつは何を言ってるんだ? と自分の文章に首を傾げたくなるもの、ただの感想、どう考えても中身のないものなどよりどりみどり(よりどりみどり?)な12編を書き下ろした。今回何となくだが自分なりにそれぞれ気色の異なるものが書けたような気がしているので、どことなくアンソロジーな雰囲気が出ている。1人でCatcher In The Spyのアンソロジー。書いてて悲しくなってきた。

 全編一気に読むもよし、1日1編ずつ読むもよし、読まないもよし、読んだ後僕のTwitterをフォローするもブロックするもよし、煮るなり焼くなり崇め奉るなりどうぞお好きにして頂ければ幸いであるが、読み終わっても終わらなくてもそんなの別にどうでもいいので今日1回はCatcher In The Spyを通しで聴いてほしい。そして僕にCatcher In The Spyの好きなところを教えてほしい。語ろうぜ

 

 というわけで前置きが長くなりましたが以下本文

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(イヒヒヒヒ……ウフフ アヒヒ ウフフ(ンフフ) ウフォアハハハハ(ヒィハハハハ) ハ イヒヒ……アハハハ…………)

「Catcher In The "Montage"」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【01.顔】

 Catcher in The Spy収録の12曲の中で、アルバムの核、もとい顔となるのはどの曲なのだろうか。曲者も曲者が揃いに揃ったこの極めて濃厚なアルバムの中で、万人の異論も違和感も無く「主役」の看板を張れる曲。大学でCatcher in The Spyについて専攻している学生諸君を毎年悩ませる、未だ結論の出ていない大変に難しい問いである。

 どの曲が欠けてもCatcher in The SpyはCatcher in The Spy足り得ない、ということを大前提に置きつつも、やはりユニゾンのアルバムにはそれぞれ「コンセプト」のようなものがあり、そのコンセプトに沿って収録される楽曲も曲順も決められているのだと思うと、それに一番合致した曲こそが核と言えるのではないか。「CITSで一番好きな曲はこれだけど、アルバムの顔は【○○】だよね~」のような、日常何気なく行われる会話の中での絶対的な回答を導き出すことは、人類にとっての偉大な一歩足り得る偉大な発見だと思うのだ。詳しくないけどきっと地球温暖化対策とかそういうのに絶対役立つ。

 というわけで真面目に考えていきたいのだが、まずCatcher in The Spyという崇高かつ音楽史に残る大傑作であるこのアルバムの、背骨となる「コンセプト」とは何か。個人的にはもう至極シンプルに「なんかメッチャかっこいい」だと思う。泣く子も怒る老人も等しく頭を振り魂を燃やしてしまう、老若男女素人玄人問わず熱くさせる理屈を超えた異次元のカッコよさ。ヤバさ。多彩さとか、ふとした瞬間に見せるやさしさとか、そういうのも大きな魅力ではあるがあくまで副次的なものに過ぎない。まずその尖り方。極端さ。鋭角さ。ここである。血液と焦燥、殺伐と鋭利が束になり、こん棒とエモーショナルを抱えて一斉に殴りかかってくるバチバチ感こそがCatcher In The SpyをCatcher in The Spyたらしめる。

 それを念頭に置いて考えると、桜のあととハモナイのシングル曲2つは「顔」ではないなと思う。大事な役回りの2曲だが、Catcher In The Spyの主役ではない。主役を食いかねないほどにギラついた助演である。こらそこ目立ち過ぎです!

 同じような理由で君が大人になってしまう前に、メカトル時空探検隊、何かが変わりそう、instant EGOIST、黄昏インザスパイも主役ではない。わかる、わかるよ、書いている僕の心が一番痛いからモノを投げないでください。そういう時こそRADWIMPSの学芸会を聴きなさい。彼らがいないと始まらないんですよ彼らの世界は。

 というわけで主役の座は残り5曲、サイレンインザスパイ、シューゲイザースピーカー、蒙昧termination、流れ星を撃ち落せ、天国と地獄に絞られるのだが(ここのラインナップだけで高血圧になって死にそう)独断と偏見で蒙昧terminationには一歩下がっていただきたい。あくまで個人的な話だが、どうも彼は感覚的にちょっと立ち位置が違う。田淵に言っといてなんて言わなかったら分からなかったな、メタ発言はちょっとな……

 これにて残り4曲になるのだがここからがまー絞れない。地上最強の切り込み隊長ことサイレンインザスパイか、圧倒的パワーでいきいき笑顔な核弾頭シューゲイザースピーカーか、単純なイントロの力強さなら頭一つ抜けている流れ星を撃ち落せか、世界を煮沸消毒する冥府のテーマソング天国と地獄か。いろいろ考えたんだけと絞り切れなかったのでこの4曲が顔ということでどうでしょうか。もう顔が4個でも12個でもどうでも良いじゃないですか、レポートが0点でもいいじゃないですか、インドの神っぽくて強そうだし

 

 

【02.顔・2】

 Catcher in The Spyの中で一番モテそうな曲はどれか。

 桜のあとが単純に考えれば一番モテそう(画面に映るたびに背景に薔薇とか咲いて小鳥とかと話せちゃうサラサラ王子様系なので)だけど、わざわざ乙女ゲーとしてCatcher in The Spyを選ぶ女子は大抵偏屈なので、Catcher in The Spy狂いの中では桜のあとは意外とモテないのかもしれない。ただ渋谷で12人並んで立ってたら真っ先に芸能スカウトに声を掛けられるのは桜のあとだと思う。それは認める。

 Catcher in The Spyの民にモテる顔面をしてるのは【01.顔】でも書いた通り4曲なんだけど、天国と地獄に関しては血の付いたナイフを24時間舐めてそうだから実際にモテはしないだろうなと思う。写真映えがいいのでSNSのフォロワーはめちゃくちゃ多いけど実際会うとやべーやつだからだめだ。大きく露出した左の胸筋から和風の刺青がチラ見えしてる。女子供が近づいたら比喩抜きで食われてしまいそう。

 シューゲイザースピーカーは大変に良い線を行くと思うが若干我がつよいところが気になる。彼女の意見を聞かなそうだ。足元が見えるから十分とか言いながら夜間でもガンガン無灯火で運転しそうでもある。まともそうな雰囲気を醸し出しておいてやっぱりどこかヤバイ。尻をぶっ叩いてくれる気の強い女性と幸せになってほしい。

 サイレンインザスパイは性格は無論癖ありだが、性格より何より冒頭でも分かる通り子持ちなので、容姿云々以前にそもそものハードルがかなり高い。修羅の道を行きたい女性におすすめである。流れ星を撃ち落せは顔も性格も良いが若干後先考えない質が見え隠れするので、きっと高いディナーを文句言いながら食った後に財布忘れてそのまま逃げてしまったりする。あと些細なことですぐに会社を辞めたり情緒が不安定になるので意外とこの人も難がある。harmonized finale、及び君が大人になってしまう前には……ほとんど満点なんだけど、桜のあとと同じ理由で偏屈どものお眼鏡に今一つかなわない可能性があるのと、俗にいう「優し過ぎる男はモテない」みたいな理屈で都合のいい人扱いをされてしまう危険性がある。なんか書いてて腹立ってきたな何様だコイツ

 なんだかんだinstant EGOISTと何かが変わりそうがバランスよく無難にモテてしまうんだろうな、という感想を抱きながら、僕がおなごだったらきっと黄昏インザスパイと駆け落ちしてしまいたいと思ってしまうので難しいところである。Catcher in The Spyはどうなっても人生を狂わせる魔性を秘めている……

 

 

 あ、蒙昧とメカトルは顔は抜群によくともマジで話が通じないので論外

 

 

【03.逓減】

 限界効用逓減の法則というものがある。

 ものすごーくざっくりかいつまんで言うと「ビールもコーラも一口目が一番美味しい」ということを示す法則で、夏の真昼の冗談みたいな暑さの中飲む、キンキンに冷えたコーラの一口目はまさに天にも昇るような美味しさだけど、飲み続けているうちにだんだん甘さと炭酸がくどくなって、350ml飲み終わるころにはもうコーラなんてこりごりになってしまうあの状態を示すらしい。

 人間は与えられる幸福による刺激に「慣れて」いく性質があり、同じ幸福を与えられ続けても次第に得られる快楽が減っていくのだ。ほとんどの財やサービスに当てはまる人類の難題であり、俗にいう「マンネリ」の根源的な法則である。難儀な生き物ですね。アメーバとかを見習えばいいのに。

 隠していたのでもしかしたら初耳かもしれないが僕はCatcher In The Spyというアルバムが、6年前に聴いた当初から今まで一切飽きることなく大変に好きなのだ。しかしよくよく思い返せば、初めて通しで聴いたあの時の衝撃はもう随分長いこと味わっていない。無自覚のまま、いつの間にか身体が慣れているのだ、Catcher In The Spyというアルバムの与える衝撃と、快楽に。微かに、しかし確実に、効用が、逓減している。

 これは由々しき事態である。この無自覚の逓減が続くと100年後、2000年後にはCatcher In The Spyを聴いても「良いアルバムだな」としか思わなくなるかもしれない。これはまずい。熟年離婚の危機はすぐそこに迫っている。なんとかしなければ。

 

 というわけで、Catcher In The Spy初聴時の衝撃をもう一度味わうにはどうすればよいか。簡単なところから行けば「記憶そのものを失くしてしまう」といったところか。記憶がなければ工夫もくそもない。下準備さえしっかりやれば何も考えずともレベル1快楽からまたリスタートできる。

 手段としては筋骨隆々とした御仁に鈍器のようなもので後頭部をフルスイングしてもらう、許容量を超えたトラウマやストレスを味わいまくる、トラックで撥ねられるなどがあげられるが、どれも記憶云々の前に生命に関わりそうなのが玉に瑕である。最後のに至っては目が覚めたらたぶん地球ではなく剣と魔法が支配をする異世界に行くことになる。僕はCatcher In The Spy童貞を取り戻したいだけであって異世界転生がしたいわけではないのだ。

 記憶喪失の選択肢はとりあえず置いておくとして、別の案として挙げられるのは「禁止期間を設ける」ことである。与えられる快楽に期間が空くと多少なりとも得られる快楽が増幅する。焼肉も寿司もたまに食うから美味いのだ。というわけで1週間禁止して見たが、みるみるうちに体調を崩してしまったのでこれはボツ。1週間でこれなので、1か月禁止されると自身の聴覚の怨念がサブマシンガンの虚像を作り出して全身にぶっこまれる未来が見える。Catcher in The Spyに心も体もCatcherされている……

 他にも「聴覚以外の五感を閉じて聴覚依存度を上げ未知の世界に足を踏み入れる」「ヤバイ薬をキメる」「自分が歌唱した12曲を録音して自身のCatcher In The Spyカバーアルバムを作り、日夜聴き続けることでオリジナルを聴いた時の感動を極限まで増幅させる」など大変独創的かつ有意義な案は挙げられたがどれも今一つ現実性、継続性に欠ける。永続的にあの衝撃を味わい続けたい、というのはやはり贅沢なのだろうか。

 もしこんな方法があるよ、という方がいたらこっそりと僕だけに教えてほしい。一緒にノーベル賞を狙おう。

 

 

【04.Sなとこが好き】

 Catcher In The SpyはまごうことなきドSである。聴くハイヒール、耳で味わうムチ、鼓膜から熱を感じさせるロウソクと言っても過言ではない。サウンド面にしても歌詞にしても、健全でありながら嗜虐に溢れすぎている。癖になるのも無理はない。Catcher In The Spyを掲げ世を行く者は皆等しく憐れな豚である。だからこないだの配信ライブでキャンドルが出てきたときはもう不埒で大変申し訳ないんだけど息がめちゃめちゃに荒くなった。

 僕は別にサドでもマゾでもどちらでもないが、ことCatcher In The Spyに関してだけ言えばまごうことなきドМである。文字の大きさで本気度を表現してみた。Catcher In The Spyに調教されてはや6年、今年も敬虔な豚でいられました。

 サイレンインザスパイ、シューゲイザースピーカーなどの曲全体から漂ってくる攻撃的な雰囲気、「貴方のバランスなんて聞いてない」の放置プレイ感、歌詞の端々から感じるリスナー側に興味をもたないことを示すフレーズの数々、そのなかで微かに覗かせる甘さややさしさ、をすべて消し飛ばす「あーあ」のゾクッとするような冷たい声……

 ライブでシングル曲以外はなかなかお目にかかれないそのレアキャラ感もまた、「お前如きにそうそう姿を見せるほど俺は安くない」と吐き捨てるように言われてる感があって寂しいけど、それはそれで、イイ…………いやよくない騙されんな、未だに根に持っているからな、8月22日の配信ライブ。もっとお顔を見せて!

 しかしCatcher In The Spyがライブで披露されるキラーチューンばかりの、オリジナルアルバムとは名ばかりのベスト盤的アルバムだったらありがたみも薄れていただろうし、これくらいの距離感がちょうどいいのかもしれない。もっと聴かせてほしい、でも出来るだけもったいぶってほしい、これを絶妙な塩梅で叶えて「くれない」Catcher In The Spyの、そういうSなところも好き……

 

 

【05.真の姿】

 僕の部屋にはヘッドフォンがない。というかヘッドフォンを買ったことがない。

 なぜならiPhoneを買った時についてくるあのコード付きの白いイヤホン(earpodというらしい)で、ここ10年くらい満足しているからだ。というか普段は家にいるときはイヤホンすら付けない。エアコンや扇風機に負けそうな微妙な音量で垂れ流している。

 もともと音質というものにそこまで強いこだわりの無い僕は、earpod以上の音質を求めようとはなかなか思えない。というか、怖い。現状の環境で聴くCatcher In The Spyでこれだけ騒いでいるのだから、メーカーが提示する最高品質のサウンドにて聴いてしまったらどうなってしまうのか、想像するだけで恐ろしい。サイレンインザスパイのイントロで内臓が破裂して死んでしまうのではないか?(ここでいうサイレンインザスパイのイントロとは幼女の笑い声のことです)(幼女の笑い声で死にます)

 もしかすると僕が今までわーわー騒いできたCatcher In The Spyの姿は真の姿ではなく、まだ仮の形態だったということなのだろうか。まだ始解だったとでも言うのだろうか。この上に卍解があるとでも言うのだろうか。僕は今までネット上でCatcher in The Spyについて他の人と会話する際、僕だけ違う土俵でお話をしていたのだろうか。他の人はもうすでに最高の環境であのアルバムを聴いて正気を保っていたとでもいうのだろうか。そんなのは人間ではない、バケモンである。怖い。怖すぎる。僕の今までの6年間は何だったんだろう。返してほしい。僕の6年間を返してほしい。僕もバケモンの仲間に入れてほしい。でも今更Catcher In The Spyの真の姿を目の当たりにしたいとは思えない。本当に人に戻れなくなる気がする。しかし考えてみれば、今更人間という矮小で愚鈍な動物に未練などあったかと問われればそんなこともない。……成りたい。バケモンに。最高音質のCatcher In The Spyをキメて、超越したい。快楽の涯を。アッ、ヘッドフォンって1個3万とかするんですか、そうですか……

 

 

【06.メカトル時空探検隊】

 メカトル時空探検隊が分からない。マジで分からない。

 良い曲は良い曲なんだけど収録されている他の曲と表情と輪郭が違いすぎる。曲の雰囲気だけで言えばTK、345、ときてからのピエール中野くらいの違和感がある。歌詞も輪をかけて意味不明だ。どれだけ読んでも何の像も結ばない。履きつぶしたバスケットシューズのままピッチャーマウンドで倒立決められたら主審だって敬語しか出ない。ハリクマハリタとか言ってる場合じゃない。タイムマシンでも何でもいいからさっさと帰ってほしい。開き直るな。ちょっとは反省してくれ。

 

 以前書いたこのアルバムへのラブレターを読み返しても、触れている文字数が他の曲より明らかに少ないのは本当にこの曲だけどうにも咀嚼できてないところにある。疑問すら上空に高飛び、道理摂理蹴っ飛ばしちゃう、で笑って許される範囲をとうに超えている。田淵智也さんもしかして三題噺メーカーとかで歌詞書いた?

「意味が分からない」「常識が通用しない」こと自体ががテーマだとするならもっと攻撃的に、それこそ流れ星を撃ち落せのような傍若無人なギターロックで攻め切ってもいいと思うのに、どこかコメディチックでつかみどころがないとぼけたサウンドになっているのも解せない。豆知識だが「傍若」は単体では意味をなさないそうだ。

 ロックバンドに常識は通用しないぜ~常識は通用しないから時空だって超えちゃうぜ、みたいな曲だとなんとか解釈しているものの、やはりどこか釈然としない。やはり君だけは住む場所が違うのではないか、と思ってこの曲を抜いた状態で聴き流すとどうしても、君が大人になってしまう前に→流れ星を撃ち落せ、の流れの圧というか、雰囲気の急変化に戸惑ってしまう。曲単位で考えるとどうしても異色に感じてしまうが、アルバム全体で考えるととても大事な曲なのである。安心感が違う。カラーは異なってもやはりCatcher in The Spyの曲である。

 いつかこの曲の真の意義を理解できた時、Catcher In The Spyはもう一段階化けてしまうと思うと楽しみでしかない。メカトル時空探検隊には無限の可能性が秘められている。Catcher In The Spyという途方もない金脈の中でも、一際神秘を感じる存在だと思う。

 でも冷静に考えなくても、最後の「相談しよう、ヘイ!」はダサい。気の抜けたドラムもそれに拍車をかけてる。流れ星を撃ち落さなかったら結構な勢いでスベってたと思うので、つくづく持ちつ持たれつですね

 

 

【07.国際会議】

 今年のCITS国際会議に参加する国はどこだったんだろう。

 知らない方のために一応説明をしておくと、CITS国際会議とはCatcher In The Spyの良さを語り合うために世界各国から有名な専門家が集まり、それぞれ溢れんばかりの愛を語り合う大変に権威ある会議である。今年は生憎コロナウイルスの影響もあり大変残念ながら中止となってしまったので、参加国の発表もされていなかったのだ。あの時ばかりは悔し過ぎて泣いてしまった。おのれコロナ……

 例年「サイレンインザなスパイになら国家機密を盗まれても文句は言えない(ロシア)」「生きる証拠実感したのは俺(イタリア)」「俺も入れたら五重奏(日本)」など数々の名言・迷言が飛び交うCatcher in The Spyオタク垂涎のこの会議だが、今年はまた新たな国が参加するという情報がリークされていた。新しい国の参加とはすなわち、新しい視点・新しい価値観の到来である。より多角的・多面的に解釈される新時代の愛を目の当たりに出来たのかもしれない。ひいては僕らの見識もさらに広がったのかもしれない。おのれコロナ……

 果たして新しく参加予定だった国とはどこだったのだろうか。前提として、今まで日本、ロシア、イタリア、アメリカ、イギリス、フランス、中国、韓国、オーストラリア、インド、タイの11か国が参加していた。こう並べてみると、改めてグローバルな会議である。国家間の摩擦が絶えない昨今の情勢をよそに、これだけ国籍の異なる人間が一堂に会して未だ一度の諍いも起こってないことを思うと、Catcher In The Spyファンの民度がうかがえますね。

 ファンの間ではアフリカのどこか、もしくはスペインだったのではないかと考察されている。特に期待されていたのはアフリカの方だ。サバンナで培った驚異的な視力で本質を射抜き、大自然で育んだ自由な思想で固定観念を覆す、Catcher In The Spyへのある種哲学的なアプローチを見せてくれそうな未知の大陸にオタクは極めて大きな期待を寄せていた。スペイン推しはただ「Catcher in The Spanish!」と大声で言いたいだけのアホなので無視してよろしい。

 来年の開催が楽しみですね。

 

 

【08.ウラシマ効果

 最近知って驚いたのだが、Catcher In The Spyは通しでなんと50分弱しかないらしい。驚異のプレイタイム。体感3分しかないのに。それであの密度。濃縮還元にも限度があるぜ。

 そう、体感3分しかない。つまりCatcher In The Spyを通しで聴いた時、自分では3分しか経っていないと思ったのに周りの時間は50分過ぎているのだ。つまり47分の差が、自分と世界の間に生じている。2回通すと94分、3回通すと141分。自分の中では10分も経過していないのに、世界の時間は2時間も進んでいる。次第に世界が早送りになっていく。音楽と同化しずれていく自分を置いて、秒針は異様に早く進み、人は早足に瞬間瞬間を去っていく。Catcher in The Spyと共に幾度も3分を踊っていると、世界は幾度も50分をいたずらに過ごし失っていく。

 Catcher in The Spyを300回連続で通して聴いた。ふと部屋の時計を見る。自分の中では5時間が経過したように思っていたが、世界はもう10日も先を進んでいた。聴き始めた当初は天高く昇っていたはずの太陽は幾度も空をめぐり続け、今は西の空を鮮やかな橙に染め上げている。窓の外を見やると、瞭然たる紅の中、一羽のカラスがけたたましく鳴きながら、真っ黒な身体を茜空にはためかせ、やがて見えなくなった。イヤホンを装着しなおし、再び無限の三分間に足を、いや耳を踏み入れる。

 幾度も幾度も積み重ねられる3分の体感時間は、聴覚が求めるに従い2分になり、1分になり、やがて瞬きほどの短さとなった。音速で過ぎ去っていく50分が途方もない数積み上がっていく。Catcher In The Spyと踊り続けるその間に、世界は幾度となく無駄な諍いを繰り返し、絶えず甦る難題と対峙し、他人に唾を吐き些細な問題を過度に装飾し、多くの時間と労力を払いながら次第に疲弊していった。

 

 年が変わった。総理が変わった。年号が変わった。法律が変わった。親族がいなくなった。国際情勢が変わった。家が腐り崩れた。戦争が起こった。服が焼け落ちた。戦争が終わった。人類が歩みを止めた。地球はそれでも回り続けていた。

 

 ふと顔を上げた。再生ボタンを押して音楽を止めた。かつて家があったはずの場所には、今はただ一本の木が生えているだけだった。あの日カラスが飛んでいた空にはもう何も飛んでおらず、空気だけがただただ澄んでいた。宇宙の果てまで見渡せそうな青空だった。

 見慣れないデザインの服を着た、同い年くらいの少女が隣に立っていた。話している言葉が分からなかった。少女はイヤホンに興味を示しているらしく、自身の耳を触って首を傾げていた。

「―」

 Catcher In The Spyというアルバムを聴いている、と言おうとした。だが声が出ない。口は動くが声が出ない。いや、喉は震えている。声は出ているのだ、自身の耳には聞こえなくなっただけで。声だけ違う世界に飛んでいってしまったかのような感覚。

 焦る中少女が心配そうに手を伸ばした。少女の指が肩に触れる。瞬間、肩が無数の黒い音符となって崩れ始めた。呆気に取られる少女を目の前にして、やっと自分の身体がどうなったかが分かった。同化していたのだ。Catcher In The Spyというアルバムと。

 まもなく全身が崩れてゆく。青い空に自身と同化していた愛すべきアルバムが消えていく。もはや記憶もない。五感もない。しかし未練も悔恨もなかった。ただただ心地よい。

 音が世界に満ちていく。世界がCatcher In The Spyと同化する。茫然と空を見上げる少女の耳に、音符が一つ忍び込んだ。

 

 

【09.CITSあるある】

・サイレンインザスパイの2サビ前に「こんばんは東京!」と叫びがち

・未だにシューゲイザースピーカーのサビのコーラスがなんて言ってるか分からない

・Catcher In The SpyライブDVDの蒙昧の「たーぶちにいっ↑といてェ~!」が好き

・君が大人になってしまう前にの歌いだしをふと思い出そうとするとなぜか8月~が邪魔する

・メカトル時空探検隊のサビがどうしてもうまく歌えない

・流れ星を撃ち落せの「ヤバイ×4」はライブ映像観てはじめて「ああそこ一人でやるんだ……」となる

harmonized finaleのギターソロの満を持して感大好き

・天国と地獄の「シャケ」のせいで一時期鮭おにぎりが食えなくなった

シナプスボンドを商標名だと勘違いする

・黄昏インザスパイの「止まれないなら車に轢かれちゃう」を最初ギャグだと思ってケラケラ笑っていた過去の自分を時折高いとこからひもなしでバンジーさせたくなる

 

 あるあるというか僕の感想である

 

 

【10.Which???】

 Q.結局Catcher In The Spyは天国なの?地獄なの?

 A.地獄のような天国

 A.あるいは天国面した地獄

 A.地獄の天国コスプレ

 A.ペンチで耳を引っこ抜いてから入場できる天国

 A.投げつけられたfresh tomatoでびっくりするくらい真っ赤だけどかろうじて天国

 

 

【11.心配事】

 UNISON SQUARE GARDENが今まで出したオリジナルアルバムの中で、僕が一番愛してやまないアルバムはもうお察しの通りCatcher In The Spyである。では2番目は? と問われれば、迷うがおそらくMODE MOOD MODEを挙げる。理由は単純明快で、収録曲の平均点が半端ではなく高いからだ。というか収録曲の平均点で言えばCatcher In The Spyに勝るとも劣らない。このアルバムの存在は、UNISON SQUARE GARDENという最早誰もが認めるモンスターバンドが、過去の実績に胡坐をかかず絶えずストイックに邁進してきたことを示している証明のようなアルバムである。

 彼らは本当に年々楽曲のクオリティを上げている。特にMODE MOOD MODEがリリースされる1年前からはもうなんか神掛かっている。邦楽ロックバンド・スリーピースバンドの限界に、誰に言われるでもなく挑戦し続けている。ストイック通り越して病的なまでに楽曲作成に、ライブに真摯なバンドである。これから先もずっと期待し続けていいと思う。心から思う。だからこそ、アルバムのコンセプトを再びソリッドなロックの方向に舵を切った時が、怖い。Catcher In The Spyを今度こそ超えられてしまいそうで、怖い。

 そう、来月発売される新アルバム、Patrick vegeeが怖い。心底怖い。聴きたいけど聴きたくない。

 おそらく収録されるであろうPhantom JokeやCatch up,latency、春が来てぼくらといったシングル曲に加えて、配信ライブで先行公開された新曲やこないだ公開された「世界はファンシー」なる何やらヤバい曲(2020年8月26日現在僕はまだ聴いていません)など、もう今の時点で強すぎる手札が揃っている。もうすでに殺しにかかっている。

 断片的に与えられている先行情報によれば、Patrick vegeeというアルバムはどうやらCatcher In The Spyのような、どちらかと言えばロックテイストでストイックなアルバムだそうだ。僕はこれを聴いた時に狂喜乱舞した。Catcher In The Spyリリース時とは比べ物にならないくらいに磨き上げられた技術から、そのコンセプトでアルバムを出してくれることが本当に嬉しかった。ただ今は、Catcher In The Spyをマジで超えられたらどうしようという思いでいっぱいなのだ。今の彼らの楽曲制作スキルをそっち方面に注ぎ込んだら、とんでもない怪物アルバムが出来てしまうことなんて猿でもわかる。

 

 アルバム制作に妥協はしてほしくない。ただCatcher In The Spyだけはギリギリ超えないでほしい。このあまりに贅沢すぎるジレンマに悩みながら、最近は処刑台を登るかのように日々を過ごしている。

 出来ることなら「Patrick vegeeマジで最高!! ユニゾン万歳!! ただ俺はやっぱりCatcher In The Spyが一番好き!」と言いたい。言いたいが、今回ばかりは本当に超えられてしまうのかもしれない。仮にPatrick vegeeが文句もつけようがないほどにCatcher In The Spyを軽々と超えてしまったアルバムだとして、口だけならCatcher In The Spyの方が好きだとでも何とでも言えるが、嘘のない彼らの音楽を不当に評価する真似はしたくない。

 

「負けない、どうせ君のことだから」なんて口が裂けても言えない。ほんとにこんな贅沢な悩みを抱かせてくれるバンドは彼らだけだと思う。憎たらしいほどに愛おしい。ただ本当に、Catcher in The Spyには負けてほしくない。マジで応援してる。

 

 

【12.6年】

 最後に。

 高校からかろうじて関係が続いている友人がもうたったの一人しかいないことを考えると、Catcher In The Spyとの付き合いの長さをしみじみと実感する。軽く言うけど6年って本当に長いよ。長いこと僕を救ってくれて、作ってくれてありがとう。これからもよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

好きになり損ねた夏の裏側で

 日々遍く物事の殆どすべてに何かしらの苛立ちを抱いている僕は、嫌いなものというものが大変に多い。渋滞、飲み会、あんかけ、足の多い虫、なめくじ、靴紐、朝のニュースの占いコーナー、坂上忍、そして野球部。何を隠そう僕は筋金入りの野球部嫌いである。

 

 野球というスポーツ自体も正直な話をすれば嫌いだけど、それ以上に野球部という存在を蛇蝎の如く嫌っている。この世で一番嫌いな人種といっても過言ではない。もし今世界で一番偉い人になれたら、世界各国の野球部部員を対象としたMKウルトラ計画を発動させてしまうかもしれない。何があってもこいつに権力は与えるな。

 義務教育の頃から社会人になるまで、僕はあの声と胃と態度のデカさだけが取り柄の野球部という生き物にずっと辛酸を舐めさせられ続けてきた。背丈が伸びても、ランドセルがスクールバッグになっても、あの独特なノリと、世界が自分中心に回っていると言わんばかりの傲慢さにずっと苦しんだ。いつか殺してやる、と心のナイフを握りしめ、臥薪嘗胆の思いを胸に秘めて日々の地獄を耐えてきた。結局復讐は叶わず、ただ苦い肝を舐めただけの学生生活はとっくの昔に終わりを告げたわけだが、今でも野球部への根源的な嫌悪感はぬぐえずにいる。親が好きで夏の間中テレビに映っている夏の野球大会の生放送も、人間ではない猿か何かの決闘だと思って観ている。

 長々とこんなこと書くと、今現在打って投げるだけの野蛮な部活に精を出している皆さん、及びその愛好家の方々から怒られるかもしれないが、その苦情は無垢な子羊だった僕の小中高の12年間に暗い影を落とし続けたかつての同級猿宛てに出してほしい。この世のどこかには弱きを助け強きをくじく心の綺麗な野球部員も生息しているらしいが、古くからの伝承や曖昧な見聞の中にしか未だ観測はされていない。言うなればネッシーツチノコと同じ類である。存在しないと言って差し支えないだろう。

 そんな僕の野球部に対する敵意への配慮は欠片もなく、世間は夏が来るたびにその滴る汗と涙、白球と青空のコントラスト、高校球児や監督、マネージャーたちの思い(笑)や情熱(笑)といった、青春の綺麗な上澄みっぽく見える部分だけを各種メディア向けに抽出・加工し拡散させ、毎年のように大盛り上がりしている。ほんとに毎年暑さで頭おかしくなってんだなと心の底から思う。いい病院を紹介してあげたい。

 

 そう、8月。夏真っ盛り、甲子園のシーズンである。今年はコロナでいろいろバタバタしてるらしいが、世間はやっぱり高校球児が大好きらしく、他の部活動の3倍くらい大きな抗議の声を聞いた。結果それっぽい大会が行われているのだから最早笑えもしない。「僕らの夏」という、自分たちが世界の主役と言わんばかりの大それたサブタイトルも気に食わない。何が僕らの夏だ。一生ショボい顔してろ。

 夏。すなわち野球部の季節。

 学生の頃の僕は当然嫌いだった。僕の全てを軽んじているかのような最悪の季節だった。今でも一番苦手な季節ではある。

  頭からつま先まで余すことなく何もかも気に食わない。暑いし怠いしなんか湿気でジメジメしてるし。何より野球部が教室でも廊下でもどこでもうるさいのなんの。セミですかと。セミなら1週間で死ぬのに野球部はいつまでも生きてるもんだから迷惑の度合いが違いすぎる。そもそもなんでこんな馬鹿みたいに暑い夏に一番知名度のある大会を開くんだろう。秋とかにやればいいのに。ドМなのかな?

 

 学生時代の夏を思い返せば苦い記憶しかない。仔細は省くが本当に苦い記憶ばかりだ。命を絶つほどでもないが、尊厳を挫かれつつ自分の生きるコミュニティやその中での役割を強いられる毎日。春先から始まる新しい学年、及びクラス替えした教室、こなれてきた新しいクラス内のカーストが固定されつつある中で、取り柄の無かった自分が教室という水槽にて、なぜか一緒に入れられた捕食者に食われないためには、道化を気取るしかなかった。自分は被食者側だと自覚する季節が大抵夏だった。言わずもがな嫌いだった。その環境も、季節も、その季節を取り巻く人や娯楽も。

 夏は家族で花火やキャンプやバーベキュー、仲間と一緒に海へ山へお祭りへ、ひと夏だけのセツナイ恋、そして野球部、もといそれに打ち込む若者たちの青春。そういうキラキラしたものを、世間はいつまでも、いつまでも好む。それを好まない人たちはおかしい、と言わんばかりの圧力をかけながら。

 ポカリスエットのCMを観るたびに全身から倦怠感が現れ吐き気を催し高熱を出して寝込む学生時代を過ごしてきた身として言えるのは、そういう切り取られた青春というのはあくまで上澄みであり、世間一般的に青春の舞台となる中学~高校、及びその教室の本質はもっとドロドロした、上澄みの部分に溶けきれなかった澱のようなものであるということだ。

 ネットと現実の境界が以前より格段に曖昧になり、菅田将暉が主演の学園ドラマが人気となる今となっては当たり前の認識だと思うが、その溶けきれなかった、世間に掬い取られる上澄みになれなかった泥の中でしか呼吸が出来なかった僕は、世間の「夏とは、夏の楽しみ方とはこうである、これが正しい、こうでなくてはならない」の無言の圧力に、人格のほとんどを否定されてきたように思う。はた迷惑な被害妄想の一種ですと片付けられてしまえばそれでおしまいだが、結果的に僕はこれで夏が嫌いになった。

 

 長々と約2000文字も使って「わたくしは野球部と夏が嫌いな根暗です」で済む自己紹介をやって、結局お前は何を伝えたいのか、と思う気持ちはもっともである。ふと思ったけどこのブログ、こんな感じの導入毎回やってないか? 

 そんな野球部が嫌いな根暗は夏大好きな世間に苛まれつつ性根と性格を歪め、些細なことでイライラしてしまう超短気社会不適合成人男性として申し分ないふざけた精神を意図せず育んでしまったわけだが、僕はそんな夏を人並に好きになれないことにそれなりの劣等感があったのだ。心の底にどうしても拭えない苦手意識がこびりついていた。夏が来るたびに気分が重くなった。周りと迎合できない自分が嫌になりつつも、そんな自分の気持ちを間違っていたと容易く捨てることも出来なかった。そんな、あまりにも不明瞭な内心でじめじめと沈んでいた高校卒業後の僕は、ふとしたきっかけでハマった邦楽ロックをひたすらに聴き漁る中で、ある一曲と出会う。

  

Don't Summer

Don't Summer

  • provided courtesy of iTunes

 

 今も、おそらくこれからもずっと愛してやまないバンドの、愛してやまない一曲。ハヌマーンの「Don't Summer」である。

 

 

 Don't Summerの衝撃

 

Don't Summer 君よ夏をしないで

もう彼の都合で夢を見ないで

君よ夏をしないで衝動に刺さる音楽を止めて 

ハヌマーン――Don't Summer

 

 何気ないきっかけで出会ったたった一曲の音楽が、たった一節の文章が、その後の自分の世界をすべて変えてしまうことはわりとよくある話だ。今自分が立っている座標というのは、父親の精巣に入っていた瞬間からそういう偶然の連続によって辿り着いたものだと言える。幾度となく間違いを繰り返し、数えきれないほどの苦虫を噛み潰した学生時代を歩んだ結果、このバンドと巡り合えたのだとするなら全てを許せる……気がする。気がするだけ。いややっぱ野球部だけは許せねえな、アース製薬は早く野球部ホイホイを売ってくれ

 過去記事でも幾度となく言及しているのでもう詳細に語ることは省くが、かつて大阪が産んだハヌマーンというバケモンのようなバンドの、「World's System kitchen」というこれまたバケモンのようなアルバムのトリを務めるバケモンのような曲である。

 ジャックナイフのような切れ味のギターリフ、両耳から鼓膜ごと脳を圧縮する音圧、思わず口ずさんでしまう秀逸な歌メロとシニカルで毒があって痛快でエキセントリックで文学的な歌詞。頭からつま先までキラーチューンぞろいのこのアルバムを最後を締めくくる、三人の卓越した技術を3分40秒に圧縮した、00年代邦楽ロック最高峰のバンドサウンド。聴いたら即入信、即Tシャツ購入、即コピーバンド結成。ハヌマーンに人生狂わされた人間だけで足立区くらいなら潰せる。マジで。サブスク解禁重ね重ね本当にありがとうございます。2020年8月現在嬉しいことランキング断トツの1位です。

 どこからどう聴いてもどう切りとってもカッコいいが、とりわけ衝撃的だったのはその歌詞。汗と涙が真夏の晴天のもとにきらめく純度の高い青春に唾を吐くような、生ごみと精液の匂い立ち込める薄汚い六畳間で一人毒づくような、夏の日差しに背を向け一人孤独に愚痴を吐くような、やりきれない陰鬱な歌詞。世間から見ればちょっと気取った根暗の散文詩、と片されそうなそれが、前述のバケモンバンドのよるバケモンのような演奏に乗っかっている。文句のつけようがないほどに、カッコいい曲に仕上がっている。

 これを聴いて僕は、心の底から許されたと思った。

 勝手に世間から抑圧され、勝手に世間に同調出来なくなり、勝手に夏の間ずっと上手に呼吸が出来なくなっていた僕を、気管支に青春の澱が詰まって窒息しかけていた僕を、ふわっと浄化してくれるような曲だった。目から涙の様に鱗が落ちた。こうあってもいいんだ、と勝手に救われたような気分になった。

 蹉跌まみれの青くも無い夏を無作為に過ごし続け、ひねくれてるのに逸脱も出来ずただ燻っていたその時の自分と同じような(歌詞を書いた本人はおそらく否定するだろうが)思想を持ちながらも、こんなにもカッコよくなれるんだ、カッコよくなっていいんだと思えた。思うことが出来た。

 甲子園を過剰に持ち上げる世間と無理に迎合しなくとも、野球部のノリについて行けずにクラスで孤立しても、ポカリスエットのCMが嫌いでも、カッコいいものはカッコいい。僕はハヌマーンのお陰でようやくそれに気付けた。呼吸できない夏に留まり続ける必要はどこにもないことに気付けた。前よりも清々しい気持ちで、夏が嫌いだと言えるようになった。彼らのお陰で、僕は随分呼吸がしやすくなったと思う。青春の軟泥から抜け出せたというよりは、違うレイヤーの存在に気付けた、という表現が近い。

 厭世的、という言葉を知ったのもこの頃だ。どこか自分とかみ合わない、噛み合ってくれない世の中を疎むことも一つの文化であり、立派な価値観であると、僕はハヌマーンを始めとする音楽でようやく実感できた。夏休みの昼中、家族団らんで覗くテレビ画面に映るような、光に溢れた朱夏の中ではうまく呼吸が出来ない人たちはどんな世代にも一定の割合いて、そんな人たちがきちんと呼吸が出来る場所も、目立たないだけであるのだ。マイノリティ、なんて名前で呼ばれるその場所で嘗め合う傷の味を覚え、居座るようになってから、僕はどんどん深化し、のめり込み、思想を深めた。

 

 ただ、まだ僕はこの頃夏という季節を、ロックスターが言った言葉通りに、平面的にしかとらえてなかったように思う。世間が「夏の楽しみ方とはこうである」と決めつけるかのような誇大広告を跋扈させるのと同じように、僕自身は「夏はこうだから嫌いだ」と、ある種決めつけの様に考えていた。おそらく野球部に関する苦手意識も同じようなものなのだろう。まあ、例えかつての同級生の野球部一人一人に、ハンカチ片手にしないと聞けないような悲しい過去が有ろうと生理的嫌悪感が拭えないとは思うが。何回頭の中で殺したかな、中学の野球部で鳴らしていた同級生を。

 そんな、腹の底から嫌いだった夏を少しだけ変えてくれたのも、思い返せばやはり音楽だった。この時期によく聴いてた思い出深い音楽の中に、こんな一曲がある。

 

もうじき夏が終わるから

もうじき夏が終わるから

  • n-buna
  • アニメ
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

 

 この曲が収録された「花と水飴、最終電車」という5年も前に出たアルバムも、思えば随分長いこと聴いている。夏が来るたびにリピートしたくなる。新しい夏の切り取り方を、腹の底から嫌いだった夏の裏側を見せてくれた、大事な一枚である。

 

 

 夏の裏側で

 

 概念としての夏、という言い回しが、2年ほど前にTwitterで話題になった。僕はその頃はSNSというものにそこまで関心がなかったので、この言い回しを知ったのも最近なのだが、当時のツイートをまとめたtogetterを覗いてその言い回しがすとんと腑に落ちた。

 例えば夏風に揺れる縁側の風鈴とか、煙のように立ち上る大きな積乱雲とか、潮風と麦わら帽子とか、縁日と打ち上げ花火とか、うっすらと辺りを橙に染める夕暮れの中にどこか物悲しく響く蜩の声とか。そういう夏にしか観れない景色、夏にしか聞こえない音というものが少なからずある。騒がしく煩わしく暑苦しい、過剰に快活で空気の読めない年上の知り合いのような性質を持つ夏という季節の、静かでノスタルジックで、どこか物悲しい部分。つくづく僕は野球部とセットになってついてくる夏がどうしようもなく嫌いだが、夏という季節自体が持つこういう一面、及びそれを表す言葉の美しさを魅力的に思える心は持っているらしい。おそらく。

 

夢が言えないことに気が付いた

浅い夏よ 終わってくれよ

 n-buna――もうじき夏が終わるから

 

  種田山頭火や尾崎放哉、現代作家であれば道尾秀介あたりに影響を受けたと公言する彼は、夏の叙情的な一面を執拗に連ねつつ、独特の厭世観を含ませる歌詞を書く。

 今やネットで大人気のロックバンドヨルシカのコンポーザーとして活躍する彼を始め、米津玄師やwowakaが火付け役となったボカロブームから少し間を開けて、n-buna他数名のボカロPが頭角を現し始めた数年前。僕はこの頃腰を据えてボカロを聴いていたわけではないので具体的な勢力図などは全然分からないが、そんな中でも好んで曲を聴いていたボカロPが三人いる。このn-bunaと、ぬゆり、そしてバルーンである。

 

 

止まったままの雨は今日も日差しの中で乾いて
度を越した正体は無数の答えで網膜に溶けた

ぬゆり――錯蒼 

咽るような夏が嫌いだった
早く夜になれと願っていた
味気ない程、日々は無邪気に終わる

バルーン――夕染

 夏、という季節は暑苦しく押し付けがましい、世の中のすべてにおいて希望を見いだせる選ばれし人間のための季節である。分かり切ったようにそう断言するのは容易いが、同時に凝り固まってしまった固定観念を超えるには自分の力だけでは困難を極める。ある概念に対して恣意的に歪めてしまった認識を変えるためには、自分とは違う視点でそれを見つめる他者の視点が何より必要なのだと思う。

 どこか厭世的な視点を有しながらも、それぞれ何らかの感情を夏という季節に向けている彼らの綴る詞は、意固地になっていた僕に新しい視点をもたらしてくれるものだった。今まで知る由もなかった夏に由来する感情を、押し付けがましく感じることなく取り入れられた。落ち切ったはずの目の鱗が、まだ残っていたことに驚いた。

 ハヌマーンに音も詞の世界観も大きな影響を受けたと語るぬゆりの歌詞には、Don't Summerに起因するような夏に対する忌避感が見え隠れしながらも、どこか夏の有する叙情性に執着するような雰囲気が感じられる。熱されたアスファルトの匂い、白昼の蝉しぐれ、湿り気を帯びたまとわりつくような熱気。平面的に捉えればただ疎ましいだけのそれを淡々と綴る彼の立つ場所もまた、同じ夏なのだと思うと、それに執着するだけの見えない魅力があるのだと思うし、それをなんとなく理解できるような気もする。

 バルーンの書く詞は上記二人と比較すればそこまで夏に対する執着心というものは感じられないが、それでも節々に挟まれる夏の描写には悲壮感ややりきれなさ、寂寞とした雰囲気がうかがえる。独特な言語感覚で紡がれる彼の詞の根幹には、やはり夏という季節の、ふとした時に見せる胸がぎゅっとなるノスタルジーがあるのだと感じる。

 

 ある種の概念に抱いてしまった負の感情を絶対的な解答だと思い込むのは極めて楽である。見たくないものを見ず、触れたくないものに触れず、どうせ嫌いだからと遠ざけて好きなものだけを視界に入れ続ける。それ自体は間違ったことではない。無意識的に取捨選択を繰り返しながら長いようで短い生涯を絶えず歩み続ける僕らが生きる上で必須ではない物事に使える時間は有限なのだから。一度嫌いだと認識したものをもう一度捉えなおし、1から見直すのは相応に労力が要る。夏が嫌いだ、という認識を変えなくとも、不自由することなく生きていけるのだ。

 けれど、僕がただ嫌いだと言っていた夏にも色んな一面がある。暑さ、物悲しさ、きらめき、寂しさ、煩わしさ、切なさ。人類がそれぞれの季節に風情を感じるようになってから幾星霜を経て今に至り、その過程で取り込んだ多彩な感情が、数多の文化を創り出している。僕が嫌いだと語る夏は、あくまでそれの持つ一つの表情でしかない。僕はn-bunaを始めとするミュージシャンたちが描く夏に触れられたことで、ようやくそれを理解できたように思う。未だに苦手な季節ではあるけど、嫌いだと思ってしまうことは減った。

 このように音楽は、その物事を改めて捉えなおすための労力を軽減して異なる思想・価値観に触れさせるという点に関して、他の娯楽より格段に長けているのだと思う。

 鬱屈とした学生時代を根に持つあまり、好きになり損ねた夏の裏側を見つけるのに、思えば随分と長い時間を掛けてしまったように思う。でもだからこそ広がった視野も、見える景色もあるのだろう。少なくとも今、夏の暑さは前ほど嫌いじゃない。

 

 

 被食者ならば

 

Dizzy Trickster

Dizzy Trickster

  • provided courtesy of iTunes

 

ああ みんなが大好きな物語の中じゃ

呼吸がし辛いんだね

UNISON SQUARE GARDEN――Dizzy Trickstar

 

  ライオンとシマウマの見え方の違い、ひいては肉食動物と草食動物の視野の違い、というものを、大昔に理科の授業で習った。もう十年も前に習ったことなので若干うろ覚えだが、かいつまんで言うとライオンは獲物との距離を正確に認識するために立体的に見える範囲が広く、シマウマは外敵をいち早く察知するために視野そのものが広い、というものだ。

  ずっと上で『自分は被食者側だと自覚する季節が大抵夏だった』と書いた。物心ついた時から何かに虐げられ、ささやかな尊厳を踏みにじられながら生きてきた僕は、何があろうと被食者の枠に入れられる生き物だったのだろうと思う。食われ折られないように常に気を張り、捕食者の視覚に入らないように息を殺すことに神経をとがらせる集団生活を今まで送ってきたし、これからもそれは変わらないと思う。

 

 音楽を含め、各種メディアの広告に乗っかる多彩な娯楽は、ほとんどが捕食者の側を向いている。その娯楽をストレートに受け止めることの出来る人たちの方を向いている。提示された娯楽を適切な距離感にて何の不自由もなく受け止めることの出来る彼らと、嫌いなものが多く素直に受け止められない自分を比較した時に、自分が持てる数少ない強みがその視野なのだと思う。

 捕食者から逃げるための視野ではなく、疑り深い自分が寄り掛かれる強度のある娯楽を探すための視野。これが絶対的な正解である、と決めつけて思考を止めないための、視野。それに加えて、一見趣味に合わないようなものでも一度引き受けれる程度の度量まで備えられたら最高だと思う。人間的に未熟なもので度量の方はまだまだだけど。

 もう10年近く前、野球部に虐げられた学生時代のことを未だに根に持っているほどのドの付くみみっちさをなぜだか捨てきれず、今でも週1くらいのペースでどう苦しめて殺すかを妄想している、自分でも嫌になるほどに腐った性根を抱えている僕が彼らと同じくらい音楽を含めた娯楽全般を楽しむためには、常に何かを探し、考え続けなければならないのだと思う。世間一般が提示する娯楽の中では呼吸がしづらいのならば、不自由なく呼吸が出来るレイヤーを見つければいい。音楽ならば、それは割と容易い。

 

 かつて好きになり損ねた夏の裏側で、僕は今年も息をしている。液晶画面の向こう側で雄たけびを上げる色の黒い男子高校生から目をそらしながら、今日も自分の世界と向き合っている。音楽の力で夏を克服できたように、いつか身を蝕む過去の記憶と決別し、高校野球に熱くなれる日が来るのかもしれない。今は一生来なくていいやって思ってるけど。やはりまだ視点が一辺倒でダメだ。

 嫌いで憎くて仕方ない全国の高校野球部諸君やそれを尊ぶ文化に対しても、野球部に入っているというむくつけき一面だけで捉えるのではなく、もっと趣味や好きな女の子のタイプとか、そういう人間的な部分を見つめて、見つめ、見見見うんやっぱ無理

 

 

ライブ自粛が長いので、とてもつらい

 邦楽ロックは酸素! だとかNo Music No Life! だとか、そういう誇張極まりない妄言を放つつもりは毛頭無いが、こう自粛が続くとあり余るフラストレーションの矛先をどこに向ければいいか分からなくなってくる。今年最後にライブ行ったの2月の頭なんですよ。もうかれこれ5か月はライブに行ってないことを考えるとちょっと信じられない。

 何もかもにっくきコロナウイルス君のせいであるこの一連のイベント自粛の波は収まることを知らず、どころか東京を中心にまさかの再拡大の雰囲気すら匂わせている。重症者数がどうとか検査数の増加によるものとか、意見は人の数ありTwitterは今日も炎上しているが、ライブハウスの門扉が未だ固く閉ざされていることは間違いない。来年に延期されたオリンピックの開催すら危ぶまれている現在、ライブイベントの完全復活などまだまだ先の話だろう。憂鬱である。

 邦楽ロック趣味を確立してから今の今まで、これほどまでに供給が滞ったことは無い。僕の好きなアーティストはライブが延期や中止の憂き目に遭ってもライブ配信などといった形で音楽を届けてはくれるものの、やはり生のライブが恋しい。一度ナマの快感を知ってしまったら、もうゴム、もとい画面越しには戻れないんですよ。

 こういうドストレートな下ネタを突っ込むのもコロナ自粛による精神の摩耗のせいです、という華麗で安易な責任転嫁をしつつも、実際問題自粛期間が長すぎて、僕は自粛前はどうやって退屈をつぶしていたのかを忘れている節がある。ライブという非日常、に触れられないのが長すぎるが故の非日常。嫌すぎる。

 

 このままではつもりにつもった退屈に押しつぶされて死んでしまうわけだが、そもそもコロナに関してコメンテーターが朝のニュースで騒ぎ始めた今年の頭では、僕はわりと楽観的に考えていた。感染が本格的に拡大し始めて、2月に行く予定だった米津玄師のライブが延期になった時も、阿呆の申し子たる僕は事の大きさがあまり理解できておらず、むしろ世界が混乱しているさまに小学生のころ台風が上陸し休校になった時のあの高揚感みたいなものを感じて勝手にワクワクすらしていた。

 そんな僕だが、3月に行く予定だったライブが全滅したことでこれは本当にマズいのでは、と脂汗をかきはじめ、今年に入って一番楽しみにしていたユニゾンヒトリエの対バンが延期になってしまったことで完全にバグり、嘔吐し、失意の念に駆られながら異物を産みだし、ついにコロナ絶対殺す教の信者になってしまったわけだ。だれにも言ってないからここで告白するが、通販で藁人形と五寸釘を買いかけたのは初めてである。注文直前にコロナウイルスには髪の毛がないことに気付いて、人生初の丑の刻参り決行は未遂に終わったのだが。

 

 ライブ観戦の自粛が2か月続くと人は妄想でライブに行ってそのレポートを書くことが4月の僕によって証明されているわけだが、はたしてこれ以上続くとどうなってしまうのか。自粛から5か月が経過した現在僕の身で言えることは、「倦怠感がヤバい」である。

 ライブに行かないのであまりに日々の生活にメリハリがない。起きて仕事に行って帰ってYouTube見てTwitterやって寝て起きて仕事に行って、を繰り返すだけの機械と化している。そのYouTubeに関しても最近よく観ている動画がアーティストのMV以外は「よく知らんオジさんが堤防で釣りする動画」か「怪しい整体師がよく知らんオジさんの関節を鳴らす動画」か「よく知らんオジさんがDIYに挑戦する動画」な時点でわりと人として終わっている気がする。どこにも行けないのでとりあえず視覚だけでも異世界に行こうとしている様子はなんとなくうかがえるのだが、その「異世界」のレベルは格段に落ちている。まず「異世界」ですらない。バチバチに日本

 職場で見知ったジジイの面を観ながら業務をこなし、帰宅してTwitterを触りながら見知らぬジジイの面を拝む作業を繰り返している。諸行無常ここに極まれり、みたいな精神状態。日々のストレスで体内につのる毒素をデトックスする手段をライブ以外にろくに持ち合わせなかったゆえの弊害が、健全な25歳を敬虔なるジジイ・ウォッチャーの道へと引きずり込んでいる。

 そもそも釣りも整体もDIYも僕にとっては全くと言っていいほど関心の無いジャンルであり、時間を割いて試してみよう、という気概すら現状一切ない。ただ一生使う当てのない豆知識を披露しながら一喜一憂するジジイを眺めているだけである。精神状態としては動物園でロバなんかを眺めているときに近い。この世で一番無駄な時間を過ごしている気がする。ユニセフとかが僕の今の姿を見たら怒るんじゃないか、「あなたがアホ面晒してジジイを眺めているこの時間にも、アフリカでは恵まれない子供が亡くなっているんですよ?」とか言って。

 こうして使う当てのない無駄知識を蓄え、名前もろくに知らないジジイの趣味嗜好を無駄に理解しながら、湯水のようにプライベートな時間を消費している。心機一転、何か違うことに時間を費やそう、という気分にもならない。ただただジジイの顔を見ている。YouTubeに生息する日本全国のジジイを、ただ凪いだ心で片っ端から眺めている。

 

 これがライブ自粛5か月目の男の精神状態である。自分で書き起こしてげんなりしてしまった。いっそのこと資格取得の勉強とか、筋トレとか、そういう後々の自分のためになることに費やすべきでは? と思ってはみるものの、結局職場から戻ればジジイの顔を眺める日々が続いている。知らないジジイに依存している。この男性はもしかしたら知らぬ間に精神でも病んでいるのではないだろうか。

 YouTubeで知らないジジイの動画を観始めたときと比べて、明らかに1日の視聴時間が増えている今日この頃のことを考えると、この自粛状況があと1、2か月ほど続けば、計算上僕の1日の3分の1をジジイ・ウォッチングが占めることになる。1日の予定を示す円グラフの内訳、仕事・睡眠・ジジイ。もはや生きるためにジジイを観ているのではなく、ジジイを観るために生きている。深刻。取り柄が「YouTubeに生息するジジイに詳しい」だけの成人男性が爆誕してしまう。まさにジジイ・フリーク

 ジジイ・フリークはYouTubeにて収益を得ているジジイのことなら何でも知っている。釣り、整体、DIY、キャンプ、カードゲーム、雑談生放送、炎上芸エトセトラエトセトラ、貴方の今の気分に合わせて最適なイキのいいジジイを選んでくれる。ジジイ・フリークは生きるジジイ辞典であり名誉ジジイ博士でありあなたに寄り添うジジイ・アドバイザーである。

 退屈にあえぐ人を活発なジジイで助けてくれるジジイ・アドバイザーは知る人ぞ知る、という形で密かに人気を博していたが、次第に国民全体の関心を集めるようになる。国民が「ジジイ」という退屈を紛らす金脈に気付いたのだ。

 高齢男性特有のおおらかさ、カラッとして開けっ広げな立ち振る舞い、そこから微かに醸し出されるダンディズムと、全てを包み込むような柔和な雰囲気。自粛に次ぐ自粛、ギスギスする国際関係、日夜争いの続くSNS、終わらない責任問題に疲れ果てた国民が、この世で最後のサンクチュアリたるジジイにたどり着き、飛びつくのは必然だった。瞬く間にYouTubeの急上昇ランキングは素人高齢男性の映ったサムネイルで埋め尽くされ、今まで人気だった若手YouTuberは一気に凋落の時を迎えた。

 活性化するジジイ・コンテンツ。持て囃されるジジイ・カルチャー。ジジイ動画は伸びに伸び、チャンネル登録者数は破竹の勢いで上昇し、ジジイ・グッズは飛ぶように売れた。最初は固い脳みそに違わず懐疑的だった素人ジジイ共も一気に富裕層のスターダムを駆け上がる同年代のジジイを目の当たりにしたことで、2匹目のドジョウを狙わんと我先にYouTubeに手を染め、日本YouTuber界隈は劇的に高齢化が進んだ。この加齢臭立ち込めるジジイ・レボリューションを、後世のインターネットでは「ジジイ・カンブリア・エクスプロージョン」と呼ぶ。なお、この空前絶後のジジイ・ブームに乗っかるように「YouTu婆」というアバターを用いたおばあちゃんYouTuberが一瞬話題になったが、特に根付くこともなくすぐに国民の意識から消失した。おはぎと筑前煮と演歌で伸びるほどYouTubeは甘くなかった。

 その影の立役者となったジジイ・フリークも一躍時の人として名を馳せ、ジジイ・ブームの火付け役として各種メディアに引っ張りだことなった。テレビやラジオではジジイ・エキスパートとして昨今のジジイ・ブームについて言及し、新聞や雑誌にはジジイ・コラムを寄稿し、ジジイ文化を題材にした映画製作が決まればジジイ・アドバイザーとして監修を行う。まさに八面六臂の大活躍。人は彼のジジイに対する圧倒的な知識量と全身から醸し出されるカリスマ性を称え、敬意を表して彼をジジイ・マスターと呼んだ。

 

 

 眠らない街・東京の六本木ヒルズ屋上、両脇に傾国の美女を侍らせ、札束のプールの中でぶっとい葉巻を吹かすジジイ・マスターは、恵まれた現状に満足しながらもどこか虚しく、満たされない日々を過ごしていた。

 日本全土の60%の富を独占し、アメリカ大統領ともタメ口で話せる絶対的な権力を有した日本最高峰のジジイ・フリークたる彼は、おおよそ体験できるすべての贅沢を堪能しつくしたつもりだった。否、仮にもし堪能していない娯楽があったとしても、指を一つ鳴らせば世界各国どこの娯楽でも一瞬で手元に持ってこれるほどの絶大な権力とコネクションを、彼は有していた。

 その気になれば今この場でライオンと白熊をバトルさせることも、ジャニーズに鼻フックをさせることも出来るほどの金と権限を持っているにも関わらず、彼のこころはどこか満たされない。両脇の傾国が彼の頬に唇を寄せようとも、彼の心はどこか空虚を抱えている。まるで、ここに至るまでに大切なピースを一つ落としてしまったかのような……

 何が足りないのだろう。悲しいほどに満たされたこの世界で、何故まだこころは体験したことのない刺激を求めるのか。夢を見るのか。何を欲するのか。人間の欲求とはかくも根深いものなのか。ジジイ・マスターは口から紫煙をくゆらせながら、人間の業の深さ、欲深さを憂いていた。

 

 ふと、何かが彼の鼓膜を微かに揺らした。

 

 クラクションでも、都会の喧騒でも、札束が擦れる音でも、鈴虫の声でも金糸雀のような両脇の美女の声音でもない、どことなくざりっとした、硬質の音。夜風に乗ってどこからともなく聴こえてきたその音は、次第に輪郭を帯びて彼の鼓膜を震わせる。

 一定のリズムで鳴らされる打楽器の音、腹に響くような重低音、ソリッドで硬質、しかしどことなく懐かしい響きのする、件のざりっとした音色。ほんの微かに、誰かが歌っているような声も聞こえた。各々どこか歪で、無骨で、粗のある音。それらが混ざり合い、互いに調和し合い、一つの音楽を形成している。

「やれやれ、今時ロックですか」かれこれジジイ・マスターとは20数年の関係となるベテラン使用人が、グラスを拭きながらため息交じりに呟いた。

「ロック?」

「一昔前に流行っていた音楽形態ですよ。ギャンギャンやかましいギターと指の動きが気持ち悪いベースとズンズンうるさいドラムをバックに、別れた恋人とのセックスの思い出を歌うだけの、野蛮人の音楽です」

「へえ……どうして廃れたんだ?」

「致命傷となったのは10数年前のコロナショックです。世界的な感染症が原因で各地のイベントが自粛を余儀なくされ、稼ぎ口が無くなってそのほとんどが滅びました。ついでにそのロックバンドの演奏の場だったライブハウスも多くは度重なる自粛期間の延長によって資金難に陥って廃業し、そこを縄張りとしていたロックバンドは音楽発表の場を失い、バンドだけでなくロック・ミュージックそのものも急速に滅びていきました」

「自粛…………」

「所詮は後先考えないことを美学とし、猪よりも方向転換の利かない、頑固で不器用な人間が集まった界隈だったのでしょう。あんなものにお金を払うなんてどうかしていたんですよ当時の人間は。換気扇の音でも録音したCDを聴いている方がまだマシです。……それにしても本当に騒がしい音楽ですね、いっそ排除を検討……」

「………………」

「…………マスター? どうかしましたか?」

  首を傾げる使用人の声が自身の心臓の音に紛れ、とても遠く、遠く聴こえた。

 両脇に傅く美女二人の豊満な肢体をゆっくりと払いのけ、札束の海の上立ち上がるジジイ・マスター。その筋骨隆々としながらもどこかしなやかさすらも感じさせる、圧倒的に均整の取れた完璧な肉体が、東京を煌々と照らす満月によって露わになった。ほう、と漏れたため息は美女か、使用人のものか。ジジイ・マスターにはもはや何も聴こえていない。今聴こえているのは自身の「魂」の声だけだ。

 皮膚をめくり、肉を切り裂き、骨を砕いた神経のその最果ての階層、らせん状に連なる自身の設計図が、微かに、しかし確かにその音を覚えている。つむじから足のつま先まで張りつめた末梢神経が、急速な電気信号を送っている。つま先から脳へ、脳から心臓へ、心臓から全身の筋肉へ。常識を超えたインパルスの応答。

 

 肉体が叫んでいる。魂が求めている。音が、彼を、

 

「――――呼んでいる」

 

 微かに唇を震わせる程度の呟きは、札束の舞い上がる音に掻き消えた。

 突然の風圧に悲鳴を上げる美女と、思わず顔を両手で覆う使用人。三人が目を細めてかろうじて捉えた視界には、ひらひらと月下に舞い落ちる無数の紙幣と、もはや見飽きた眠らない街の夜の姿、そして上空238メートルから飛び降りる一糸まとわぬ完璧な肉体美。呆気に取られる三人をよそに、ジジイ・マスターは空を飛んだ。その目からは涙があふれていた。思い出したのだ、全てを。

 マッハ2を優に超える落下速度の中完璧な受け身にて無傷の着地に成功した全裸のジジイ・マスターは、その音の鳴る方向へ夜の港区を全速力で駆けだした。まもなく上がる甲高い悲鳴と不躾な笑い声、轟く怒声、投げつけられる空き缶。一斉に向けられるスマートフォン内臓のカメラ。まもなくジジイ・マスターの醜態はSNSで爆発的に拡散され、世界中の笑い者となり、彼はこの一夜にて築き上げた富も地位も名誉も、ジジイ・マスターの称号もすべて失うだろう。だが、彼にとってはもうどうでもいいことだった。

 

 かつての相次ぐ自粛によって奪われた原初の快楽、落としてしまったピースのひとかけらを彼はようやく手に、いや、耳にしたのだ。鼓膜を貫くソリッドな鋭角サウンド、心臓にまで響く重低音、ステージごと魂を揺らさんばかりの大迫力の轟音。そうだ、生のロックバンドのライブはこんなに素晴らしいものじゃないか。なぜ今まで俺は忘れていたのだ。何がジジイ・マスターだ。あんなつぼ型通り越して逆ピラミッドのお先真っ暗な界隈で、俺は一体何を偉そうに振舞っていたんだ。随分と、無駄な時間を過ごしてしまった。

 

 まもなくサイレンが鳴り響く。警官の怒号が東京の夜を揺らしている。だが彼の目には一点の曇りも、一縷の迷いもない。煌々と輝く満月が照らす不夜の街で、彼はその音だけを聴いている――――